

『In-between』なるアートカンフェランスに招かれてソウルに来ている。今年の1月から2月にかけて東京・赤坂の国際交流基金フォーラムで開かれた、中韓日のグループ展『アウト・ザ・ウィンドウ』の韓国人キュレーター、ソ・ジンソクと、彼の同僚、ユン・チェガブが企画したものだ。アジアを中心にカナダ、フランス、ニュージーランド、オーストラリア、米国などから、オルタナティブスペースの運営者や、批評家や、アート雑誌の編集者らが集まって、韓国3大放送局のひとつSBSの真新しいホールで3日間朝から晩までプレゼンや討論を行い、ついさっき終わったばかりだ。打ち上げ三次会のカラオケ行きを辞退して、ホテルでこの原稿を書いている。
初日は15のオルタナティブスペースが、映像を交えて各自の活動をプレゼンした。国情が違うと運営の形態も内容も非常に異なる。比較的最近、しかも外国人主導型で活動が始まった事例が、僕には特に面白かった。上海のビズアートや、ジャカルタのセメティ・アート・ハウスなどがそれに当たる。時々の政治体制による圧力があったことはもちろんだが、アウトサイダーだからこそコンテンポラリーアートを根付かせることができたのではないかという。「まれびと」が文化状況の変革を促した好例だろう。

2日目はパネルの議論が白熱した。中国のインディペンデントキュレーターにして批評家のフアン・ドゥが「ヨーロッパと近いロシアなどとは違い、中国には決して滅びることのない固有の文化がある。それを西洋は理解してくれない」と口火を切り、議論はアジア性、あるいはアジアに固有なアートの可能性に移るかと思われた。だが、ニューヨークはニュー・ミュージアムのアソシエイトキュレーター、神谷幸江が、「西洋人がアジアのアートを理解できないということはない。ネットワーキングのおかげで相互理解は深まったし、深めるべく努力するのが我々の役割では?」と切り返した。
それを受けて、ヴェネツィアビエンナーレ2003の韓国コミッショナーでもある美術史家のキム・ホンヒーが「かつてはオリエンタリズム的な視点で西洋に作家を提示する時代があったが、その時代は過ぎている」と述べたところ、今度はギャラリーQのディレクター、上田雄三が2000年の光州ビエンナーレでアジアセクションを担当したときのエピソードを披露した。馬の尻尾や蹄鉄を使うような伝統的なアーティストがいると聞いてモンゴルに行くと、当人は先端的なミニマルアートを出展したいと主張した。上田は、自分が「西洋の目」を持っているのかもしれない、と混乱したという。
最終日の5/12には、「アジアにおけるアートジャーナリズムの役割」をテーマに、『Art in Culture』誌編集長キム・ボッギ(韓国)のモデレーションのもと、『Art AsiaPacific』誌編集長フランクリン・サーマンス(米国)、『現代藝術』誌編集委員ピー・リー(中国)、そして『ART iT』編集長の小崎(日本)が講演を行った。僕は「西洋/非西洋という一方向的でトゥリー構造的な構図を脱却して、多元的でネットワーク構造的な構図に変えていこう」という趣旨の原稿を用意していたのだが、神谷さんの発言で少し内容を修正した(こういうところが、ライブのノリというか、実際に顔を合わせるカンフェランスのいいところだろう)。曰く、オルタナティブアートというある種のカウンターカルチャーを支持する我々こそ、西洋/非西洋という二元論を廃して、全アジアをカバーするようなネットワークをつくりだし、強化すべきではないか? もちろん全アジアをカバーすることが、トゥリー構造の脱却につながることも含意したつもりだ。

この主張は、少なくとも会議の会場では多くの賛同を得られ、具体的には、近い将来、共同でメディアをつくることを目指そうということになった。雑誌になるのかウェブサイトになるのかはまだわからない。だがいずれにせよ、隣の国でどんな作家が生まれ、どんな作品が話題となり、どんな展覧会が行われているか、一般のアートファンが簡単に情報を入手できないような現状は変えられなくてはいけないだろう。すべてはそれからだ。
実をいえば、ある参加者から「特に上の世代の問題設定が古すぎる」というオフレコ発言を聞いている。とはいえジャーナリスティックな視点からは、そのことによって問題と対立点の所在が明らかになったとも言える。主催者の情熱、周到な準備、ホスピタリティと相まって、僕にとっては非常にエキサイティングな体験だった。カンフェランスの結果は2〜3カ月の内に何らかのかたちで公にされるというから請うご期待だ。
寄稿家プロフィール
おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。