

佐賀町の食糧ビル閉鎖に伴う展覧会「エモーショナル・サイト」展は大盛況だった。平日でも400人以上、週末は1000人以上、最終日には3400人が入場したという。9日間の会期で計13500人は、会場の地の利や規模を考えるととんでもない数字だ。入場料は500円だったから総収入はざっと6,750,000円。この収入がコンスタントにあれば閉鎖はなかったかもしれない‥‥と夢想するのは死児の年を数えるようなものかもしれないが。
展示作品の中では、野口里佳の3葉の写真が他を圧して際立っていた。内外36人の作家のほとんどは、場所に寄り添うか、あるいは場所に違う文脈を持ち込むか、というどちらかの方法論を採っていた(そうでない作品もあったが、たいがいが一定レベルに達しない単なる駄作だった)。いずれにせよサイト・スペシフィックというわけだが、野口の写真はまったく違った。場所にこびるのでも、反発するのでもなく、ただそれ自体として、それ自体の強度を示しつつ、圧倒的に存在していた。

1998− C-print photograph
たぶんそれは、作品が徹底的な匿名性、無時間性を貫いているからだろう。そこに映されている風景は、もちろん地上のどこかに存在する固有名を持った場所ではあるが、その土地の出身者でもない限り、どことは特定できない不思議な「非個性」性を備えている。実際にはニューヨークだったりリオデジャネイロだったりするわけだが、一見してどこだかわからないし、わかってもあまり意味はない。そして、撮影された日時(時代)もよくわからず、同じくこれも、わかったところでどうということはない。

1998− C-print photograph
空間性も時間性も排除された写真は、展示される場所や時間を選ばない。新築美術館のこけら落としだろうが、1927年に建造されたビルのクロージングエキジビションだろうが、そんなことは関係ないのだ。偶然会場で会った野口は、割り当てられた部屋の壁に大きな穴が空いていて、図らずもその穴を隠さなければならなかったと言って小さく笑った。野口の作品こそが、時空間に大きく開いた穴なのではないか、と僕は思った。食糧ビルと言えばサイト・スペシフィックというのが普通の反応だろうが、75年の歴史の最後に、このような作品に出会うというのは皮肉を通り越して奇妙な暗合のように感じられた。
ところでこの建造物の取り壊しについては、当然ながら惜しむ声が絶えない。僕ももちろんその唱和に与する者だが、とはいえ惜しむだけなら誰だってできる。坂口安吾は1942(昭和17)年に「新しい交通機関も必要だし、エレベーターも必要だ。伝統の美だの日本古来の姿などというものよりも、より便利な生活が必要なのである。京都の寺や奈良の仏像が全滅しても困らないが、電車が動かなくては困るのだ」と書いた(「日本文化私論」)。その伝でいえば、27年に建てられた食糧ビルがなくなっても、我々は別に困りはしない。

佐賀町食糧ビル 2002 ピンホール写真
宮本隆司が撮った食糧ビルの写真を見ると、建物の前に多数の電線があって実に日本的だ。頭の中でその電線を取り除き、たとえばニューヨークのチェルシーあたりにでも置いてみると、これは単に古びた特長のないビルでしかない。つまり食糧ビルは「現代の東京」という地理的・歴史的文脈に置いてみて初めてある意味を担う。ただしその「意味」は、のっぺりとし、均一な印象を与えるこの巨大都市において、まぎれもなく異彩を放っていた。
安吾は上に掲げた同じ文章の中で「我々の生活が健康であるかぎり、(中略)我々の文化は健康だ。我々の伝統も健康だ」と留保条件を付けている。はたして我々の生活は健康だろうか。我々の都市は健康だろうか。我々の建築物は健康だろうか。もしそうでなければ、我々は健康な生活、健康な都市、健康な建築物をつくりなおせるだろうか。
寄稿家プロフィール
おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。