COLUMN

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Out of Tokyo

005:ダンスが始まるとき
小崎哲哉
Date: December 25, 2000

アッズーロ+カステッロとダムタイプ

 

11月末に3日続けて「ダンス」を観た。ダンスに括弧を付けたのは、3作とも旧来のダンスの枠組みをはるかに越えていたからで、いずれもある点で非常に刺激的だった。人はいかにしてパフォーマンスに惹き込まれていくのか、という点である。

 

炎/水/影/アンドレイ・タルコフスキーのネイチャーダンスへのオマージュ | REALTOKYO
©ミホプロジェクト

スタジオ・アッズーロ(映像)+ロベルト・カステッロ・カンパニー(ダンス)の『炎/水/影/アンドレイ・タルコフスキーのネイチャーダンスへのオマージュ』はフラットな空間である赤坂の国際交流基金フォーラムで行われた(11/26~30)。開演ぎりぎりに会場に入ると、15~20度ほど傾斜した縦横6~7メートルの正方形の舞台に、水から出されて苦しそうに跳ね回る魚のヴィデオ映像が投影されていた。やがて画面は流れる水に変わり、ダンサーたちがその流れ(の映像)に乗って上から下りてきはじめた。

 

memorandum | REALTOKYO
ダムタイプ『memorandum』
撮影:青木司
財団法人新国立劇場運営財団

ダムタイプの『メモランダム』はタッパのある新国立劇場小劇場での公演だった(11/27~12/16)。正面から観られることに徹底してこだわった舞台設計で、最初の場面はやはりプロジェクションと垂直移動で始まった。断片的な英単語を壁から出っ張った煉瓦か何かに見立て、(映像の)俳優たちがそこに手をかけてぐいぐいと登ってゆく。俳優たちが登り終わると英単語のあいだが埋められ、童話『三匹の熊』のテキストが出現するという趣向である。断っておくが煉瓦はあくまでも比喩で、完全にモノクロームの映像だ。

 

アッズーロ+カステッロの古典的とも言える禁欲性、ダムタイプの圧倒的な開放性という違いはあるが、どちらも結構がしっかりとした優れた舞台だったと思う。『炎/水/影』では、上演時間の半分以上におよんで傾斜し続ける舞台の上で、ダンサーたちは踊るに踊れないというジレンマに陥らされていて、それは見事にタルコフスキー的だった。ダムタイプはダンスの技量はともかく(失礼!)、断片的で反復的な映像、音楽・音響、身体表現により、テーマだという「記憶」を概念的にも感覚的にもしっかりと観客に伝えきった。

 

珍しいキノコ舞踊団

 

小説家が書き出しにこだわるように、パフォーミング・アーツの作り手も、観客や聴衆をどのように劇的時空間に引き入れてゆくかに知恵を絞るのだろう。川に浮かべた船を本拠地としていた横浜ボートシアターは、陸から船へと徒歩で渡ることをまず客に強いた。馬を用いることで知られるロマ(ジプシー)のサーカス、ツィンガロは、その馬を飼うテントの中を客に歩かせ、上演前に目と耳と鼻に強烈な一撃を喰らわせる。こうした極端な「通過儀礼」でなくても、映画館や劇場やホールは日常とかけ離れた場所であり、聖地の結界を超えるのに似た感覚は、意識的であれ無意識的であれ、誰もが体験している。

 

フリル・ミニ | REALTOKYO
珍しいキノコ舞踊団『フリル・ミニ』
撮影:Yohta

その意味で面白かったのが珍しいキノコ舞踊団の『フリル・ミニ』だった(11/24~12/3)。会場のデラックスは麻布十番にある元は倉庫だった建物で、天井高は高いところで6~7メートル、ほぼ真四角の床面積は150平米ほどだろう。建築家のユニット「クライン・ダイサム・アーキテクツ」や、『フリル・ミニ』のアート・ディレクションを担当したデザイン・ユニット「生意気」が、壁ひとつ隔ててはいるが同じ建物内にオフィスを構えている。外の道に面して大きなガラス窓があったり、オフィス2階へ上がる階段が客席のすぐ脇にあったりと、普通のホールとはひと味違う空間だ。

 

中に入ると、7人の女性ダンサーはすでにそこにいる。暖房が利かない元倉庫だけあって寒く、これから踊るにしてはずいぶん厚着で、マフラーを首に巻いている者もいる。60年代ポップスを中心とした曲が控えめに流れていて、ダンサーたちは体をほぐす程度に踊ったり歩き回ったりしている。その合間には好き勝手なおしゃべり。知り合いの姿を客席に認めて挨拶する者さえいる。開演直前だというのに、なんなんだ、この緊張感のなさは?

 

快く流れる時間

 

そして、その緊張感のなさを保ったまま、パフォーマンスは実に自然に始まってゆくのだ。どこまでがウォーミングアップで、どこからが本番なのかは判然とせず、気がついたら始まっていたという印象である。ビニール傘を組み合わせたユーモラスな照明など「生意気」の手になる愛らしいセットの中で、ソロあり、パ・ドゥ・ドゥあり、舞踏のパロディとおぼしき集団の動きあり、バリやインド舞踊の「引用」あり、とダンスは自在に進んでゆく。階段や窓を使った意表をつく演出もあって、2時間近い時間はあっという間に流れた。

 

何年か前にアルバカーキのヒルトン・ホテルで食事していたとき、それまで給仕してくれていたウェイターとウェイトレスが、何の前触れもなく歌い踊り出してびっくりしたことがある。ダンサーの卵によるショーだと後でわかったけれど、あまりの唐突さに『キャッツ』や『オペラ座の怪人』を楽しむ暇もなく、ただただ呆然としていた。いかにも米国的と言うべきかどうかは知らないが、幸いにしてこの国のレストランにはないサービスだ。

 

映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』では、工場の機械音、列車のガタゴトいう音、人が歩く音など、日常の中のリズムからダンス・シーンが始まる。それは、歌やダンスが突然始まる古典的ミュージカルの枠組みを乗り越えるための手法でもあるのだろう。珍しいキノコ舞踊団の試みもその流れに連なるものかもしれないが、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の狂的な激しさに対して、7人のキノコたちはあくまでも静かで、あくまでも自然である。友達の家で紅茶をすすっている午後のような、とても気持ちのよいひとときだった。

寄稿家プロフィール

おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。