

想田和弘監督の観察映画第6弾『牡蠣工場』。美しい岡山県牛窓を舞台にしたドキュメンタリーでは、牡蠣に負けずと猫のシロ(本名ミルク)も大活躍、さらに想田夫妻のあうんの呼吸のチームワークも印象的だ。「中国来る」の貼り紙にロックオンする想田カメラ、すかさず入る妻の規与子さん(製作)の援護が見事! 手強い壁にもぶつかるが、しなやかに進化する想田観察映画、果てしない好奇心と葛藤を重ね、社会の、いや人類の、奥底で蠢めく危機を知らせる。さて牛窓での想田さんの「目から鱗」の発見とは? またまたたっぷり伺いました。
『牡蠣工場とシロ』としたいくらい、猫のシロちゃんの存在感もありましたね。また牛窓の風景の美しさも印象的です。移り変わる海の美しい映像に見惚れました。これは何年に撮影されたのですか。
2013年11月です。岡山県の牛窓は「日本のエーゲ海」というキャッチフレーズがあるくらい、食べ物も美味しいし、景色もいいです。正直僕も、牛窓の景色の美しさに魅了されて通っていたというのもありましたので、きちんと映画でもそれを再現したかったんです。牛窓には僕の妻の柏木規与子の母方の実家——僕の本(『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』講談社現代新書)の中に登場した牛窓ばあちゃん(木下秀子さん)の家があって、結婚してから何度もおばあちゃんを訪ねて、いいところだなあという印象がずっとありました。ここ数年は、柏木の母の同級生のお宅のはなれを借りてそこで夏を過ごしていたんです。
今回の映画に出てくる家ですね。
そうです。築150年の家で、目の前が海の、すごく居心地のいい家です。映画を観た人からは、「猫の通り道に家がある」と言われたりしてます。

シロちゃんは我がもの顔で通り抜けてましたものね。
本当にこの家はおもしろいというか、広くはない二階家で、こんな感じ(iPadを見せながら)、2階からこんなふうに青い海が見えて、漁港になっている。そこを漁師さんが出入りしていて、こんな感じでここ(海岸沿いの路地)で規与子が太極拳をやっているんです。そうすると、漁師さんが「何やってるの」と声をかけてくれて知り合いになり、魚をもらってきたりするようになって。そこで僕が漁師の世界に興味を持ったのが発端です。漁師さんたちは70~80代で、後継者もいなくて、魚も減っているらしくて。ということは、いまは牛窓に漁師さんがいる風景は当然のことみたいに思われているけど、もしかすると10年後、20年後にはそれが消えているのではないだろうかと。牛窓で漁師さんが消えるということは、日本全国にも言えることなんじゃないかと、そう思ったときに、これを残しておきたいと思ったのが映画の始まりなんです。
奥様の太極拳がいちばんの入り口だったみたいな。
そうです。僕は出不精だから、外にあまり出て歩かずにほとんど家に居て、景色を眺めながらインターネットやったり本を読んだり、あとは海岸で寝そべっているか、そんな感じなんですが(笑)、規与子のほうはアウトゴーイングで人と話すことが好きなので、すぐ誰かと仲良くなってきて、その話を食卓で僕に話したりするんです。僕は「へえ~」と興味が湧いてきて。そんな中で僕も知り合った漁師さんがいて。
「今度カメラを持ってお邪魔していいですか」と言ったら「ええよ」と言って下さいました。11月に時間ができて、カメラを持ってお邪魔しました。僕はそれまで知らなかったんですけど、その方は牡蠣工場を所有していて、11月から牡蠣むき作業が始まるので、牡蠣工場でよければ案内するよと言われて、撮り始めたのがこの映画なんです。
なんとタイムリーな。11月に牡蠣むきが始まるから狙って行ったわけじゃなくて、カメラを持って行ったら牡蠣むきが始まったと。
そうです。だから最初は正直、「牡蠣かいな!」と思いました。牡蠣は好きだけど、自分が牡蠣の映画を撮るなんて思ってもみませんでした。僕はそこに中国人の働き手がやってくるなんてことも全然知らなかったし、工場の後継者が東北出身の方だということも知らず、それは撮り始めてから知ったわけです。
まるで想田さんが来るのを待っていたかのよう……。その東北出身の方が、震災後に牛窓に移住されたことを聞いてどう思われたんですか。
「そうか」という感じです。予感としては、彼を撮らせてもらったら、震災の影響が映り込むのではないかというのはありました。でも特に狙おうとも思ってないし、自然に。彼の存在は『牡蠣工場』の世界の中では一部分で、それを通じて何かを描こうとか、そういうふうには全然思わなかったです。でも、撮る中で必然的に震災後の日本の空気は映り込みますよね。周りの人たちも震災のことを話題にしたりしますし。

