
ニブロールの矢内原美邦が、伊藤キム+輝く未来の黒田育世と並んで、「ランコントル・コレグラフィック・アンテルナショナル・ドゥ・セーヌ・サン・ドゥニ」ヨコハマプラットフォーム(長い!)のナショナル評議員賞を受賞した。「ランコントル〜」は旧名称を「バニョレ国際振付賞」といって、新進振付家の登竜門として世界的にも権威ある賞である。ヨコハマプラットフォームは、滞仏研修がオマケについた「ランコントル〜」への国内推薦会であるから、矢内原の受賞はまずはめでたい(黒田作品は残念ながら未見なのでここでは触れない)。


だが、そうとばかりも言ってはいられない。評議員各氏の選評は知らないが、受賞作の『駐車禁止』も、同時期に発表された新作『コーヒー』も、僕には完成度の高い作品だとは思えなかった。完成度が低いこと自体はかまわない。ヨコハマプラットフォームが「登竜門の登竜門」である以上、これは新人振付家を育成し、励ますことが目的である賞なのだから。ちなみに完成度の高さで言えば、『コーヒー』と同じパークタワー・ネクストダンス・フェスティバルで発表された岩淵多喜子の『Distance』は、構成といい、ユーモア感覚といい出色の出来だったが、これもまた別の話だ。
問題のひとつは、ある意味で表面的だ。ニブロールがその特徴とする、映像、言葉、音楽、美術、衣裳、照明、ダンスなどの表現行為が、それなりに、つまり相対的にあるレベルに達していて、とはいうもののそれが統一、統合されていないこと。したがって「何かを表現したい」という若者らしい欲望ばかりが空回りしている印象と、複数の情報をいちどきに処理できない苛立ちとを観客に与えることだ。比べても詮ないが、もちろんこれは、例えばウィリアム・フォーサイスの圧倒的な情報量とは別物だ。世界のトップクラスのバレエ団には抜群の技量と抑制された意志とも呼ぶべき方向性がある。情報処理が不可能であることは、苛立ちではなく興奮と歓びを観客にもたらす。
その問題もある意味ではどうでもいい。実際、矢内原自身が「あえて統一したり、映像や音楽がダンスを引き立てたりする方向には向かわないでいいと思う」と語っている。だがもうひとつの問題は根が深い。それぞれの表現の参照枠が、アニメや玩具やポップスなど、きわめて子供っぽいものにとどまっている点だ。ついでにいえば僕は同じことを、東京オペラシティアートギャラリーで開催中の『JAM』展の諸作品にも感じた。この国の参照枠はあまりにも薄っぺらだ。民度が低いと言えばそれまでだが、「大人」の芸術を観て、肥やしにするための環境がほとんど整えられていないからだろう。

ニブロールの「ダンス」は、20〜30年前なら「パフォーマンスアート」と呼ばれたクロスジャンルのパフォーミングアーツに分類されたことだろう。「パフォーマンスアート」は複数のジャンルを組み合わせ、それゆえに分類不可能な表現行為の謂だった。これが芸術と呼ばれるまでに昇華するには、たくさんのものを観て、たくさんの他者に交じって、要するにたくさん場数を踏んで参照枠を広げるしかない。
ヨコハマプラットフォームの主催者も、同じ思い、つまり参照枠を広げさせる思いで矢内原たちを選考したに違いない。こうなったら矢内原には、是非とも「ランコントル〜」に行って経験を深めてもらいたい。いま未完成であるからこそ、今後が楽しみなのだ。
(付記:ナショナル評議員賞の結果とは関係なく、「ランコントル〜」ディレクターのアニタ・マチューの選考により、本選行きには梅田宏明が決まった。矢内原と黒田には残念な結果となったが、海外での経験はぜひとも積んでもらいたい)
寄稿家プロフィール
おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。