

新潟県十日町市や津南町にまたがる豪雪地帯、越後妻有を舞台に、長岡市在住の小林茂監督が5年にわたり巡る季節を追いかけたドキュメンタリー『風の波紋』が劇場公開へ。本作誕生までの日々を綴った著作『雪国の幻灯会へようこそ 映画「風の波紋」の物語』もまもなく上梓。亡き佐藤真監督の『阿賀に生きる』と『阿賀の記憶』ではカメラマンを務め、自身の監督作品『こどものそら』『ちょっと青空』『わたしの季節』では障がいのある子供たちを、2009年の前作『チョコラ!』ではケニアのストリートチルドレンを映し出した。3.11から丸5年というタイミングだが、艱難辛苦を越えてどう生き続けるか、『風の波紋』に登場する人々の営みはひとつの提案のようにも見える。本作について伺おうと小林監督のご自宅を訪問。そこは徒歩20分という場所だった。透析生活9年という監督の体調を気にかけていたのに、ご近所の気軽さのせいか、茶飲み話のような取材は3時間に及んだ。
作品のために生きた5年間
私が長岡に移住し、新潟県民になって1年半になります。ここに映し出されている中立山(なかたてやま)集落は、まぎれもなく新潟ローカルでありながら、どこの地方でもあり得る。そんな普遍性もあるし、あるいはどこにもない場所かもしれない。ファンタジーのようでもありますね。
土本典昭さんが作った『海とお月さまたち』という映画が頭の中にあって、子供も見られるような映画にしたかった。1時間くらいの遠距離の中で助け合って生きている人たちの架空の村を描けたらと思いました。どこも同じだけど、この村も前は40軒以上あったのに、それがいまや5軒。そのうち外からの移住組が2軒。越後妻有には「大地の芸術祭」のスタッフとしてやってきて、そのまま住み着いた人も多いけれど、移住者と地の人がうまくやれるかどうかは人によるね。「俺がこの村を再生してやる!」と入ってきた人が1年で尻尾を巻いて出ていったという話も聞きました。東京から移住した木暮さんも、最初は周囲の人たちにいつ出てくんだろうと思われてたみたい(笑)。
宴会のシーンやヤギの乳搾りのシーンなど、木暮さんがコミカルに映りますね。
彼は地の人と明らかに違うけど、地の暮らしを吸収しようとしているところが面白い。木暮さんは自分ではなく村の重鎮を撮って、『阿賀に生きる』のような映画にしてほしかったみたい。彼は僕との縁があって移住したわけだけど、編集の過程で、経歴について映画の中で見せたほうがいいのではという意見がスタッフから出たんです。そこで僕は木暮さんに手紙を送ってみたけど、返事は「現在がすべてなり。過去には一切触れるべからず」。それをスタッフに見せて、みんな納得。いまの暮らしだけを見つめることになりました。

監督の故郷・新潟を改めて撮っておきたいという気持ちだったのでしょうか。
脳梗塞になって12年、透析生活は9年になります。『チョコラ!』のとき、腎不全で血尿は出るし足はつるし、途中で佐藤真さんは亡くなるし、500人も集まった追悼会に僕はどうしても出席する気持ちになれなかった。佐藤さんの名前がクレジットされる最後の映画だから、とにかく完成させなくてはと思ったけど、翌年の9月4日の命日を前にして不安が押し寄せて、鬱病になってしまって。クリニックに通ってよくなるんだけど、命日が近づくとまた具合が悪くなるというのを繰り返していました。そういう状態だったから、『チョコラ!』の次はもうないだろうなと、映画作りを半ばあきらめていたんです。そんなときにね、2009年に大阪の友人が電話をくれて。彼女も病んでいて、「歩けないから車じゃないと出かけられないけど、親しい人たちに会ってから死にたいと思って、いま長野県にいる」と言うんです。ふと妻有の木暮さんのことを思い出しました。長野からも近いし、緑も多くて温泉もある。それで、美人林という場所で待ち合わせました。真夏の天気のいい日でね、木暮さんはもちろん、みんな集まって、そばを打ってくれたり、山ぶどう酒を持ってきてくれたり、とても楽しい日だった。翌朝、朝日を浴びてキラキラ輝いている朝露を見た瞬間、よし、ここなら映画を作れるかもしれない! そう思ったんです。自分の体調のことを考えると難しいかなぁとも思ったし、映画制作は苦しいけれど、完成するとまた入っていきたくなる。「始めたら必ずゴールがある」と自分に言い聞かせて撮り続けました。この作品があったから、5年間を生きられたと思っています。