牛窓に「世界」あり
そうこうするうちに工場のカレンダーが映り、「11月9日(土)、中国来る」と書いて貼られたメモが映りました。あれは、工場に中国人の労働者がやってくるということなんですね。
僕もあれを初めて見たときは、「何だろう、中国来るって」って思ったんです。
何かの暗号みたいでしたね。「中国人」とも書いてなくて。
どういう意味だろうと思って聞き耳をたてていると、中国人労働者が2名やってくるらしいと。その背景には人手不足があって、またその背景には過疎化とか少子高齢化がある、ということがだんだん判ってきて、それは僕にとっては「目から鱗」という感じだったんです。僕は、牛窓という町は過疎化が進んで、人がどんどん流出していっている町なので、グローバリズムとか国際化というイメージからほど遠い存在のように思ってたんですけど、実はそういう町だからこそ、むしろグローバリズムの最前線のようなことが展開していると気づいた。それは目を見開かされる経験でした。
まさに「牛窓に世界あり」という感じでした。お昼ご飯を作る女性を想田さんが話しながら撮っているシーンが好きなのですが、NYに住んでると言うと「世界を見てきたんだね」と言われ、想田さんは一瞬「間」があって、「そうですね」と答えられていたような。そのリアクションがおもしろかったです。
僕も観察されてましたね(笑)。
想田さんもかなり国際人だけど、実は牛窓の人も負けないくらい国際的だった。「こんな感じ?」と編集を意識されて話していらっしゃるのは最高でした。
そう。『精神』に出てきた詩人の菅野さんが何かかっこいいことをおっしゃるたびに「はい、カット」と入れていたのを思い出しましたね。

無意識に植え付けられたある価値観に気づいた
今回の編集期間はどれくらいですか? いつものように、最初は見えなかったテーマが、編集を重ねて見えてきたのでしょうか。
9ヶ月かけました。編集の途中では映画になってない状態で、映像の羅列みたいになっています。順番を入れ替えたり、足したり引いたりしていくうちにだんだん映画としての血が通っていくのですが、その作業にものすごく時間がかかります。構造のようなもの、つまり、なぜ労働力不足があるのか、というのは撮っているときはよくわからないというか、ああ、労働力不足があるんだな、だから苦肉の策として中国人を呼ばざるを得ないんだなというところまでわかるんだけど、その背景にある構造みたいなものまではよくわからない。でも編集するうちに気がついたのは、工場主の息子さんが来られたシーンで、僕が何気なく「工場を継ごうとは?」って訊いたときに、息子さんが「僕はそのつもりはないんです」と答える。実は僕はちらっとその場では「なんで継がないんだろう」と思ってしまったんです。でも編集中にあの場面を見ながら考えたのは、あ、俺も同じだと気づいたんです。
要するに、想田さんご自身も家業を継がないということ?
そうなんです。うちの親父はスカーフとかマフラーを作る小さい会社を営んでいて、母もそれを手伝っています。僕は3人兄弟の長男ですけど、あたり前のように僕もほかの兄弟も継がない。親父も継げとも言わないし、親父の代で終わるんですけど。僕の中で「継ぐ」という選択肢も浮かばなかったんです。だからもし僕が親父の会社に遊びに行ったとき、(この映画のシチュエーションのように)誰か映画作家がやって来て、「継がないんですか」と質問されたら、僕はまったく同じ答えを言ったと思うんです。もう軽く言ってたと思います。じゃあ、それはなぜなんだと考えてみると、ものすごいことに気づいてしまった。なぜ選択肢にさえ浮かばなかったのか、それはきっと子供の頃から同じメッセージを受け続けてきたからだと思うんです。つまり、「勉強していい学校に入って、ホワイトカラーになりなさい」というメッセージ。そのメッセージの中には、本来なら例えば、農家になりなさいとか、漁師になりなさいとか、大工になりなさいとか、工場で働きなさいとか、同じような強さであってもいい気がするんですが、それはものすごく弱いメッセージか、ほとんどゼロか。
選択肢としては押しが弱いですね。
ですよね。でも、それって変な話です。世の中にはいろんな仕事があって、例えば米を作る仕事。実際、米を作る人がいないとすごく困るわけですよね。あるいは服を作る人、魚をとる人、牡蠣をむく人がいないと困るわけですが、なぜかそれらよりもホワイトカラー、あるいは第3次産業の職業のほうが賃金がよくて、社会的ステータスが上のように言われている。僕もその価値観を吸収して育ってきたということに気づかされちゃったんです。意識したことすらなかったんですけど、僕は栃木の田舎で生まれて、そこで勉強して東大行って、ニューヨークまで行って、いま映画なんか作ってます。その構造の中にいて、知らず知らずのうちに価値観を吸収していままでの選択をしてきたんだと思うんです。
それは日本の教育構造の問題ですか。
というより、社会の価値観でしょうね。しかもこれは日本だけではないというところが、実は根深い問題で、アメリカでも、エデュケーション、エデュケーションと言います。発展途上国はもっとそうですね。貧しい生活を抜け出すためには学校へ行きなさい。ホワイトカラーの仕事につきなさいと言われるわけです。実は文明そのものの問題で、もしかすると産業革命以降とか、そのくらいにさかのぼって問わなくちゃいけない文明のあり方そのものかも……?
すごい根源的です。
そう、この根源的なイシューに、この小さな牡蠣工場を見ることによって気づいてしまったんです。

