

開演を待っていると、遠くでかすかな音が聞こえた。汽笛のような低いロングトーンと、何かが破裂するような高く鋭い音。まさか……。あわてて立ち上がり、白い壁、高い天井の部屋をいくつか抜ける。白いジャンプスーツを身につけた音楽家は、やはり真っ白の、チューブでできたオブジェの中央に立ってサキソフォンに息を吹き込んでいた。
先週末、水戸芸術館における清水靖晃コンサートの冒頭である。清水は長い間パリを本拠地としていた作曲家/サックス奏者で、バッハの『チェロ組曲』を世界で初めて、テナーサキソフォンで全曲録音したことで知られている。美術館での演奏にもここ数年積極的に取り組み、これまでに新津市美術館、島根県立美術館、丸亀猪熊弦一郎美術館でバッハを吹いている。そのほか、渋谷の地下駐車場やオルレアンのプロテスタント寺院などでもライブを行っているが、美術館での演奏は清水にとってライフワークのひとつになっている。

そもそも録音に使ったのが信じられないような場所ばかりだった。大谷石の石切場、倉庫を改造したスタジオのロビー、釜石鉱山の廃坑のトンネル、イタリアはパドヴァの貴族の館……。いずれもポリフォニックなバッハの楽曲を、基本的に単旋律のサックスで演奏するにはどうしたらよいかを考え抜き、空間そのものを共鳴器として用いるというコロンブスの卵的な発想にたどりついたものだ。要するに、ひとつひとつ鳴らした音が常軌を逸した残響により和音と化すのである。
それだけでも素晴らしいのだが、今回の水戸芸ではプラスアルファがあった。コンサート当日はちょうどクロード・レヴェック展の最終日前日に当たっていたのである。今回のレヴェック作品は、いわば美術館のホワイトキューブ性を逆手にとったもので、最小限のマテリアルを各部屋に配置しただけのインスタレーション。真っ白な光を放つネオンチューブや、モノクロームの映像をシンメトリカルに映写するプロジェクター、高速道路か空港のようなノイズを流すスピーカーといった、インダストリアルにしてミニマルな装置によって、近未来的な、いや、どこでもなくいつの時代でもないようなニュートラルな空間を現出させていた。

清水が立っていたのは、ワイヤーフレームのようにネオンチューブを組んだ中央の部屋である。礒崎新が設計した水戸芸自体のタワーを模したとおぼしき、天井にまで伸びる仮想の「塔」。天井には鏡が貼られていて、中央に立つと塔が無限の高みにまで続いているかのような錯覚を覚える。妖しく光る白いネオンチューブの真ん中に清水は立っていた。それから隣の部屋へ足を運び、さらに別の部屋へ移って、十分に低音と高音を聴かせてから、おもむろに白いジャンプスーツを脱ぎ捨て、今度は黒ずくめの服装で、多くの聴衆が待つメイン会場(といっても美術館のエントランスホール)に向かっていった。これまでに見たいかなるコンサートよりも格好いい、実に印象的な幕開けだった。

レヴェックはその場にいなかったから、おそらくは承諾など得てはいないだろう。だがこのコンサートは、まぎれもなく最高の、音楽家と美術家によるコラボレーションだったと思う。打ち上げの席で、水戸芸音楽部門の企画運営委員でこの企画のプロデューサーでもある作曲家・池辺晋一郎が、いみじくも「これまでにない素晴らしい使い方をしてくれた」とスピーチしていた。確かに、音楽と美術がここまで絶妙に絡み合うケースはまれである。
清水は今後も「美術館コンサート」を続け、一方で新たな演奏の場も意欲的に探してゆくという。場に包まれながら、場の特性を最大限に生かし、場とともにありつつ、同時に場の限界を超えてゆこうとする音楽。幸せな瞬間に立ち会えたことをうれしく思う。
寄稿家プロフィール
おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。