生きる知恵が詰まっている場所
ちょうど3.11から5年ですが、その翌日に新潟でも地震があったことを知りませんでした。
そう、撮影を始めてまもなく、2011年3月12日にM6.7の大地震が起きて、木暮さんの家が全壊して僕も困ってしまいました。地震の復興映画にはしたくない。でも、無視もできない。人が生きたり、死んだり、病気になったりというように、地震も長い人生の中でのひとつの大きな事件として描きたい。そのためには日常がきちんと撮れていないと地震だけの映画になってしまうなぁと。地震の影響は2、3年は続くでしょう。仮設住宅はあえて撮らないと決めたけど、木暮さんに「僕はカメラマンでもあるからわかる。あんなときは撮りまくらないと。小林さん、全然撮らなくて大丈夫? って心配したよ。自制してたんじゃない?」と言われました。そういうことは伝わるんですね。阿賀のときのように現地で暮らそうと思ってたけど、地震でそれどころじゃないから、グリーンツーリズムをやっている農家民宿に泊まりました。でも、結果的にはそれがよかった。僕らが家を借りて住んでたら怪しいけどね(笑)、民宿は信頼されてるから。「こんな人いますか」と訊くと紹介してくれたり、「こんな場所ありますか」と訊くと情報をくれたり、とても助かりました。
四季折々の自然の恵みも脅威もあり、みんなで分かち合い、助け合う暮らしは雪国ならでは。根源的な生き方ですね。
いまは過去に裏打ちされていて、人間が縄文以来営んできたやり方があり、土地との付き合いは延々と続いています。つぶれていく家もあの代でつぶれたわけではなく、300年の歴史があり、そこで暮らしている人は、その300年を生きているということ。背景には、ある種の文明批判もあります。いまの日本はこういう場所を次々につぶそうとしていますが、農業ジャーナリストの大野和興さんが「限界集落というのは行政の言葉だから使いません。日本を大木に例えると、こういう小さい村々は毛細根。そこから養分を摂って生きているのだから、そこをつぶしてしまったら大木も倒れる」と言っていました。ここ数年、僕はそれを実感しています。川の源流をつぶしたら、中流域、下流域、そして海もダメになる。そんな生きる知恵が詰まっている場所なんです。

ヤギを食べるシーンがあります。奄美大島でヤギ汁を食べたことがありますが、新潟でも食べるのかと、ちょっとした発見でした。
本当はあんまり撮りたくなかったんです。小さい頃から鶏を絞めたり、ウサギを食べたり、家でもやってたから。小学生のときに山スキーに行って、何人かで遭難しかけたことがあってね。そのとき罠にかかっていたウサギを見て、これを食わないとダメだ!って、みんなで食べたよ。考えてみたら、罠があるってことは里が近いってことなんだけど、子供だったからわからなくて(笑)。でも、スタッフがヤギを食べる習慣があるなら撮りましょう! ということで。僕はスタッフの意見は聞くんです。決してNOとは言わない。やってみたけどダメだったということはあるけど、とにかく一度は取り入れます。ヤギは乳搾りができるし、雑草を食べてくれるし、最後は肉にもなる。仲間に集まってもらって、みんなで捌いて、食べきれないから持って帰ってもらうというのを毎年やってます。ヤギは1年で大きくなって次の春には仔ヤギが生まれ、そうすると乳が出て、そうやって循環しているんです。昔はこれが当たり前。スーパーでパック詰めになった肉なんてないし、だいたい村にスーパーがない。ウサギを見ればお父さんがパッと鎌を投げる、そんな感じでしたね。熊もウサギも食べるし、山の物は何だって食べますよ。
時空間がずれたシーンで裂け目に入っていく