実際、マララさんが言うように教育が必要なことは明らかだけど、その方向性とか、単純に近代化が途上国の現地の人にとって本当に幸せなのかとか、考えれば考えるほど難しく、わからなくなります。
そこなんですよね。本来ならば農業の人もホワイトカラーと同じような賃金が保障されて、したがって社会的ステータスも高い。それは服を作る人も、漁師も、それぞれやっていることは違うけど価値的には同じであるべきですよね。「職業に貴賎なし」というのは建前では言われてるし、そうあるべきなんだけど、現実問題としては、評価というのは賃金でなされていて、そこに格差がある。そこでは明らかに客観的事実として、第1次、2次産業の人たちは冷遇されているわけですよね。うちの親父の場合も冷遇されている立場として働いてきて、だからこそ僕にも「家業を継げ」とは言わなかったのかもしれないです。そういう構造を、では誰が決めているのかというと、もしかしたら私たちが決めている。わかりやすく言うと、牡蠣をむく人手が足りないとき、例えば「牡蠣むきをすると年収1000万円になります」とすれば、人は来るでしょう。だけどそれでは牡蠣の値段が上がり、売れなくなる。だから賃金を抑えなくてはいけない。そのためには外から連れてこようと。でも外から安い労働力を連れてくるということは、そこで働いている人たちの賃金も上がらないということになります。そういう形でずっと低い賃金のままでいくことになる。だから人が来ない。
悪循環ですね。
悪循環になっていると、僕は素人ながら思うわけです。じゃあ誰が不当に彼らの給料を下げているのかといえば、我々消費者なんですよね。広く薄く搾取している、搾取という言葉が適当かどうかわかりませんが。それはあらゆる局面で言えるのではないかと思うんです。それこそファストファッションとか流行っていて、その現場でも同じだと思います。ただ一方で安くて良いものを選ぶというのは、消費者の姿勢としては当然だと思います。
賢い消費者になれと教育されますよね。
それは当然の行為です。僕も毎日の選択のなかで、同じ品物が1000円のものと1500円の値札がついていて、同じであれば1000円のものを選ぶと思うんです。だから誰が悪いというわけじゃないんです。この文明のあり方で進んで行くと、なぜか知らないけれどわりを食う人がいて、だから成り手がいなくなって、もし世界がどんどん均質化していくとすると、世界から農家はいなくなるし、誰も魚をとらなくなる。
理論上そうであっても、現実には農業も漁業もなくならないし、誰かがやらなければならないですよね。
そうですよね。そういうものすごい根深い問題というか、一言ではあらわせない矛盾のようなものに気づかされたんです。

