
デザイナー・東泉一郎との「対話」第2弾をお届けする。1回目を掲載した後、東泉さんから「たしかに『Neut』の話はしたんだけど、参加した直後には熱くなっててその状況だからこそ語っちゃうことってあるでしょ。『Neut』のことは佐藤さんとも直接話してるし、こういうバトルにされちゃってること自体が全然違うよって思うんだけど。発言自体には責任持つけど、なるべくクールに読んで下さい」というメッセージが入った。メルマガでは「掲示板に書き込みを」などと告知したけれど、熱くならずにクールに読み、あるいは書き込みをして下さい。
【承前】
僕は座談会は面白かったけどなあ。サンプリングやコピーの問題を、音楽家(テイ・トウワ)、デザイナー(東泉一郎)それぞれの立場から聞いてみるという企画は悪くないと思う。

悪くないですよ。楽しかったし。ただ、自分が一角を占めた対談が活字になって、後から冷静になってみたら自分の考えは違うかも、という状況に責任をとらなくては。佐藤さんが『労力をかけて真似してるんなら、それはそれでちゃんと対価を払ってることになる気がするんです』って言ったでしょ。その考えがあまりにも新鮮に響いて黙ってしまったんですが(笑)、よくよく考えたら、真似する人はみんなそう言う。あ、佐藤さんがパクリをする人だって言ってるんじゃないですよ。あくまでも一般論です。自分だってそんなに潔癖に全部オリジナルでやれているかといったら、そうではないし。ただ、そこで『対価を払い終った』と言ってしまっていいのか? って言ったら、やはりそれは違うぞ、と思ったんです。
音楽や現代美術においては、サンプリングやコラージュはもう認められている方法ですよね。
ええ。だけど、やっていいことと悪いことの差は、自分で手間ひまかけたかどうかでは絶対にない。10時間かけたってダメなものはダメ。オリジナルがなぜ尊いかといえば、表現方法として成功する保証がないものを、不安とリスクを背負いながら、産みの苦しみを味わいながらモノをつくってるからでしょう。自分だけにおぼろげに見えていて形になっていないものを、もがいて、何とかつかみ取る作業。自分が生み出そうとしているものに対して悩みつつも、すべてを引き受ける覚悟というか、開き直りとともにそれに賭けるわけで。目の前に見えている前例があるかないかは決定的ですよ。サンプリングやリメイクは、元のままでは見えていなかった価値を発見したり再構築して見せるものになっていれば、それ自体がクリエイティブでオリジナルであると思う。音楽では割とそういうのが明解に見えやすいと思う。だから、テイ君の言ってることにはうなずけるんです。でも、商業美術で、どう見てもオリジナルへのリスペクトなしに便利にやっちゃっているものがオリジナルのフリをしてしまうのはどうなんだろう?
『Neut』全体に話を戻しましょう。「自分をはじめとして、新しいデザインを提示できなかった」と東泉さんは言うけれど、それはなぜですか。
まず、制作段階で『なんか、わけわかんないようなものってイーヨネー、役に立たないものとかさー』みたいなことがあった。それって、デザインの基本命題から逃げてないか? って思った。僕も『わけわかんないようなもの』に惹かれますよ。でも、それは凄い天才の作ったものじゃなかったら見たくない。でも僕らはたぶん凄い天才じゃなさそうで、デザイナーなわけで。結果的に、参加者それぞれの作品が、『Neutの構成要素』になってしまって、自立したプロジェクトに見えないし、それでいてバラバラの状態になっていると思うんです。まず先に『デザインの現状打破』みたいなマニフェストがあって、要するにプロットとダイアローグの世界にはまりこんでいるんですね。そういえば思い出すのが今の日本の映画界。映像クリエイターと言われる人のうち、大半は文芸の人でしょう。その映画ってどういう映画なの? っていうとストーリーのことを訊いているんだよね。
たしかに『Neut』は、編集者の僕から見てもまとまりがないように思えますね。と同時に言語的であると。
口で批判するのは簡単です。でもプロジェクトを成就するのにはすごいエネルギーがいるし、それを自分でやって、結果に対する批判をどーんと受け止める準備ができている佐藤さんはすごいですよ。
それが前提だし、佐藤さんにはこないだ直接言ったことでもあるけど、やっぱり『Neut』は『オルタナ』を標榜したけど、実に旧来の世界観を纏っていると思った。世界は旧来のまま、その内側でいままでの大陸はもう一杯だからちょっと別のところに自分たちの埋め立て地を作ろうよと言っている。『業界的にはオルタナ』を目指しているけど、『本当に新しい何か』を見てはいない。それが『Neut』の『オルタナ』。『オルタナ』とか『デザイン』とか言わなければむしろもうちょっとプレーンなものであり得たと思うけど、これがまた古典的プロモーション指向だからキャッチコピーついちゃった。それこそ業界っぽいじゃないっすか。文字が少なくてグラフィックが多いけど、やっぱり『Neut』は言葉で語っている本かも。デザイン誌って、100年前から変わっていない印刷媒体です。その中で語ることが、オルタナティブなデザインのムーブメントになるかというと、突っ込んで考えると無理があったということかな。
最後にひとつ。第1回目を読んだ『Neut』の佐藤さんから、「かなりこたえた発言もあったけれど、今後、2号、3号と発行し続ける過程で、東泉さんが提示してくれたハードルを僕なりに突き抜けていきたい。『Neut』には自己矛盾も確かにあるが、今こそ何かをやるべき時期であることは確信している」という趣旨のメールを頂戴し、さらにこの第2回目掲載の直後にも「通して読んでみて、東泉さんの『Neut』に対する分析・評価・批判はしごく的を得たものだと思った。もちろん個々の問題について反論したい部分はたくさんあるけれど、言論としてではなく、実際に『変えていく』ことで応えるつもりでいます。そのスタートが、満杯になった土地を補充する埋め立て地の造成にすぎなかったとしても、埋め立て地の住人が旧世界の住人と異なる世界観を獲得していくことに僕は賭けます」というメールを頂戴した。限られた文字数の中で、細かいニュアンスが抜けたまま原稿に起こしてしまった感なきにしもあらずだが、このインタビューが建設的な結果を生むことを祈っている。ひとり『Neut』のことを語るのではなく、もっと普遍的に「デザインとは?」という議論が広まることも期待している。
寄稿家プロフィール
おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。