
【承前】
反論を続ける前に、ひとつご報告。前回のコラム掲載直後にD氏から丁重なメールが届いた。「『私信なので名前を明かしたり、全文掲載したりしないでほしい』などとは言っていない。『公開を前提とした私信ではないし、公の場におけるこんなにも直接的な批評に小崎さんを引きずり込みたくない』とは書いたが、力点はその後の『しかしながら、本当に拙文を公開したいのであれば文句は言わない』に置いていたのだ」と書かれていた。
ちょっと考えたが、やはり、名前の公開も全文掲載もしないことにした。D氏の批判には耳を傾ける点が大いにあり、ある種「普遍的」な疑義の提出と受け取れる。だとすれば重要なのは批判の中身であり、それを述べた人物の名前ではないだろう。また氏の趣旨は明快であり、それは要所を引用すれば読者に伝わる。意図を誤解したことをD氏にお詫びするとともに、この方針をもご理解いただければと思う。——というわけで、さて続きだ。

D氏は、僕が書いたコラム「20のうんこと20000のうんこ」にも苦言を呈している。僕が、作品は「大きければ大きいほどよい」と述べているというのだ。だが、書いてもいないことに文句を付けられても困る。僕は「僕がアートに求めるのは」と断った上で、アーティストに(十分条件ではなく)必要条件としての「過剰な欲望」の表現を望んでいると記し、欲望はともかく表現が的確になされなかった例として、カオリとマリ子の小さすぎた作品を挙げたのだ。ただ大きければいいなんて間違っても言わない。当たり前でしょう。
そして最後に、僕が同じコラムの中で「魂のほとばしり」を称揚したことが俎上に載せられる。「このアート理論は19世紀の半ばにピークに達し、20世紀を通じて完全に信用を失ったものであるだけに、現代において野心的なアート雑誌を志すものの文脈でそれを読むのは非常に奇妙に思える」。ふはははははは、野心的であるからこそ、あえて20世紀的な、袋小路に陥っている「専門家」のアート理論に異を唱えてみたのですよ。
「アート」がその領域を拡げてゆくに連れ、アーティストの自由も広がっていった。そのこと自体は(僕はクロード・レヴィ=ストロースではないから)悪いとは思わない。だが一方、観る者は、「アート」の名の下にスパムメールのように量産される作品に悩まされることになった。感動的な作品に巡り会う機会は激減し、どうしようもない作品ばかりがあふれて、鑑賞者は人生の貴重な時間を失うばかりだ。「専門家」とりわけ美術史家は、歴史すなわち現状を肯定することから仕事が始まるのだから、原理的には、ほとんど無価値の自称「作品」を否定することはできない。そこで、観るに値するものとそうでないものを提示するガイドブック的なものが必要になる。それがジャーナリズムだと僕は思う。念のために書いておけば、優秀にして誠実な「専門家」は確かに存在する。彼らは現状を肯定しつつ、ある指針(たとえば進歩史観)をもって、正史に残すべき作家や作品を推挙する。だがそのような専門家は、残念ながらきわめて少ない。

これに関連するが、D氏ではない別のアーティストM氏が、2号の特集の読後感として「ある作品がアートかそうでないかという問いは意味がない。それを決めるのは作家なのだから」と書いてきた。これについても「ふははははは」だ。誰かが(たとえば僕が)何かを(たとえば今こうして書いている原稿を)「アート」だと高らかに宣言すれば、それはその瞬間にアート作品となる。M氏が言っていることはそういうことであり、僕が問題視しているのもそういうことだ。それは作家の見方であり、作家の見方でしかない。観る者は当然、(専門家/非専門家にかかわらず)自分にとっての「アート」を定義する、あるいは弁別する権利を持っている。僕にとって「アート」とは、「グッと来るもの」すなわち、知的あるいは/かつ感情的あるいは/かつ肉体的に愉楽をもたらすものの謂である。それはほとんどの場合、「魂のほとばしり」から生まれると僕は思う。「志」と言い換えてもいいが、そのようなものだけが観るに値すると僕は考え、主張する(誤解がないように書き添えておけば、デュシャンの『泉』のような作品は、僕にとって「グッと来るもの」である。そしてデュシャンには「魂のほとばしり」が確実に、そして大量にあったと思う)。
繰り返せば、そう主張し、その主張と整合する作家、作品を提示するガイドブックを『ART iT』は目指している。D氏は第2信で、僕が前回引用したオスカー・ワイルドの箴言に対し、「a little knowledge is a dangerous thing(生兵法は怪我のもと)」という格言を返してきた。もちろんその通りだろう。歴史や文脈を知ることによって、確実に愉楽は高まる。だがワイルドに立ち返って言えば、実は印象派の誕生以降(レヴィ=ストロースに基づけばルネッサンス以降)「すべてのものの値段」を知る者などひとりもいない、という状況が続いている。知識量の多寡は、いまや絶望的に相対的なものでしかないのだ。さらに付け加えれば、僕は作家の無知のほうがはるかに大きな問題だと思っている。オマージュでも建設的批判でも引用でもなく、単に不勉強のために先行する作家、作品を知らないがゆえに、模倣に過ぎない駄作をオリジナルなものと称して(信じて!)提出する自称「アーティスト」は、洋の東西を問わず多数存在する。
ともあれ、D氏やM氏の批判を、僕は掛け値なく楽しんだと告白しておこう。ところで、ロンドン在住のD氏だけではなく、M氏も(日本在住だが)西洋人である。ほかに何人か好意的な感想を寄せてくれた読者がいたが、ほとんどが外国人だった。「日本人は自己表現や議論が苦手」という神話を、誰か否定してくれないかなあ。
寄稿家プロフィール
おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。