

フォトジャーナリスト広河隆一さんに密着したドキュメンタリー『広河隆一 人間の戦場』が公開となる。監督の長谷川三郎さんは、広河さんの“風のような”写真の撮り方に只者じゃない感を覚えた。パレスチナ、チェルノブイリ、福島と、取材同行をした先々で広河さんの限りない優しさに触れることに。初監督作品『ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎90歳』に続き、今度は“セカイの嘘”の現場へ。この映画が「若い人への、世界との向き合い方のヒントになれば」と願い、撮影秘話を語ってくれた。ちなみに演出を手掛けたTBS情熱大陸「モデルボクサー 高野人母美」も先ごろ放映されたばかり。
前作の被写体は報道写真家、福島菊次郎さんでした。今回、フォトジャーナリストの広河隆一さんを撮ろうと思ったきっかけや経緯を教えて下さい。
福島菊次郎さんのときは、魅力的な写真家がいらっしゃるというお話を聞いて、手紙を書いて会いに行き、すぐに菊次郎さんの人間性に惚れ込んで撮り始めました。後先を考えないで走り出してしまった感じでした。その菊次郎さんのドキュメンタリー映画『ニッポンの嘘』冒頭部分のシーンに、『DAYS JAPAN』主催の若者向けのフォトジャーナリスト講座が映っていますが、その取材のときに、当時の『DAYS JAPAN』編集長をされていた広河さんにお会いしました。忘れもしないのですが、最初、広河さんは菊次郎さんと若者たちの話をニコニコ静かに聞いていて、場が温まって丁々発止の意見が交わされていた絶妙なタイミングでそっと立ち上がり、1枚だけパシャッと写真を撮ったんです。その広河さんの姿がとても心に残りました。それは、シャッターの押すタイミングや取材相手との距離感です。僕も仕事柄、多くのカメラマンと付き合ってきましたが、取材相手との距離感などに、そのカメラマンの人間性がすごく出ると思っているんです。菊次郎さんは真正面から相手の苦しみとか権力者に向き合う強さがあるのに対して、広河さんは、現場に対しての向き合い方が、じっくり自分の中で噛み締めたところで、被写体を包み込むように優しくシャッターを切れる人だと思うんです。本当に風のような感じで、直感的に凄い人だと感じました。

それからしばらくお会いする機会がなかったのですが、本作の企画・製作をされた守屋さんから、広河さんの人生の記録を残してもらえないかというお話をいただいたんです。僕は前作で菊次郎さんの人生を取材しながら「ニッポンの嘘」を見つめてきましたが、広河さんは、パレスチナ、中東、チェルノブイリと、いわば「世界の嘘」を暴きながら、現場を歩いて来られた方です。広河さんを追うことで、世界と、そしてこれからの時代とどう向き合うのか、考えられ続けられると思ったんです。ちょうど『DAYS JAPAN』の編集長を辞め、1人のジャーナリストとして現場に復帰されるところだったので、広河さんにとっての「現場」とはどういうものなのか、しっかりと見てみたいと思ったのがきっかけですね。
広河さんの著書『パレスチナ 新版』(岩波新書)は凄くて、新聞記事くらいしか知らなかったパレスチナのことを、ジャーナリスト広河さんの目を通して知り驚きました。新書を読んで号泣したのは初めてで、広河さんはどんな方なのか知りたいと思っていました。
広河さんは寡黙で、自分自身を前面に出される方ではないので、これまで広河さん自身を見つめたドキュメンタリーは少なかったと思います。でもお会いしてみて、現場への向き合い方にしても、すごく人間味あふれる方だなと思いました。パレスチナやチェルノブイリの問題はあまりにも大きくて、どう向き合えば良いのか、正直途方に暮れてしまうところがありましたが、広河さんは徹底して等身大で現場に向き合い、そこで感じた矛盾や葛藤や気づきというものを大切に持ちながら、どんどん現場に深く入り、そこに生きる人々を見つめていくんです。広河さんは、世界の様々な問題にどう向き合い、そして、その中でひとりの人間として何ができるかを、上から目線じゃなく、考えるきっかけを与えてくれる方だと思います。映画を作ってみて、僕自身がそうでしたから。

