COLUMN

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Out of Tokyo

054:階級社会への郷愁?
小崎哲哉
Date: January 16, 2003
『ゴスフォード・パーク』 | REALTOKYO
『ゴスフォード・パーク』
恵比寿ガーデンシネマで公開中(〜1/24)

年末にロバート・アルトマンの『ゴスフォード・パーク』を観た。RT Picksで王晶迷さんが正しく書いているとおり、「ろくでなしだらけの群像劇」の傑作だ。1930年代初頭の英国。貴族のカントリーハウスに貴人と下僕たちが集まる。多数の登場人物と錯綜した人間関係のために最初はわけがわからないが、映画が半ばにさしかかる頃に、複雑な物語がすっと頭に入ってくる。そして唐突な殺人。さらに謎解き。『ウェディング』や『プレタポルテ』の巨匠が、またもや快作を見せてくれた。

 

行き届いた演出と十分すぎるほどの伏線ゆえに、ミステリーとしての魅力は逆に薄い。犯人が誰であるか、動機が何であるか、途中で何となくわかってしまうのだ。だが手練れの巨匠は、そんなことはとっくの昔に織り込み済みだろう。犯人探しがこの作品の主題ではないのだ。『ウェディング』が米国のプチブルを、『プレタポルテ』がパリコレのスノッブを皮肉ったように、ここでは英国の上流階級が見事に嘲笑の対象にされている。そして彼らの俗物さを際立たせるために、下僕たちもいかにも下僕たちらしく描かれ、それぞれの階級の違いが、言葉遣いや文法やアクセントの違いによって強調される。

 

水村美苗『本格小説』(新潮社) | REALTOKYO
水村美苗『本格小説』(新潮社)
上巻1800円/下巻1700円

観ていて連想したのは、昨年刊行された水村美苗の『本格小説』だった。水村は漱石の絶筆の「続編」『續明暗』、横書きの英文を交えた『私小説 from left to right』の二作で、実験的な作風と見られていた作家だ。だが『本格小説』では、エミリー・ブロンテの『嵐が丘』を下敷きにし、小手先の実験をやるのでも、小粒の私小説を書くのでもなく、まさしく「本格」的な小説世界をつくりあげている。

 

『嵐が丘』ももちろんそうだが、物語の結構を支えているのは登場人物の出自の設定だ。チェーホフの『桜の園』に出てくるような、旧時代を懐かしむ上流階級の老婆たちがいる。軽井沢の別荘で、彼女たちに仕える「女中」がいる。かつて彼女たちに疎んじられ、逃げるように米国に渡った「中国の少数民族の血を引く」若者がいる。アルトマン作品の貴人と下僕のように、階級的な対比が物語そのものの展開に分かちがたく結びついている。

 

「歴史の終わり」の典型例とさえ称された日本において、階級社会の消滅の度合いはヨーロッパの比ではないだろう。ほかならぬ軽井沢の大衆化がそのことを証し立てている。それはまた堀辰雄に代表される日本近代文学が揺籃の地を失い、自らの拠って立つところを失ったことにほかならないが、それよりも西と東において、才能あるフィクションのつくり手が、すでに失われた(あるいは失われつつある)階級差という「ロマン」に、物語の背景(あるいは物語の主題そのもの)を求めたところに注目したい。

 

すべてが平準化する時代にあって、フィクションはもう往時の力を持たないのだろうか。過去の郷愁に頼ることによってしか、その命脈を保てないのだろうか。だが、もしかするとアルトマンは郷愁などまったく感じていないのかもしれない。『ゴスフォード・パーク』に登場するハリウッドの映画プロデューサーは、英国貴族から見たらとんでもなく軽薄な米語を話して顰蹙を買う。アルトマンは自らを戯画化しつつも肯定し、『プレタポルテ』でファッションに対する映画の優位を誇示したように、階級社会に対する大衆社会、あるいはスペクタクル社会の優位を主張しているようにも思える。それはそれでやっぱりアルトマンらしい。

寄稿家プロフィール

おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。