
久しぶりに骨太の芝居を観た。いや、「芝居」と言っていいかどうかはわからない。ライブコンサートのようでも、映像インスタレーションのようでも、コンテンポラリーダンスのようでもあったからだ。とはいえ、今日び大流行の、何でもアリの「お子様パフォーマンス」とはまったく違う。ARICAの『ミシン』は、構成も美術も音響も考え抜かれた、昨今珍しい大人のテーストを持つ舞台だった(3/13〜17。筆者が観たのは楽日)。

会場は西麻布のスーパーデラックス。奥に向かって細長く伸びる地下の空間に、やはり細長くて低いテーブルが、花道のようにまっすぐに置かれている。客席はテーブルを取り囲むようにコの字型に配置され、「コ」の字の左端に、無骨な鉄パイプで組まれた工場の一室、あるいは工事現場の一隅のような「舞台」がある。ビルの構造を揺するような金属音と、嵐のような「ひゅー」という音がときおり聞こえるが、それがパフォーマンスの一部なのか、折しも外で吹き荒れていた本物の春風のものなのかは判然としない。
主役の安藤朋子は、Tシャツとノースリーブのつなぎを重ね着し、膝を抱えるように下手でうずくまっていた。舞台中央には、旧式のミシンが1台。鉄パイプにはさまざまなオブジェのようなものが吊されている。背後の壁面には、東京の風景写真や、ミシンのパーツや、何だかわからないものが次々に映し出される。全体に不穏な雰囲気が立ちこめている。
立ち上がった安藤が、テーブルの周りをぐるぐると走り回る。何周かした後「舞台」に戻り、天井からぶら下がっていた帆布のようなものを下ろして、リズミカルにミシンを踏みはじめる。帆布と見えた布は、実はパラシュートの風をはらむ部分だった。ディレイマシンをかませたエレクトリックコントラバスの音が、絶妙なシンコペーションでミシンの音とからむ。戦争に関わるブレヒトの、そのブレヒトに関するベンヤミンのテキストが読み上げられ、あるいは映写される……。

テーマが近代における労働であることは、道具仕立てからしても明らかだ。安藤が演ずる「女工」は、ほとんどすべての動作を、キャスター付きの椅子に座ったまま行う。椅子から立ち上がった場合でも、大きな身振りでパラシュートにアイロンをかけ続けるなど、「労働」から離れることはまったくない。ちなみにこのシジフォス的なシーンは(パラシュートがいずれは戦地で消費され、「労働」が限りなく続けられることはほぼ確実だから、「シジフォス的」といっても差し支えないだろう)、上からぶら下がる電球のソケット部分に差しこんだコードがしょっちゅう抜けたりして、抱腹絶倒ものだ。電球の位置が安藤の背丈よりわずかに高く、笑いを誘うべく細かく計算されているのがわかる。
「女工」はもちろん疎外されているのだろうが、「労働」のさなかには笑みを絶やさず、喜びを感じているように見えることすらある。だが、これがソフトな管理社会であることは、唯一外界と通じているオブジェが(統制的な国家権力と結びつきやすい)ラジオであり、不意に鳴り渡る暴力的なベルの音が「女工」の動きを止める瞬間があることからも想像される。超越者は一見不在のようでいて、まぎれもなく背後に存在しているのだ。
このコラムは劇評ではないからこれくらいにしておくが、ビルの地下にあるスーパーデラックスが、文字通り「アングラ空間」と化した一夜だった。といっても、1960年代のような汗くささはなく、正統的にして現代的なアヴァンギャルドピースだったと思う。終演後に余韻を楽しみつつビールが飲めることも含め、このように知的刺激に充ちた大人の娯楽がもっと増えてほしい。ちゃらちゃらした子供の文化ばかりじゃ、ちょっとね。
寄稿家プロフィール
おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。