

ドイツ敗戦後、“戦犯の子”という重荷を背負い生きたナチス幹部家庭の子供の苦悩、葛藤を描いた映画『さよなら、アドルフ』の上映と、父親がBC級戦犯として処刑された駒井修さんをゲストに招いて学生や一般参加者と共に語り合うトークイベントが、明治学院大学国際平和研究所主催で行われた。駒井さんはイギリス在住の元英国陸軍通信中尉を訪ね、拷問をした父の代わりに謝罪をした体験を語り、世代を越えての「謝罪」の意義、そこからの「和解」の可能性について考える機会になった。イベントを企画した学生リーダーの松浦直矢さんは、「僕たちはいま戦争とは距離があるように感じられるが、駒井さんの話を聞いてまだ戦後は終わっていないと感じた」と感想を述べた。映画を観た方も、これから観る方もぜひご一読下さい。最後に映画鑑賞券プレゼントのお知らせがあります。
駒井さんは「ドイツと日本では敗戦の状況は違う。ヒロインは当時の私より少し若いですが、強い人だなと思いました。いまもしローレがいたら、『私は77歳でこうしていますが、あなたは何を思い、どうしてますか』と聞きたいと思います」と映画の感想を語った。「戦争で亡くなられた何千万の方々に黙祷を捧げましょう」と、会場と共に黙祷を捧げ、戦犯として42歳でシンガポールで処刑された父、光男さんについて語り始めた。
「父は大学を終えて、昭和4年に日本通運大阪支店に入り、戦時色が濃くなってきた頃、志願して1年間幹部候補生になりました。訓練後に少尉になり、昭和6年にまた大阪通運に戻りました。職業軍人ではなく、サラリーマンです。昭和13年から3回くらい朝鮮に出征しました。北朝鮮と中国との国境付近へ行き、そこから釜山へ。父は事務系で、朝鮮人軍属の教育をやりました。約2年間教育をして、昭和18年春、釜山から3000人を7、8ヶ所へ送り、自らもジャワに行きました。日本では当時捕虜のことを俘虜(フリョ)と呼んでいました。父は俘虜収容所本部派遣となり、すぐにタイ派遣になりました。1943年7月頃だと思います。鉄道工事のための約4万3000人の労働者が必要になり、父はそのなかの約1万人の俘虜管理の副官として行きました。そのときに「ラジオ盗聴事件」が起きました。スパイです。当時のスパイはいちばん重い犯罪です。英国王立通信隊の将校を8人捕まえ、リンチで2人殺し、6人が重症を負いました。その中のひとりがロマックスさんでした。1945年9月15日、英国軍隊に逮捕されてシンガポールに連れて行かれ、翌46年3月14日にチャンギー刑務所で処刑されました」

いまでも父親以上に、おふくろが可哀想だと思う
「母は明治38年に盛岡で生まれ、父と大恋愛で学生結婚し、大阪で就職しました。昭和18年、母の生まれ故郷の盛岡に移住し、そこで終戦を迎えました。終戦を迎えた8月15日に例の放送を聞いた母は、『お父さんが帰ってくるよ』とニコッと笑いました。私は戦争に負けた、勝ったというよりも「お父さんが帰ってくるんだ」と喜んで、もちろん母もそうでした。早い人では15、6日から復員してきてるんですね。『お父さんはまだ?』と母に2、3回聞きましたが、『お父さんは外国に行ってるからまだね』と言いました。21年3月20日頃、伯父さんから『大切な話があるから座って話を聞きなさい』と言われ、私は姉とおふくろと一緒に座りました。話を聞こうとしたとき、いきなり母が伯父さんの口をふさぎ、『やめて、やめて』と言いました。何がなんだかわからなかったです。『兄さん、いいからやめて、やめて』と。私もおふくろに何も聞けず、それ以降、おじさんも何も教えてくれず。でも私は男ですから、おふくろがひとりで居たときに、『お父さんは名誉の戦死?』と聞いたんです。そうしたら母に『ばかたれ!』と叱られ、姉に『もうお父さんのことを聞くんじゃないよ』と言われ、数年はもう口に出しませんでした。私はわりと軽いほうで、進駐軍にもらったチョコレートやキャンディを、姉とおふくろにやったんです。おふくろは怒って投げました。そのとき私は、『アメリカ兵はいい人だ、イギリス兵は悪い人だ』と思いながら走りました。その頃は父がイギリス人に殺されたことに気付いていました。手の平を返されたとか、後ろ指を指されたとか、おふくろが言うのを聞きました。だんだん生活が苦しくなり、おふくろは私と姉を座らせて『生活扶助をもらうことになりました。これは恥ずかしいことだから絶対に他人に言ってはいけません』と言いました。本当にこの映画じゃないけれど、歩けば指を指され『あいつの親父は……』と言われていましたが、私も年配の男の人に『こいつの親父は戦犯になってよ、だから日本は負けたんだよ』とはっきり言われました」
