COLUMN

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Out of Tokyo

110:アートと社会的責任II
小崎哲哉
Date: March 31, 2005
Artium

スペイン(とドイツ)で考えたことをもう少し書きたい。というのも、ARCOを取材した後、やはりスペイン政府観光局のご厚意で、ビトリア、サンセバスティアン、ビルバオの三都市を回ったからだ。ビトリアではバスク現代美術館「Artium」や、改修&復元工事中の聖マリア教会などを見学した。サンセバスティアンでは、彫刻家エドゥアルド・チリーダが、16世紀の農園を晩年に自ら改築したという美しい記念庭園を散策した。ビルバオでは言わずと知れたグッゲンハイム・ビルバオを見た。いずれも素晴らしい経験だったが、書きたいのはそのことではない。


「ETA NO」と(ふたつの言語で)書いてあります

このエリアは、いわゆるバスク地方である。バスクと言えば、前回ちょっと触れた分離独立の気運が盛んな土地だ。爆弾テロを起こしたETAの支持率は、現地の新聞によればいまや7パーセントしかなく、市庁舎には「ETA NO」とのサインが掲げられていた。とはいえ、カタルーニャと同じく(あるいはベルギーやスイスなど多言語国家の諸都市と同じく)、街の交通標識などには、スペイン語とバスク語のふたつの表記が見られる。美術館などの説明書きやパンフレット類も同様だ。


ビトリアにて

街を歩いていたら、写真のような落書きが目に入った。「仲間が殺された」「社会民主主義者(社会労働党)はファシストだ」といった意味だろう。街の雰囲気は取り立てて剣呑ではなく、ビルバオなどは都市開発がうまく行って非常に元気な印象を受けたが、ともあれこういう現実が存在する。そしてヨーロッパの国の常として、市民は政治には敏感である。メディアもそれぞれの立場で状況を報道し、無関心層も増えているとはいえ、情報は広く共有されている。

 

そういった環境においては、アートなどの表現行為に現実が及ぼす影響は小さくない。例えば「Artium」では、ベオグラード生まれでアクチュアリティに材を採ることが極めて多い、マリーナ・アブラモヴィッチの小さな個展が開かれていた。『Count on Us』と題する5面スクリーンの映像作品で、ある画面では作家本人が扮する骸骨に指揮されて子供たちが歌い、別の画面ではやはり作家と子供たちが星の形に寝そべっている。さらにもうひとつの画面では、作家がひとり無線コイルの脇に立ち、チャップリンの『独裁者』よろしく地球に見立てた球体と戯れ、ときおり大音響とともに雷のように電流が走る。解説によればバルカン地域の紛争の際に無関心だった国際社会を批判する作品で、「Us」は「us=我々」と「United States (of America)」を掛けているということだった。


Museo Chillida Leku
Guggenheim Bilbao(手前はジェフ・クーンズ作品)

数日前にいたベルリンでは、KW Institute for Contemporary Artで『Regarding Terror: The RAF-Exhibition』というタイトルの展覧会が開かれていた(1/30-5/16)。「RAF」は「Red Army Faction」の略で、西独赤軍派、いわゆるバーダー=マインホフ・グループなど、20世紀後半以降のテロとそれに関する報道をテーマとしたものだ。「テロリストを称揚するもの」として遺族らが猛反対していると、現地紙ばかりか『ニューヨーク・タイムズ』など外国紙も報じていた。ゲルハルト・リヒターやジグマール・ポルケら大物が出展し、ダグ・エイケン、カーステン・ヘラー、チャップマン兄弟、それにアブラモヴィッチら著名作家がebayで作品を売って、国がキャンセルした基金を補填したということも話題となった。

 

要は、社会的・政治的現実が報道され、表現者がそれを作品化し、さらにその行為が話題となり……という情報と現実の循環的相互影響が、メディアを介して行われているということだ。結果はもちろん様々だろうが、これ自体が健全なループであることは言うまでもない。

 

翻って極東の島国を見ると、あらゆるメディアがライブドアとフジテレビの「金持ち同士の喧嘩」のニュースに狂奔している。いずれどこかのおっちょこちょいが、敵対的買収をテーマにアート作品をつくったりするんじゃないか。アートとアーティストの社会的責任論議の前に、メディアの社会的責任について考える必要があると思う。

寄稿家プロフィール

おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。