COLUMN

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Out of Tokyo

006:如月小春と00年代
小崎哲哉
Date: January 12, 2001
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個ハ 辺境ニアリ

 

年末に劇作家の如月小春が急逝した。44歳という若すぎた死を悼み、告別式では、音楽家の高橋悠治が打ち震える声で歌も交えた哀切な弔辞を読んだ。式の終わりには夫で演劇プロデューサーの楫屋一之が、慟哭とも呼べる激しい口調で、故人の意志を継いで演劇の新しい方法を求めてゆく旨を宣言した。どちらも列席者の涙を誘い、心を揺さぶる言葉だったが、ふたりが示し合わせたかのように引いたのが、如月が80~81年、24~25歳の折に書いた『家、世の果ての……』中の台詞だった。

 

都市 ソレハ ユルギナキ全体
絶対的ナ広ガリヲ持チ 把握ヲ許サズ 息ヅキ 疲レ 蹴オトシ
ソコデハ 全テガ 置キ去リニサレテ 関ワリアウコトナシニ
ブヨブヨト 共存スルノミ
個ハ 辺境ニアリ
タダ 辺境ニアリ
楽シミハ アマリニ稚ナクテ ザワメキノミガ タユタイ続ケル
コンナ夜ニ 正シイナンテコトガ 何ニナルノサ

 

「都市といえば如月小春」といわれた彼女の都市観を、簡潔に言い尽くした名文だと思う。

 

都市 ソレハ ユルギナキ全体

 

僕は80年代の中頃、如月(文)とブルース・オズボーン(写真)による『都市の遊び方』という本を企画編集したことがある(新潮文庫。現在は絶版)。東京都内の具体的な場所をその都度取り上げ、時代の問題点を浮き彫りにしていこうという内容で、当初は週刊誌『朝日ジャーナル』の連載だったため、毎週1度、3人で東京中を歩いて回った。

 

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NOISE『砂漠のように、やさしく』 写真:上牧 佑

いま読み返して思うのは、その優れた時代感覚だ。近郊のニュータウンや郊外に移転した大学のルポがある。都市におけるサウンドスケープや、風景全般についての論考がある。百貨店のあり方を変えたといわれた西武セゾングループ堤清二会長へのインタビューもある。「エスニック料理がファーストフードになったり、ファミレスのメニューに載ったりしたら面白い」「『ぴあ』に代表される『文化情報の並列化』の時代には直観的な情報淘汰の能力と主体的なネットワークづくりが必要だ」「今われわれが住んでいる都市は、人間と機械の大きな遊び場となりつつある」など、近未来=現在を先取りしたような指摘にもことかかない。時代に取材した今もってアクチュアルな本であると思う。

 

如月の戯曲そのものがそうだった。『工場物語』『光の時代』『MORAL』などの作品群に繰り返し現れるのは、「テクノロジーと人間の対立と共存」「情報技術の進歩とコミュニケーションの退化」「管理社会における個人の疎外」「高度資本主義時代の倫理」といった主題である。これらのテーマはすぐれて80年代的であるが、同時に「20世紀的」とも呼びうる普遍性を備えている。時代が21世紀に入った今となっても、しばらくは同じ主題の重要性に変わりはないだろう。逆に言えば00年代は80年代からいっかな進歩していない。21世紀が20世紀の欠点・短所を乗り越え、補正する保証もいまだない。

 

如月の演出も、戯曲の内容にふさわしく技法的に時代の先端を走っていた。スタッフやキャストの意欲が空回りしただけの、観ていて辛く感じるような上演もときにはあったが、オリジナリティと先駆性は疑い得ない。伊藤高志・土佐尚子(映像)、近藤達郎原田節(音楽)、黒尾芳昭(照明)らとのコラボレーションによるステージは、良くも悪しくも通俗的な「情念」を感じさせない洗練されたものだった。美術や衣裳は白を多用し、それがために作品の近未来感と記号性が際立っていた。

 

如月の劇団「NOISE」の名を聞くと、僕は反射的にホワイトノイズという述語を想い出す。ホワイトノイズとはあらゆる可聴周波数を含む騒音のことだが、すべてが無化の方向に流れる時代にあって、如月の劇的世界は時代にあらがいつつも時代を象徴し、白いノイズを発し続けていた。「ザワメキノミガ タユタイ続ケル」という際の「ザワメキ」がすなわち「NOISE」であり、もちろんそこには自虐的なユーモアも含まれていたのだろう。しかし同時に、時代をアクティブに乱反射するという矜持も強く込められていたに違いない。

 

ザワメキノミガ タユタイ続ケル

 

葬儀の前後に新鋭の芝居を何本か観た。異形であることや差別・非差別をテーマとした骨太な傑作もあって、そういった演劇の根幹に触れるような作品には頼もしさを感じたが、ほとんどの作品は小さく自閉していた。「個ハ 辺境ニアリ」「全テガ 置キ去リニサレテ 関ワリアウコトナシニ」という如月のアイロニカルな(だが的確な)世界観から、一歩も踏み出してはいない。ここでも時代は、80年代からまったく進歩していない。

 

如月の口から「私には社会とコミットしていない演劇なんて考えられない」という言葉を聞いたことがある。ヨーゼフ・ボイスとも通底する芸術観だが、映画、音楽、アートを含む今日の多くの表現者にこの思いは希薄なように見える。「コンナ夜ニ 正シイナンテコトガ 何ニナルノサ」と自嘲的で偽悪的な言葉を吐きながらも、如月小春は「正しいこと」を自らの表現の中で探り続けた。00年代の表現者たちは、「アマリニ稚ナ」い「楽シミ」ばかりが流れゆく時代の中を「タユタイ続ケル」のみで自足してしまうのだろうか。

寄稿家プロフィール

おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。