長谷川監督はパレスチナ、チェルノブイリ、沖縄と、広河さんの取材に同行されたのですよね。
取材は、広河さんの『DAYS JAPAN』編集長引退宣言を受けて始まっているんです。まだ新編集長の丸井春さんに業務を移行する途中の段階で、広河さんは、デスクワークのほかに、沖縄・球美の里に設立した、福島の子供たちのための保養所で、子供たちのケアをしていました。取材当初、その保養所で子供たちを優しそうに見つめる広河さんの姿を見ながら、当時自分自身が勝手に抱いていたジャーナリストのイメージとかけ離れていると感じました。失礼だと思いながら「(保養所までつくったことは)ジャーナリストの枠を越えているのではないですか?」と聞いたんです。すると広河さんは「たしかに超えているかもしれない。でも超えないといけないと思うんです、僕はジャーナリストである前に、一人の人間だから」と答えられました。さらにそれを突き動かしているのは何かと尋ねたら「いままで取材現場で出会った子供たちです」と。広河さんが暴いてきた「世界の嘘」というものを知りたいという思いから始まった取材ですが、だんだんと広河さん個人の人生をもっと深く見つめたいと思うようになりました。「広河さんはどうやってフォトジャーナリストになり、そしていまの心境に至ったのだろう……」と。僕らが、広河さんの人生を辿りながら、その取材の中で、広河さんが見つけたメッセージを映画の中で届けたいと思い始めました。そういう取材の流れだったんです。
撮影スタッフは何人でしたか。
基本は、私=ディレクター、撮影、録音の3人。チェルノブイリに関しては、ディレクターとカメラマンの2人体制で行いました。『DAYS JAPAN』編集部内での撮影は、僕が自分でカメラを回しました。ロングインタビューでは3人体制のチームでしたが、冒頭のガザ空爆の現地レポートを見ているシーンは、広河さんの編集長としての最後の号ができるまでを撮ろうと思い、僕ひとりで編集長室に詰めていて、たまたま撮影できた場面です。その時は、ひと月半くらい回した撮影素材のうち、使ったのは4カットくらいでしたね。
撮影期間は、トータルではどれくらいだったのですか。
2013年の秋から2015年1月までのうち、70~80日くらいカメラを持って行っています。もちろんそれ以外にもカメラを持たずに広河さんにお話を聞いたりしていました。映画には盛り込めませんでしたが、新編集長の選考会でもカメラを回していました。

家族のことがなかなか切り出せなくて……
長谷川監督は広河さんのご家族にも視線を向けています。ジャーナリストとして生きている人の土台というか、足をつけている場所は気になります。広河さんの少し不器用なところも垣間見えて微笑ましく感じるシーンもありました。
一般的にこういうヒューマンドキュメンタリーだと、ご家族のことを描いたりしますね。もちろん考えてはいたのですが、なかなか家族のことを切り出すきっかけがなかったんです。というのは、常に広河さんの目の前には取材現場があって、それに対してどうしようかと考えていらっしゃるので、菊次郎さんのときのように「散歩にご一緒していいですか」なんてことはとても言い出せなくて。もちろん広河さんもそういう日常をあまり送っていらっしゃらないようですし、それほど仕事漬けの毎日なんです。そうこうしているうちに、チェルノブイリの取材の途中で、お母様の危篤の知らせがあって、やっぱりご家族を犠牲にされている仕事なんだなと。でもやはりそこでもなかなか切り出せませんでした。沖縄にお住まいの娘さんの民さんを映していますが、あれは実は別の取材で、沖縄の基地問題の取材に同行させていただいたときに撮影しました。その取材は映画には盛り込めていないのですが、「帰りに娘の民のところに寄る」と広河さんがおっしゃったので、「あ!」と思って同行させていただいたんです。
広河さんが娘さんとお孫さんと過ごされる貴重なシーンですね。
あの場面はいきなりカメラがあるので緊張もあったとは思いますが、言葉を交わさずとも、広河さんとご家族の雰囲気を感じられる空間でしたね。そのときはそのまま別れましたが、民さんにはどうしても話を聞きたくて、後日もう一度伺いました。もしかしたら父、広河隆一さんへの様々な思いが出るかと思いましたが、娘として民さんは、広河さんの人生を受け止めていらっしゃると伺って、そこに民さんの強さ、大きさを感じましたし、また、そういう風に背中で自分の人生のことを伝えていた広河さんも凄いなと思いました。現行の取材の合間に、ご家族の世界がちらりと見えたところを少し見つめさせていただいて、また現場に戻ったという感じです。でも、やっぱりご家族のことはあまり聞けなかったですね。沖縄の家族シーンは、ナレーションも説明もなく、時間だけを見せていますが、これで何か伝わるはずだと思いました。

