
cyclo.の世界初演を聴く
11月3日、青山CAY。この日は『Buro30: electronicaccident / experimental express 2000』の初日だった。出演は順にPITA、HECKER、MERZBOW、cyclo.、それにLAPTOP ORCHESTRA。オーストリア、ドイツ、日本の先端的なミュージシャンの揃い踏みだ。プロデューサーの佐々木敦によれば、あの狭い空間に500人弱も入ったというが、その大部分はcyclo.に期待してたんじゃないかと思う。

cyclo.はダムタイプの音響も担当する池田亮司と、アルス・エレクトロニカ2000デジタル音楽部門でグランプリを獲得したNOTOことカールステン・ニコライが結成した新しいユニットだ。99年の4月、青山のワタリウムでの試験的な共演を除くと、これが世界初演である。舞台前のテーブルに座っている一部を除いて、オール・スタンディングの聴衆は、僕を含め、本来共同体のものであるべき音楽が「個」のものとしても存在しうるという奇蹟を望みつつ、他人の群の中に身を潜めていたのだと思う。
不可聴域の低周波があったかどうかは知らない。気が付くと池田に特徴的な、ピュアなパルスによる重低音が響いていた。やがて、金属的なアタックのパーカッション的なサウンドが、象を刺す蜂のように四方から繰り返し低音にからむ。あとは、さまざまな波形や、ループや、破壊的な、あるいは微細な音の饗宴だった。聴衆は突っ立ったまま、踊るでもなく体を揺らすでもなく耳を傾けていた。いや、耳だけではなく、全身を音に浸していたと言うべきだろう。実際にCAYの床が、聴衆の体が、ほかならぬ自分の皮膚が振動していた。息を大きく吸うと、肺が共鳴器に化しているのが実感された。
音と音楽とを隔てるもの
全部で40分ぐらいだったろうか、演奏は始まりと同じようにピュアなパルスの低音で、ゆるやかにではあるけれどやはり唐突に終わった。拍手が響き渡り、周囲にいるミュージシャンやDJの友人たちは、「同期はどう取ったんだろう」とか「音圧に耐える端子は……」とか技術的なことを興奮気味に話し合っていた。僕は技術に暗いから別のことを考えていた。音はどこから音楽になるのか? 音と音楽とを隔てる境目とはなにか?
一部の聴衆が、体で拍子を取る瞬間があった。心拍のように「1拍子」ではなく、すべてが8ビートや16ビートなど、2の自乗数の拍子である。これが音を音楽たらしめる条件のひとつであるとは、もちろん断言などできない。とはいえ「家具の音楽」のサティから12音音楽のシェーンベルク、偶然音楽のケージを経て、今日このステージにいる音楽家たちが、音楽から意味や物語をはぎ取るために採用してきた戦略の中には、いうまでもなくリズムの否定という方法もあった。だがリズムを完全に否定したら、その瞬間に音楽は音楽でなくなってしまう危機に陥る。音楽家がどこで踏みとどまるかによって、音楽が崩壊するかしないかが決定される。cyclo.のさじ加減は悪くないと僕は思った。
一方で今回の池田とニコライの共演は、1年半前に比べて、ほんのわずかだが情緒過多のようにも感じられた(率直に言えば、二人ともソロのほうがいいんじゃないかと思う)。場所も状況も違うのだから比べても仕方ないかもしれないが、強いて理由を求めれば、前回が個人と個人が場を共有したに留まったのに対して、今回が「ユニット」すなわち共同体となったからではないか。個人のルールは個人の中に完結して存在するが、共同体のルールは関係の中に開かれつつ存在する。だからこそ物語が生まれ、それは多くの場合、成員にとって心地よい。この夜、CAYのフロア上で拍子を取った聴衆は、おそらくは二人の音楽家とともに、場に属する幸せをほんの一瞬だけ、心ならずも感じてしまったのだ。
音としての光/光としての音
メディア・アーティストの岩井俊雄が2週間ほど前に、イラストレーターのばばかよとの展覧会を原宿で開いていた。岩井にしてはささやかな、というべきその会場で、彼は実に面白い作品を展示していた。ポータブルMDプレイヤーほどの大きさのそれは、センサーで人工光をとらえ、音に変換してイヤフォンで人の耳に伝える。作品には「音楽」が聞こえるように一定のリズムが出る仕掛けが施されていたが、作品となる前のプロトタイプは光を波形に変え、荒削りな音として垂れ流すだけだ。
プロトタイプを岩井から借り、ギャラリーが入っているファッション・ビル内を歩き回って驚愕した。場所によって、そこにある照明によって、音はすべて異なる。小さな音、大きな音、短いアタック、長いアタック、高周波、低周波……。あるものは誇らしげにひとりうなり続け、あるものは他と干渉して互いに威嚇しあう。まるでジャングルだ。
このジャングルには意味も物語もない。もちろんそれは音楽でもない。ただ、そこには池田やニコライたちが、決して得られないと知りつつ求め続けているものの萌芽が、たしかにあるように感じられた。物語になる直前に、僕らからふいと逃げ去ってしまう音楽。
光と音は共同体にも個人にも無縁のまま、ただそこにある。音が音楽になりかけながら音に留まる瞬間は、決してとらえられないだろう。志ある音楽家やアーティストは、それとわかりながらも不可能に挑み続けている。
寄稿家プロフィール
おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。