5年間撮りためた映像を見るのにも、編集にも時間がかかったでしょう。
これほどまでに、作品のために元気でいなきゃいけないと思った映画はないんです。普通は1年でだいたい終わりだけど、地震があって時間もかかった。村の人たちも、最初の頃は「まだ映画はできないのかい?」と言ってたけど、2年目くらいからもう言わなくなって、3年目からはあきらめたみたい(笑)。撮った映像を見るのに2ヶ月かかりました。編集の秦岳志さんが大阪に移住したから、僕もそっちにアパートを借りて。ふたりでどうにか10数時間にまとめて、そのあと4時間にしたものを東京でスタッフに見てもらいました。幻燈会と劇団ハイロのシーンはカットしたら? という声もあったけど、僕は時空間がずれたシーンも取り入れたいと思った。ドキュメンタリーなんだからありのままをと言う人もいますが、映画になった途端にぜんぶフィクションという、佐藤さんのような人もいます。カメラマンをやっていて、自分がそこにいることもカメラがあることも忘れてしまうような、マジックミラーというか、神様がいて、スーッと覗いているような。「映画的な時間と空間」と呼んでいますが、そういうシーンがあるかないかで映画の質がまったく違ってくる。ただ撮りました、構成しましたということでなく。映画的な時間と空間が映画を支えていて、『阿賀に生きる』はその塊のような映画です。今回は、農作業などをずっと撮っていても限界があることはわかってた。民俗映画でもないし、僕の幼少時の記憶とだぶるものもあるし、時空間のずれているところ、裂け目にスッと入っていくような映画がいいなと。河童の目線というか、パッと水から上がったら雪だったり、春だったり、グルッと見回したり。カットしたシーンもたくさんあるけど、実はいろいろな演出もしています。そぎ落とした膨大な映像のエキスを吸い上げた映画でないとね。完成したときにはジグソーパズルがはまったような感じで、もうこれ以上動かしようがない。今回も36バージョンくらい重ねていますが、最後の早回しのカットは秦さんが見つけてきて、ピタッとはまった。NGだと思っていた映像を、この映画が欲しがったんだろうね。最後どうやって終わったか思い出せないんだけど、我々が思い描いたものからまったく別のものが生まれた瞬間だったのかもしれない。

小林組は、スタッフの意見を積極的に取り入れるんですね。
そうしないと、自分が考えている映画の外へ、異次元をピッと切り裂く切り口が生まれない。自分は狭い世界にいるから、いろんな人の眼があって、チャレンジして、そこから切り開かれるんです。これは小林茂の映画ということになっているけれど、我々みんなの映画。秦さんも自分の映画だと言うだろうし、撮影の松根さんもそうでしょう。今回、録音部の川上さんは初めての現場だったから、彼を大事にしないといけないと思って、いつも真っ先に「川上さん、どう?」って意見を聞きました。体験記を書いてくれたけど、やっぱり面白い。スタッフが失敗しても僕は怒ったりしません。うまくいけばそれで終わりだけど、失敗したらもう1回行くことになる。そのときに思わぬ方向に転がっていき、そうやって育つわけだから。僕も60歳を過ぎて、次世代を育てていかなければいけないわけだけど、見せられるのは自分の生き様だけ。ガミガミ言ってるだけでは、スタッフだって面白くないし、みんなが一緒にやってよかったと思ってくれる現場がいいね。『阿賀に生きる』がまさにそうで、7人それぞれが自分の映画だと思えた。そういう経験があったから、僕もそうしてるんです。
その現場の空気が作品にも出ています。押し付けがましくないというか、観客を信頼していて、想像する余地がたくさんあるところが好きです。
