
1月15日に、日仏学院で作家・池澤夏樹の講演会があったので出かけてみた。定時に着いたのに2階の会場は超満員で入れない。1階にあるTVモニターで、中継画像を見ることにした。茶色のジャケットを着た池澤は座ったままマイクに向かい、やや高い声でゆっくり話した。講演自体は1時間半ほど、残りの約30分が質疑応答に充てられた。

講演は「今の戦争、サンテグジュペリの戦争」と題され、飛行家でもあり、第二次大戦の折に偵察飛行で命を失ったフランスの作家について、そして彼の時代の戦争と現代の括弧付きの「戦争」、とりわけ湾岸戦争以降、今回のアフガニスタン「空爆」に至るまでの「戦争」が如何に異なっているかについて、多数の具体例を織り交ぜながら語られた。
池澤によれば、サンテグジュペリは「人間的なものを見たい」と思った作家/飛行家であり、空中に上昇して地上を抽象化すると同時に、地上に降下して空から見たものを確かめるということを、常に意識的に行った人間だった。それに対して現代の戦争、特に米国が行う「戦争」は、自軍の犠牲者を極力出さないために、偵察衛星を使い、無人偵察機を用い、遠隔操作でミサイルを落とし、要するにハイテク技術を駆使して、異常なまでに戦闘を抽象化・不可視化している。だが、見えなければそれでよいのか?
池澤はまた、未必の故意としての米軍の「誤爆」を非難し、難民になるとはどういうことかを作家として想像してみたと話し、米軍による食糧投下の偽善について語った。アフガニスタンの難民たちは、食糧に見せかけた爆弾かもしれないという疑いを払拭できない。食糧に毒物や病原菌が混入されている可能性もある。とはいえ飢えに耐えかねて食べてしまい、疑いと屈辱感に苛まれる者も後を絶たないだろう。何よりも食糧や医薬品などの贈り物は投下するものではなく、手渡すべきものではないのか。
いずれも池澤が発信しているメールマガジン『新世紀へようこそ』に記されている話題であり、だが非常に説得力のある議論である。僕に限らず聴衆は作家の言葉のいちいちにうなずき、質疑応答も熱心でレベルの高いものだった。このコラムにも「戦争/テロに関するBBS」にも書いたけれど、池澤のコラムを読みたければ、彼のサイト『カフェ・インパラ』で配信を申し込めばよい。同じサイトでバックナンバーを読むこともできる。ノーム・チョムスキーやスーザン・ソンタグ、ジャン・ボードリヤールやスラヴォイ・ジジェクにも劣らない立派な仕事である。

『マシアス・ギリの失脚』などの著作に見られるように、池澤自身、上昇と降下、鳥瞰と虫瞰を常に意識している作家である。今回の講演を聴いてその事実を再確認すると同時に、生の声に接する重要性をもあらためて感じた。本人も「興奮しないように努めている」と語っていたが、重いだけにヒステリックになってはならない主題である。人を落ち着かせるやわらかな物腰と淡々とした話しぶりに、オフラインの大切さをも感じた一夜だった。戦時の食糧だけではない。言葉もやはり、本来は手渡されるべきものなのだ。
寄稿家プロフィール
おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。