COLUMN

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Out of Tokyo

043:無声映画のリサイクル
小崎哲哉
Date: August 08, 2002
『戦艦ポチョムキン』 | REALTOKYO
『戦艦ポチョムキン』

セルゲイ・エイゼンシュテインの『戦艦ポチョムキン』といえば、映画史に燦然と輝く無声映画の傑作だ。有名な「オデッサの階段」での虐殺シーンで、赤ん坊を乗せたままの乳母車が、為すすべもなく転がり落ちてゆく情景をご記憶の方も多いだろう。ブライアン・デ・パルマらがあのシーンを「引用」したり、ズビグニュー・リブチンスキーが、その名も『階段』という面白いビデオ作品をつくったり、と後世に与えた影響も大きい。通例この作品はショスタコーヴィチの音楽とともに上映されるが、7月末にアテネ・フランセ文化センターで、面白い試みが行われた。

 

映画はそのままだが、音楽をつけるのはオーケストラではなく、長嶌寛幸と寺井昌輝のふたりからなるユニット「Dowser」だ。MIDI音源を用いたロック調の電子音楽で、これが画面の展開に合っていてなかなかよかった。サンプリングして使われたPhewのヴォイスは成功しているとは思えなかったが(映画のストーリーと関係ない日本語の詩が読まれ、画面に集中するのがむずかしくなる)、水兵たちが反乱に至るまでの緊迫感や、虐殺・戦闘シーンの迫力を、緩急併せもった即興演奏で表現していた。

 

『エイゼンシュテイン』 | REALTOKYO
『エイゼンシュテイン』

無声映画にリアルタイムの音楽をつけるという発想・方法は、映画の草創期からあったという。近年でも、フランシス・フォード・コッポラの父、カーマイン・コッポラがアベル・ガンスの『ナポレオン』上映に際して指揮棒を振った例や、ほかにもアキ・カウリスマキの『白い花びら』や、フリッツ・ラングの『メトロポリス』に生演奏をつけて上映したケースがある。後者の「新版」が、ジョルジョ・モロダーによってフレディ・マーキュリーらのサウンドトラックをつけられたケースはいただけなかったけど。

 

トーキーの出現以来、上述の『白い花びら』など少数の例外を除いて無声映画はきわめて少なくなっている。そのこと自体は当然の流れだろうし、取り立てて問題にすべきことでもないだろう。ただ、トーキー以前の作品を観る機会が、ぐっと少なくなっている事実はちょっと哀しい。「映画はナマもの」(川本三郎)という考え方はもちろん間違っていないけれど、「ナマもの」としての昔の作品、という見方もあっていいと思うのだ。

 

『エイゼンシュテイン』 | REALTOKYO
『エイゼンシュテイン』

そのために新しい音楽をつける。いわば、新しい洋服を身につけることによる気分転換や、古くなった建物の模様替えに当たるようなことだ。これはもっと行われてもいいのではないだろうか。僕は個人的には(きちんとしたミュージカルを除いて)音楽があまりに耳につく映画は好きではないが、映像の力を補強し、支え、解き放つ音楽はむろん歓迎する。無声映画に音楽がつけられることも基本的に賛成だ。もちろん、センスがよい音楽でなければ困るけどね。

 

トーキーに抵抗を示した映画作家や俳優もいたけれど、たぶんほとんどの無声映画は、当時の技術的な制約のためにやむを得ずサイレントになっていたのだと思う。「この映像に声を、音楽をつけたい」という欲求があって、トーキーが誕生したのだ。その意味で、音楽をつけることによって無声映画の「リサイクル/リノベーション」が図れるのだとしたら、映画ファンにとっても福音だし、音楽家にとってもチャレンジャブルな表現行為となるのではないだろうか。今回の企画を行ったツインとスローラーナー、協力のロシア映画社とアテネ・フランセ文化センターには万雷の拍手を贈りたい。8月3日から公開中の『エイゼンシュテイン』や、関連企画『エイゼンシュテイン・レトロスペクティヴ』も楽しみである。

寄稿家プロフィール

おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。