自分の範疇でよしとしてもそれだけでしかない。人を感動させたり、考えさせたりするのは、同じ裂け目に入ったとき。小林茂という枠の中に入ってくることは難しいけれど、僕を通じてできた裂け目に何かを感じるかもしれないし、それが映画の核になる。共同作業で時間と空間の裂け目が生まれ、そこに人々が惹かれる。映画館から出て、ああいう世界があってもいいなぁと思うだけでいいんです。田舎に行ってみたいと思って出かけたときに、ちょっとこの映画を思い出してくれるだけでいい。ある人は、40代からのスタートでも遅くないことを知るかもしれない。なんらかのメッセージはあるけど、人間は押し付けて変えられるものではないからね。
1冊の本に導かれ、やがて映画の世界へ
小林監督のバックグラウンドも教えて下さい。下田村(現・三条市)のご出身で県立長岡高校を卒業後、京都の同志社大学法学部政治学科に進学。映画の世界に入っていったのはその頃ですか。
1年生の6月だったかな、古本屋で『田中正造と近代思想』(中込道夫著・現代評論社・1972年)という本が目にパッと飛び込んできて。小学生のときに見た田中正造を紹介するテレビ番組を思い出し、すぐにその本と国土地理院の地図も買って、本に出てくる地名に丸をつけて現地に出かけました。渡良瀬川に行き、つぶされた谷中村とか、ヒッチハイクしながら足尾銅山の赤茶けたはげ山を見た。木が1本も生えてないんです。原因は亜硫酸ガス、そして坑木を作るために伐採してしまったから。後に僕は阿賀野川に向かうわけですが、かつて阿賀にあった草倉銅山を持っていた古河財閥が、大鉱脈が見つかるまで足尾銅山に資金を注ぎ込んでいて、奇しくもふたつがつながった。大学では陸上部で砲丸投げをやっていて、けっこういい成績だったけど、そんなことがあったから陸上部を辞めて、水俣や広島に向かうことになりました。いま61歳ですが、18歳のときに出会った1冊の本が始まりでした。

2年の初め頃、今度は水俣へ。鏡のように静かな海を見て、これが本当に毒を流した海だろうかと信じられなかった。最初は患者さんにも会えず、畑仕事をしたりするだけだったけど、「同志社には水俣出身の江口さんという人がいるよ」と聞きました。ちょうど水俣の判決1周年で、土本典昭さんが撮った水俣のドキュメンタリー『水俣―患者さんとその世界―』が大学の学生会館で上映されてね。家の奥の奥までカメラが入って、患者さんの状況をしっかり撮っていてびっくり。上の空になって、世界が変わったように見えた。それくらいの衝撃で、これがドキュメンタリーとの初めての出会いかもしれません。大学で水俣病患者支援の古本市をやっている人がいて、自分が持っている本の在庫処分ですよね。「もしかして江口さんですか?」と訊いてみたら、そうだった。教会で集会をやってるから来てねと誘われて参加するようになり、支援者として水俣に行くようになりました。当時はリアルタイムで水俣の映画ができていて、映画を見てないのにチケットを配ったりしてね。いまみたいに事前にDVDで見ることができないから、「まだ僕も見てないけど、すごいらしいです」とか言いながら(笑)。お客さんと一緒に始めて見るんです。その活動を通じていろいろな人に出会い、部落解放同盟の支部を巡ることを半年くらいやって。大学は必要なところだけ、4年の頃はゼミだけ行って、あとはずっと水俣へ。でも、無事に卒業できましたよ。
人と人がつながり、佐藤真さんと出会う
卒業後は、どんな仕事をされていたのでしょう。
水俣でも記録写真を撮り続けていて、僕はスチールの写真家になりたいと思っていました。就職はどうしようと思って、ドキュメンタリー番組をよくやっていた読売テレビがいいかなとか、自分の写真集を出すには小さな出版社もいいなとか。筑摩書房で『展望』編集長をやっていて径書房を立ち上げた原田奈翁雄さんに「出版社なんて電話1本あればいいんだから、自分でやりなさい」と言われて。自費出版なんてしたくないから、この『ぱんぱかぱん』の完成見本をスクラップブックに入れて何社もまわって。ずっと後になって「出そうじゃないか」と言ってくれたのが、原田さんでした。「前に僕が訪ねたときのこと覚えてますか」と訊いたら「わからない」って(笑)。人間って不思議なもんで、つながっていくんですね。
『阿賀に生きる』に参加することになったのは?