うーん、『牡蠣工場』は深くておもしろい。
そのシステムのなかに入った瞬間にその中でプレイするしかないという、誰もゲームの規則を変えることができない、そういう世界なんです。
昔はどうだったんでしょう。モノ作りを楽しくやっていたとしても、管理する人はもちろんいたわけで。
そう、ヒエラルキーはあったろうし、おそらく昔からずっと解決していない問題なのじゃないかと思います。先日、白井聡さんにその話をしたら、それを唯一実験しようとしたのがソビエト連邦なんですよ、とおっしゃるんです。それで失敗したじゃないですかと言われて……。
そうですね。ユートピアはどこにもない。そんなオチでよろしいでしょうか。
そういう構図が僕には見えたということしか言えないですよね。どうしたらいいかまだ言えないし、どうしていいか僕にはまったくわからないです。
見えたことだけでも、ありがとう『牡蠣工場』ですね。それから、最初この映画のことを知ったときに「こうじょう」と頭にインプットしてしまったのですが、映画を観てタイトルがどドーンと出て「かきこうば」とふりがながあって「ああ、そうなんだ」と思ったんです。見ていくと「こうば」と「こうじょう」は違うことに気づくし、これは「こうば」だと分かりました。
そうでしょう。「こうば」ですよね、これは。
そして、みなさん楽しそうに働いていらしたのも印象的でした。
そうなんですよ、笑いが絶えないし、けっこう地域のネットワークが残っていて、もともと地域のネットワークに依存した産業で、それなしには成り立たないと思うんです。
いろいろ情報交換しつつ、仲良くやっていかないとあの中で働けない。
だと思います。映画の中で牡蠣を水揚げするのにクレーンを使ってましたよね。クレーンがない時代には、工場や養殖業者の人たちみんなが力を合わせて引っ張っていたんです。協同作業をしないと成り立たないんです。イカダも共同で管理してるし、水質に問題が出たりしたら恐らく全部が影響受けるわけですから。別々の経営体が6軒あるんですけど、出荷場も含めて共有部分が多いです。
そうだ、人命救助もしましたね。
僕が落としたわけじゃないですからね(笑)。僕はポンと船に乗ったのですが、あのときは何が起きてるのかわかってなくて。聞くと「人がハマっとる!」って。
スクープでしたね。あのままだったら危なかったですよね。
あんなことは普通ないですよね。

(※このインタビューは2016年1月27日に行われました。)
プロフィール
そうだ・かずひろ/映画作家。1970年栃木県足利市生まれ。東京大学文学部宗教学・宗教史学科卒。スクール・オブ・ビジュアルアーツ映画学科卒。93年からニューヨーク在住。NHKなどのドキュメンタリー番組を40本以上手がけた後、台本やナレーション、BGM等を排した、自ら「観察映画」と呼ぶドキュメンタリーの方法を提唱・実践。 著書に『精神病とモザイク』(中央法規出版)、『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』(講談社現代新書)、『演劇VS映画』(岩波書店)、『日本人は民主主義を捨てたがっているのか?』(岩波ブックレット)、『熱狂なきファシズム』(河出書房新社)、『カメラを持て、町へ出よう 「観察映画」論』(集英社インターナショナル)、共著に『街場の憂国会議 日本はこれからどうなるのか』(晶文社)、『原発、いのち、日本人』(集英社新書)、『日本の反知性主義』(晶文社)など。最新刊『観察する男 映画を一本撮るときに、監督が考えること』をミシマ社より1月22日刊行。
インフォメーション
2月20日(土)よりシアター・イメージフォーラムにてロードショー
配給:東風
公式サイト:http://www.kaki-kouba.com/
Book『観察する男 映画を一本撮るときに、監督が考えること』
想田和弘 著 ミシマ社 1月22日発売 ¥1,944
ISBN:978-4-903908-73-1 C0095
寄稿家プロフィール
ふくしま・まさよ/航空会社勤務の後、『ほぼ日刊イトイ新聞』の『ご近所のOLさんは、先端に腰掛けていた。』コラム執筆。桑沢デザイン塾「映画のミクロ、マクロ、ミライ」コーディネーター。産業技術総合研究所IT科学者インタビューシリーズ『よこがお』など。