
4月28日にICCで開催されたスーザン・ソンタグを囲んでのシンポジウムは、ちょっと残念だった。ソンタグ以外の参加者は木幡和枝(日本でのみ刊行されたソンタグの著書『この時代に想う テロへの眼差し』の翻訳者にして同時通訳者)、姜尚中(政治学者)、磯崎新(建築家)、浅田彰(批評家)、それに最後に少しだけ田中康夫(長野県知事)。時間は4時間とたっぷりあったが、レジュメと交通整理の名手・浅田彰の力も及ばず、議論は深く究められることなく、聴講者の欲求不満を残したまま終わった。

原因はソンタグ自身と司会役の浅田の、磯崎新に対する過剰な気配りにあると思う。木幡は最初に挨拶だけして「私は本来の役目である通訳に戻る」と言い残して同時通訳ブースに入ったのだが、パネリストの中で磯崎だけが異質だったのだ。もちろんソンタグとは、夫人の宮脇愛子(彫刻家)とともに長年の友人だろうし、何度もこのような席を囲んだ仲ではあるだろうが、「9.11を超えて」というシンポジウムのサブタイトルにはそぐわない人選ではないか。途中、姜教授とソンタグの論戦が始まろうかという大事なところで、それまでまったく話をしていなかった磯崎のことをソンタグが慮り、発言を振ったのが混乱の始まりだった。磯崎はその時点での文脈とはおよそ関係ないことを話し出し、ソンタグの過去の著書の内容について誤認した発言を、ほかならぬソンタグに訂正される始末だった。善意で始まったことかもしれないが、この一部始終は誰に対してもフェアではない。
気の毒だったのは姜尚中と聴衆だった。姜の最初の発言は「ソンタグさんは場合によっては紛争への(国連等の)軍事介入が必要とおっしゃるが、短期的には問題が解決できても、長期的にはむしろ禍根を残すのでは?」という根源的な質問で、これにソンタグがどう応じるか、誰もが固唾を飲んで見守っていた場面で、磯崎の迷走的発言がはじまったのだ。休憩後に浅田が陳謝とともにフォローし、姜は自身の意見の続きを語ったが、結局ソンタグのコメントは聞けずじまいだった。田中康夫の、これまた文脈と無関係の登場は面白いといえば面白かったが、姜とソンタグの行き違いを補填するものではない。ここでもまた、「話者が多すぎる討論会は面白くない」という昔ながらの法則が確認されただけだ。

それに比べると、『フィリップ モリス K.K. アート アワード2002:ザ・ファースト・ムーヴ』の審査員として、ソンタグが同展のカタログに寄せた文章は見事だった。今回初めて審査員に連なった彼女は、「賞を与えるために『審査』する、『順位』をつける、という意図でアートを見ることには、複雑な思いがあります」と率直な心情を吐露し、「『公正』でありたいと思うのは当然」「それでも、審査する、審査されるという設定にはきわめて混濁した要素がからみあっています」と続け、文の最後を「敗者」への温かいメッセージで締めくくる。「あなた方は『敗者』ではない。あなた方はそこに存在している。あなた方の作品は存在している。(中略)もしかしたら間違いをおかしたかもしれない審査員たちの判断などに惑わされて、失意に押しつぶされないよう、祈っています」

アクチュアルな政治的主題を語る思想家=パネリストとしてのソンタグには、今回は不満が残った。だが、暗喩に頼ることを厳しく批判し続けてきた(美術)批評家としてのソンタグは、やはり期待通りの「フェア」なソンタグだった。ICCでのシンポジウムの3日後に行われた『ザ・ファースト・ムーヴ』のレセプションで木幡和枝に聞いたのだが、審査に当たりソンタグが「モラル」と「公正さ」を強く説き、それが他の審査員にも影響したのではないかという。フェアとアンフェアについて、気配りとモラルについて、あらためて考えさせられた週だった。
寄稿家プロフィール
おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。