「その後、遺族会には入れないということになり、世間の目はさらに冷たくなりました。いちばん私に影響したのは、私が高校に入った16歳のときです。母が48歳で亡くなり、私は高校生を4年間やりましたが、就職の際に、先生から『戦犯のことは絶対言うな』と言われました。でも面接のとき『お父さんは?』と聞かれて即『戦犯で処刑されました』と答えました。すると『はい、ご苦労様』で終わりでした。でも、ある会社で雇ってもらえて数年働きました。後々、高校のクラス会で先生から、お母さんが『この子は戦犯の子です。何かしでかすかもしれません。そのときは殴ってやって下さい、お願いします』と言ったと聞きました。いまでも父親以上に、おふくろが可哀想だと思っています」
未来のために、いまをしっかり生きていこう
「ロマックスさんと会うことになった経緯は、2000年に永瀬隆さんという軍で通訳をしていた父の戦友に、ロマックスさんに会いに行こう、連れて行くからと言われ、2007年に実現しました。ロマックスさんは『来てくれてありがとう』と何回も言い、握手しました。家内も行きましたが、私と通訳とロマックスさんの3人で話をしました。父の写真を見せると、私は父に似ていると言い、『奴にやられたんだ、すぐに処刑しろ』とお父さんを告発したのに、その息子が謝罪をするということにロマックスさんはショックを受けたと言いました。私が自己紹介的に書いたものを先に読んでくれて、戦後の家族の不遇を知り、『駒井ファミリーを不幸にしたのは自分だ』と言い、それについて謝りました。ロマックスさんは父との関係と、彼と私との関係を分けて考えてくれて、何度も『こんなところまで来てくれてありがとう』と言いました。お父さんのことで聞きたいことがあるかと言われ、聞きたいことはいっぱいありましたが、何も聞かずに黙っていました。スパイ事件に関わったほかの兵士の居場所のことも聞かれましたが、わからないので『知らない』と言いました。『あんなに隠してやったのになぜ見つかったのだろう』とも。ロマックスさんからお別れにいただいたカードには『いくら振り返っても過去は変わらない。過去を嘆き悲しむのはやめて、未来のためにいまをしっかり生きていこう、それがあなたのすべきことだ』と書かれていました。イギリスの新聞記事には『ロマックスさんは謝罪を受け入れなかった。しかし初めて会った人を部屋にいれ、お茶をふるまったということは、イギリスでは“赦した”ということだ』とありました。いまはロマックスさんも永瀬さんも亡くなりました。天国で父も交えて、私がこうやって話していることを見守ってくれていることを願っています」

やはり傷は深かったのです
〜以下は会場とのQ&Aより〜
自身が罪を犯したわけではないのに、お父さんのことでなぜ謝ろうとなさったのでしょう。
日本人特有の気持ちだと思います。ロマックスさんにも「俺とお前のお親父の問題だよ、息子のあなたには関係ないのに」と言われ、通訳が日本人らしさについて説明すると首をかしげていました。イギリスにはイギリスらしさが、日本には日本らしさがあり、そんな国民性の違いのような気がします。
イギリスのメディアでは謝罪を受け入れなかったという報道がされたということですが、それに対してどのように感じられたましたか? また、握手は象徴的なことだと思いますが、握手されたときのロマックスさんの感じはどうでしたか。
確かに報道はその通りでした。謝罪が受け入れられたとは思ってません。でも、握手はしました。最初はぎこちなく、2時間くらいしかいませんでしたが、気持ちは緩んでいったと思います。ロマックスさん自身、10年くらい前までは日本人を嫌いだったそうですが、永瀬さんを知ってからわかってきたと言っていました。やはりロマックスさんの傷は深かったのです。
駒井さんが父親の犯した罪に対して謝罪したことで、ロマックスさんの心がほぐれたのでしょうか。
ロマックスさんは私よりかなり年上で、彼にとって私は孫みたいで、私にとってはおじいさんのような感じです。イギリスにシャーウィン裕子さんという作家さんがいらっしゃいますが(駒井さんとロマックスさんのことを本にしている)、東日本大震災のときにすぐ電話をかけてくれて『ロマックスさんが原発のことをとても心配している』と教えてくれました。それはイギリスのおじいちゃんからの慰めの言葉だなと思って受け止めました。
戦争に対する価値観が変わってきたと思います。日本のいまの教育についてどう思いますか。
幼いときはそんなことは考えられませんでしたが、調べて行くうちに侵略戦争だったことを知り、日本はマズいことをしたのだと考えるようになりました。世界を相手にして戦ったのはマズかった。もっと話し合いで解決してほしかった。国際連合を脱退したということなどもありましたが、今後はそのようなことはあってはならないと思います。