取材中、カメラに映っていないところで何かエピソードはありましたか。
ひとつは、ごはんですね(笑)。僕ら取材スタッフは、ロケに行くと、体力を保つためにも食事はしっかりとるほうですが、広河さんは移動中も数切れだけのサンドイッチとか、夜も現地でのカップラーメンで平気で……。僕らはお店に入って温かいごはんを食べたいなんて思うのだけど、広河さんは、現地に着いたら会えるだけ人に会って、現場を見られるだけ見て伝えたいと、時間の限り取材を詰め込んでいました。体力の続く限り取材に没頭するその姿に、襟を正されましたね。もうひとつのエピソードは、過去に自分が取材した人々を常に気にかけて、どんな遠い場所でも会いに行くことです。チェルノブイリの取材でも、実際に会いにいって話を聞いて、元気にしていると聞くと、広河さんは安心して、また次の現場に向かうんです。こうやって広河さんは、取材してきた人たちと付き合っているんだなと思いました。その代表が、チェルノブイリ原発事故による甲状腺ガンを乗り越え、いま、母になったナターシャさんでした。彼女のような人が、パレスチナでもチェルノブイリでも、ほかにいっぱいいるんです。ずっと取材相手と交流を続けて、会いに行き、何か生活に新たな問題がないか確かめる。そして必要があれば、その人たちのために必要な手を差し伸べるということをやっている方なんだなと。人間に向ける愛の大きさは尋常じゃないと思いました。脱線しますが、今回のチェルノブイリ取材では、現在の被害状況や医者へのインタビューなども撮影したのですが、あえて映画には必要以上に盛り込まず、それよりも、広河さんがずっと関わってきた保養所で元気に過ごす子供たちの笑顔、そしてナターシャさんの日常や「原発は要らない」と語る彼女のその強い眼差しから、何かを感じてもらえればいいなという気持ちで映画をつくりました。あえて過剰な情報は入れずに、現地の生きる人たちの表情や言葉をきっかけに、世界の様々な問題に興味を持ってもらいたいと思ったんです。
ひとりの人間が世界とどう向き合うか、若い人へのヒントになれば
編集長を引退された広河さんは、今後「日本列島に住む人々を撮っていく」ということをおっしゃっていますね。
例えば、パレスチナでは、かつてパレスチナ人が住んでいた土地にユダヤ人が入植していったわけですが、歴史の中で権力者側は、それまで、そこに生きてきた人々の生活の痕跡などを消していく。そこに新たな歴史を捏造して、それまでの歴史を無かったことにして、そこに生きてきた人間の尊厳を消そうとする。これまでの広河さんの仕事は、それらに抗って、その土地に生きてきた人々の歴史や営みを記録していくということを、世界の様々な現場でやってこられたんですね。一方で広河さんは、自らのライフワークとして、この日本列島でも、アイヌの人々や沖縄に暮らす人々、もっと遡れば天皇制が始まる前の先住民族の歴史など、支配者の歴史に組み込まれることを良しとしなかった。いわゆる「まつろわぬ」人々がいるのではないか、尊厳を踏みにじられている人がいるのではないか、そのことをちゃんと見つめていきたいと、ずっと考えていらっしゃいました。でも世界であまりにもいろいろなことが起きているので、後回しになっていたんですね。そのずっと持っていた大きなテーマを、70歳をすぎて本格的にやり始めたのは凄いエネルギーだと思います。広河さんは、自分は中国の天津生まれで、かつての日本の植民政策の担い手として家族が移住をして、そこに、自分が新しい歴史をつくる側の一員として生まれてきたんだとよくおっしゃっていました。そういうこともあって、このテーマを選ばれたのではないと思います。ただ、それは問題を告発するというより、もっと豊かなことが見つけられるのではないかと、広河さんはおっしゃっています。日本列島は最初から固有の民族が住んでいたわけじゃなく、いろんな民族が行き来する、もっとおおらかで豊かな世界だったのではないか。いま日本、中国、韓国の関係がぎくしゃくしているけど、元々は国とかの概念自体が曖昧なものなのだとか、もっと開かれた豊かなものだと捉えたいと広河さんは思っていて、最後にそのテーマに向き合っていこうとしているのではないかと思うんです。

広河さんの救援活動(パレスチナの子供の里親運動、チェルノブイリ子ども基金、沖縄・球美の里)の具体的な内容や現場を見ることができるのも意義深いです。
広河さんのことをある程度まで取材してきて、撮影素材も溜まり、どうやって映画の中で広河さんの魅力を届ければいいのかと考え、少し模索していた時期があったんです。今回の映画は、ずっと編集マンの鈴尾啓太(当時29歳)と一緒に撮影素材を見ながら編集していましたが、そのときに彼が言ったことが心に残ったんです。「世の中の問題が大きくなりすぎて、パレスチナ、チェルノブイリ、福島の問題などと、どういうふうに関わっていいのかわからないけど、広河さんの人生を見ていくと、世界のことを理解していって、何ができるのかということが、等身大に見えてくる。自分の中で背中を押される感じがして、こういうふうに生きてみようと考えるようになる」、この20代の若い編集マンの言葉に「これだ!」と思ったんです。もちろん広河さんと同時代を生きた人や、いろんな世代の人に観てもらいたいけど、特に若い世代に観てもらいたいんです。複雑になってしまった世の中に対して、ひとりの人間がどう向き合って、どのように世界を築いていけるのかのヒントがあるような気がします。そのことが、この映画を観た人の心に残せるものじゃないかと思うんです。
(※このインタビューは2015年11月19日に行われました。)
プロフィール
はせがわ・さぶろう/1970年生まれ。96年、ドキュメンタリージャパン参加。以降、NHKや民放でドキュメンタリー番組を多数演出。2012年、初監督作品となる『ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎90歳』公開。第86回キネマ旬報ベスト・テン文化映画第1位、第67回毎日映画コンクールドキュメンタリー映画賞、2012年度日本映画ペンクラブ文化映画ベスト1など、12年度の主要映画賞を3冠受賞。
寄稿家プロフィール
ふくしま・まさよ/航空会社勤務の後、『ほぼ日刊イトイ新聞』の『ご近所のOLさんは、先端に腰掛けていた。』コラム執筆。桑沢デザイン塾「映画のミクロ、マクロ、ミライ」コーディネーター。産業技術総合研究所IT科学者インタビューシリーズ『よこがお』など。