仕掛け人となった旗野秀人さんを僕は前から知っていてね。彼は水俣病未認定患者の運動をしていて、行政の「水俣病でない」という認定への不服申し立てを患者の代理で行う活動が全国各地で展開されていました。佐藤真さんも東大在学中から水俣病の運動をしていて、若者4人で作った『無辜なる海 1982年・水俣』(香取直孝監督)の自主上映をしていた。佐藤さんは北海道、東北、新潟の担当。そこで出会った旗野さんに、「新潟でも撮ってくれ」と言われた。話が進んで新潟で撮ることになり、旗野さんが僕を紹介してくれました。その頃、僕は記録映画の助監督をやってて、経済的には本当に辛かったよ。アルバイトは数知れず。佐藤さんには、新宿のションベン横丁で初めて会ったんです。大酒飲みのふたりなのに、ふたりとも金がなくて、ビールの大瓶1本とサンマの塩焼きだけで2時間くらいしゃべったと思う。

これから撮ってみたい作品のプランはありますか。
この映画ができたばかりで、これからみなさんに見てもらうのに精一杯。まだ次回作の構想は具体的にはないけれど、ドキュメンタリー映画の枠を広げていくような作品をいつか撮ってみたいなということはありますね。
(このインタビューは2016年3月3日に行われました。)
プロフィール
こばやし・しげる/1954年、新潟県南蒲原郡下田村(現三条市)生まれ。長岡高校、同志社大学法学部卒。足尾鉱毒、ハンセン病や水俣病患者救援活動に関わり、その傍ら柳澤寿男監督の助監督として映画制作を学ぶ。佐藤真監督『阿賀に生きる』(92)の撮影により、日本映画撮影監督協会第1回JSC賞受賞。長野県佐久総合病院の地域医療を描いた時枝俊江監督『地域をつむぐ』(96)、北海道の炭鉱に生きた人々を描いた藤本幸久監督『闇を掘る』(01)で撮影を務める。監督作品として、障がいのある子どもを受け入れる札幌の学童保育所「つばさクラブ」を描いた三部作『こどものそら』(97~00)、重度障がい者の自立生活を描いた『ちょっと青空』(01)を発表。2002年に脳梗塞で倒れるも復帰し、重症心身障がい児(者)施設「第二びわこ学園」を描いた長編ドキュメンタリー映画『わたしの季節』(04)で文化庁映画大賞、毎日映画コンクール記録文化映画賞、山路ふみ子福祉映画賞などを受賞。06年、腎不全をおしてケニア取材を敢行し、ケニアのストリートチルドレンの生き様を描いた『チョコラ!』(09)を劇場公開。著書に『ぼくたちは生きているのだ』(岩波ジュニア新書)、『チョコラ!アフリカの路上に生きる子どもたち』(岩波ブックレット)など多数。2013年度長岡市「米百俵賞」受賞。
インフォメーション
『風の波紋』
3月19日(土)より、ユーロスペースにてロードショーほか全国順次公開
配給:東風
公式サイト:http://kazenohamon.com
Book『雪国の幻灯会へようこそ 映画「風の波紋」の物語』
小林茂 著 岩波書店 4月5日発売 ¥1,944
ISBN4-00-025423-6
寄稿家プロフィール
まつまる・あきこ/1996年から2005年までP3 art and environmentに在籍した後、出版社勤務を経てフリーの編集者に。P3在職中にREALTOKYO創設に携わり、副編集長を務める。2014年夏から長岡市在住。