安倍首相の靖国神社参拝についてはどう考えますか。
私は反対です。戦争で亡くなられた方々が祀られている靖国で、安倍さんを「よく来た」と思っている方はいるのでしょうか。安倍さん始めトップの方々に、お前たちが始めた戦争で俺たちはこういうところにいる。若い兵士たちが言うのは「命令に従っただけ」ということ。命令を出した人が「ご苦労様」と謝ったって……。私は2、3回行ったのみです。
子煩悩な父は手紙をたくさん書き、手紙を待っていた
終戦放送のとき、勝った負けたという事実よりもお父さんが帰ってくることをお母さんが喜んでいたと語られたのが印象的でした。駒井さんから見てお父さんはどのようなイメージで、どのような存在でしょうか。
父とは3歳で別れているので写真のイメージしかありません。子煩悩で、子供のことを思っていたと思います。手紙をすごくたくさん書いてくれました。私を「おーちゃん」と呼び、「おーちゃんの手紙待ってるよ」「おーちゃんの手紙が着きました。何回も何回も読んでいます」と、事務系で何もないところだったので月に1、2回送られてきました。なぜこんなことになったのかと思っていたと思います。母から聞いたのは最後の出征のとき「俺は行きたくない。死ぬから」と泣いたそうです。昭和20年3月20日頃、日本に捕虜を送って九州に来ていました。そのときの手紙で「私は覚悟ができている。私の顔を子供たちが忘れないように頼む」と母に書いてきました。遺言書は簡単なものがありますが、それよりもその手紙が響きました。しかし父以上にもっと悔しい方々がいると思います。
就職時に戦犯の子と言ってはいけないと言われたのに「戦犯の子だ」と自ら言ったり、ロマックスさんへ謝罪に行ったことも、駒井さんが「戦犯の子」という事実を引き受けられているのだろうと思いました。そのときの気持ちやいまお話されている気持ちを聞かせて下さい。
ロマックスさんも永瀬さんも父親も亡くなり、あの世で3人集まるということがあったらいいなと思っています。何が目的なのですかと聞かれたら、私は父、母、兄弟に対しての報告をしている気持ちです。このような講演の後には必ずお墓に行ってお線香をあげています。
歴史を知ることは大事で、若い人が自分で謝ろうと思うのはいいことですが、人から強制されて謝るのはどうなのかと思う。「謝罪」や「和解」の意味について考えることが必要なのではないでしょうか。それ以上に、戦争についてもっと知ってもらいたいとも思います。
「謝る」ということは難しいこと。しかし謝らないのがいいというのも困ります。時代的に謝ることの気持ちは薄くなってるかもしれませんが、日本人らしい文化を大切にしたいです。

企画者の松浦さん
「僕らにとって曾おじいさんの世代が戦争に行っていて、自分と戦争の距離が遠い感じがしていました。しかし今日、駒井さんのお話を聞いて、本当の意味で戦争は終わっていないと感じました。距離は遠いものだけれど、戦争と自分の関係を考えることは大事だと感じます。これを機会に、戦争について、また今後の和解について考えたいと思いました」
来年で戦後70年を迎え、学生の松浦さんの言葉のように「戦争との距離が遠いもの」と感じる人が多くなったが、だからこそ、戦争を語り継ぐ駒井さんのような方はとても貴重な存在だ。駒井さんの臨場感ある語り、つねに前向きに、状況に負けずに生き、日本人としての誇りを大切にする、謙虚で凛とした姿が印象深く残った。
(※このトークイベントは2014年1月15日に行われました。)
プロフィール
こまい・おさむ/1937年生まれ。元陸軍大尉だった父・光男は、戦時中、タイの捕虜収容所の副所長だった。戦時中に捕虜たちを拷問した事件の容疑者として1946年にB・C級戦犯裁判にて死刑判決が下され、同年3月に41歳で死刑となる。その後、修氏は《戦犯の子》として近所や学校で後ろ指を指される経験をする。大人になってから父親の死に関する真相を調べ、光男が重傷を負わせた元イギリス人捕虜と対面し“父親に代わって”謝罪、和解する。現在は、《戦犯の子》と言われたことを交えながら自身の体験を語り継ぐ活動をしている。
応募締め切りは1月30日(木) 24:00です。詳細をご覧の上、お急ぎご応募下さい。
寄稿家プロフィール
ふくしま・まさよ/航空会社勤務の後、『ほぼ日刊イトイ新聞』の『ご近所のOLさんは、先端に腰掛けていた。』コラム執筆。桑沢デザイン塾「映画のミクロ、マクロ、ミライ」コーディネーター。産業技術総合研究所IT科学者インタビューシリーズ『よこがお』など。