COLUMN

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Out of Tokyo

093:横浜美術館の失態 I
小崎哲哉
Date: August 05, 2004
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横浜美術館

横浜美術館で開催中の『ノンセクト・ラジカル 現代の写真III』は、非常に筋が通ったグループ展だ(9/20まで)。イスラエルvs.パレスチナ紛争の陰に隠されたベドウィンの日常(アハラム・シブリ)。米兵相手のバーで働く沖縄のフィリピン人ダンサーたち(石川真生)。一見ただの美しい風景に思えるが、実はコソボ戦争の最前線や南北朝鮮国境の地雷原などなど(米田知子)……。トマホークの発射音と着弾音を口笛で表現する青年のビデオの後に、野原でサッカーに興じる少年たちの映像を観ると、シュートの瞬間にその着弾音が脳裏によみがえる(アンリ・サラ)。いずれもが普段は不可視の、あるいは意識に上らない「現実」を生々しく捉えている。だがこの展覧会には、決して埋められない大きな欠落がある。高嶺格のビデオ作品『木村さん』が、開催直前に公開中止となったのだ。

 

「画竜点睛を欠きましたね」。担当学芸員の天野太郎は、僕の質問を待ちもせずに開口一番こう言った。僕もそう思う。『木村さん』はたった9分の小品で、登場するのは一級障害者である木村さんと高嶺だけ。それも高嶺は、目と手と声だけである。だがそれだけで、戦争や差別や支配被支配をテーマとした他の作品と十分に拮抗している。いや、個人の内面の奥深くにある強い衝動に踏み込んでいるという点で、表面的には外部をテーマとする他の作品と一線を画し、それらとの相乗効果を期待しうる作品であるとも言える。作品の質の高さもさることながら、「画竜点睛を欠く」というのは主にそういう意味だろう。

 

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2001年8月にスカイ・ザ・バスハウスで行われたパフォーマンスより(写真:Ohtaka Kanako)

木村さんは森永砒素ミルク事件(*)の被害者で、意識も思考もしっかりしているが、手足は動かせず、口もきけない。だが表現欲求は人並み以上にあり、劇団態変のメンバーとして舞台に出演し、バンド活動も行っている。高嶺は自分と木村さんが「元々似た人種」だと思い、京都に暮らしているあいだ5年間ほど、ボランティアで自宅介護を行った。その介護には、当然ながら性的なものも含まれる。「当然ながら」と書いたのは、木村さんが性的には健康な男性であり、それなのに自ら欲求を満たすことができないからだ。


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カメラは基本的にはベッドに横たわる木村さんを捉えつづける。モノクロの映像は同じものが2面のスクリーンに投影され、突然左右非対称の目のアップが現れることがある。以前に同じ映像を用いて行ったパフォーマンスの折の、高嶺自身の目だ(つまりこの作品は「ビデオ<パフォーマンス<ビデオ」という入れ子構造になっている)。横たわった木村さんのパジャマ(?)をはだけ、上半身を撫でまわす手も高嶺のものだろう。腹部から胸にかけてゆっくりと動かされる手。ときおり乳首のあたりで、揉むでもなく抓るでもなく、指先が遊ぶ。その手は下腹部に移り、ペニスを握り、ゆっくりと上下させる。


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高嶺による(本人曰く)「拙い」英語でのナレーションが挿入される。「障害者を表す『disable』という言葉にどうしても違和感を持つ」「木村さんも僕もゲイではない」「『このビデオを公開してもいいか』と聞いたら、木村さんは顔をくしゃくしゃにして『いい、いい』と言った」などなど。日本人が語る英語と、その英語に対して日本語字幕がつくというスタイルによって、あるいはいくたびか挿入される目によって、さらにはモノクロームの映像によって、画面を見ることにはかすかな非現実感が漂う。高嶺は木村さんのペニスを撫でさすり続ける。編集過程で加えられたという声がそのシーンに重なる。そして射精。性器の先端から、精液がスローモーションでほとばしり出る。


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次の瞬間、聞いたこともないような哄笑に、観客は度肝を抜かれる。それはもちろん、解放感あふれる愉悦を得た木村さんの、獣の雄叫びに似た底なしの笑い声だ。気がつくと画面はカラーになっている。木村さんは笑いつづける。高嶺はその声を録りつづける。観客は度肝を抜かれつづける……。出展されるはずだった『木村さん』はそんな作品である。

【この項、続く >> 94:横浜美術館の失態 II


*森永砒素ミルク事件:1955年、森永乳業が製造した粉ミルクに砒素化合物が混入していたため、乳幼児138人が死亡した事件。被害者は1万人以上に上るといわれる。

寄稿家プロフィール

おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。