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Interview

123:ルーシァン・キャステーヌ=テイラーさん(ハーバード大学感覚民族誌学ラボ(SEL)ディレクター、映画作家)&ヴェレナ・パラヴェルさん(SEL所属映画作家、人類学者)
聞き手:福嶋真砂代
Date: July 02, 2015
ヴェレナ・パラヴェル(左)とルーシァン・キャステーヌ=テイラー | REALTOKYO
ヴェレナ・パラヴェル(左)とルーシァン・キャステーヌ=テイラー

ハント・ザ・ワールド ハーバード大学 感覚民族誌学ラボ 傑作選』と題して、シアター・イメージフォーラムで公開中のドキュメンタリー4作品。監督、撮影、編集、製作をしたルーシァン・キャステーヌ=テイラーさんとヴェレナ・パラヴェルさんが福島と東京でiPhoneと望遠鏡を用いて撮影した新作『ヒト(仮)』(パリでのインスタレーションのための映像─『リヴァイアサン』上映時のインタビューを参照)をほぼ完成させ、その試写上映後にロングインタビューを行った。テクノロジーと人間の関係や資金の話、ポスト人間中心主義時代のこと、さらに驚くべき次回作の内容まで、多彩な話をたっぷり聞かせてくれた。新作も早く観たくてたまりません。

今回上映された4作品のひとつ『モンタナ 最後のカウボーイ』を監督したのはルーシァンさんとイリーサ・バーバッシュさんですが、山に登ったのはルーシァンさんひとりで、あまりの厳しさに山を下りた頃には足が関節症で動けないくらいだったと。

 

ルーシァン・キャステーヌ=テイラー:僕はどこかが痛いとか文句を言わないほうだと思っているんだけど、ヴェレナは「あなたはなんて大げさに痛い痛いと言うの?」と言っていつもケンカになって、これはちょっとマズい質問かもしれない(笑)。撮影は夏だけですが、3年に亘り、私は山でイリーサは町でカメラを回しました。僕がひとりで山に登ったのには2つ理由があって、ひとつはイリーサの子供たちが幼かったから。獰猛なグリズリーベアが出没する危険性があるのと、4000m級の山に登ることは体力的にハードだからです。もうひとつは、被写体の2人のカウボーイと親密な関係を作りたかったというのもあります。例えば子供連れの4人で現場に入るとしたら、人間関係の力学に影響を及ぼしそうですが、ひとりで山に入ったことで2人のカウボーイは僕の存在さえ忘れて、普段見せないような側面を見せてくれた。さらに僕がまったくの“ストレンジャー”だからこそ、彼らが自分らしくいてくれて思わず汚い言葉を吐いたりもしてくれました。

 

『モンタナ 最後のカウボーイ』 | REALTOKYO
『モンタナ 最後のカウボーイ』 (C)2013 Bridgit Folman Film Gang, Pandora Film, Entre Chien et Loup, Paul Thiltges Distributions, Opus Film, ARP

聞いちゃっていいのかと思うくらい凄い言葉の連発でした。字幕監修は映画監督の想田和弘さんでしたね。

 

ルーシァン:僕たちの作っている映画は多くの場合「感覚的なもの」と捉えられがちです。つまり、言語とか意味とか、発話のようなものに興味がないと思われがちなのですが、実はそうではなくて、会話や発話のようなコミュニケーションがどれだけ成立しているか、あるいはしていないかも含めて関心を持っているんです。例えばこの『モンタナ~』の中でカウボーイがお母さんへ電話をしているシーンや、モノローグのように心の中を吐露してしまっているシーン。ほとんどセリフの無い映画だと思われてしまうことがありますが、そういうセリフがとても重要なのです。それに関連して、外国で上映する場合、字幕については専門家に任せればいいと思う人もいるかもしれませんが、僕たちの場合はそれもとても重要だと思っています。できれば要約とかメタファーで表すのではなく、セリフの通りに訳してほしいと要望しています。フランス語版の字幕をヴェレナと一緒に作るのですが、カンヌ国際映画祭の字幕担当者からは、あまりにも汚い言葉を字幕に出してはいけないといったことを言われたりしました。でも、僕たちはそうは思っていません。

 

ヴェレナさんが監督された『ニューヨーク ジャンクヤード』の会話もとても刺激的で、ヴェレナさん自身が登場しているシーンもあります。

 

ヴェレナ・パラヴェル:私の場合は、言葉というより場の「音」が形成するものが重要だと感じてました。『ニューヨーク~』は、音的に極めて興味深いロケーションだったからです。一方ではジャンクヤードの騒音、上からはひっきりなしに離着陸する飛行機の音、また一方では地下鉄駅の電車音、さらに背後には高速道路、また野球場も隣接していて、なんて言えばいいのか、すべてが同時に起こり、さらに何万人もの人の声があり、始終騒音まみれ。それらの騒音に深刻に悩まされ続けました。ジャンクヤードに政治的な問題も生じていて、私たちはそのことを真剣に考えていたけど、とにかく飛行機や車の音にかき消されて、編集するときも人の話が聞き取れない。もうシンフォニーみたいでした。そんな状況で、私は好き好んで登場したわけではなく、たまたまそうなってしまったのです。グリズリーベアはいないけど、危険と隣り合わせのロケーションで、場所によっては、殺人、逃亡者、ドラッグ、盗難車、売春、様々なことが起こり得る。だから、どう動くかを知る必要性があったわけです。そんな中で魅力ある人物、サラという金髪の女性の存在がありました。彼女はまったく独りで、車中で暮らし、パートナーは逮捕されて服役中で、レイプに遭うなど危険に晒されていたのです。そこでは売春婦以外の女性は少なかったので、よけいにサラとは親しくなりました。J.P.シニァデツキと私は一台のカメラで交互に撮影していて、どちらかが疲れたらどちらかが撮るみたいな感じで、はっきりした役割分担はありません。あるとき、パートナー釈放の連絡を取る必要があり、サラが電話を持っていないからと私の携帯を貸してあげて、そのときは撮影中でしたから、私がそこに居たという事実をねじ曲げてまでそこから逃げるつもりもなかった。ほとんどのドキュメンタリー監督が「そこにはいない」フリをしがちだけれど、私にとっては、あのとき、あの状況の真っ只中に居たのは自然な流れで、それがカメラで撮られ、結果として映画になったということです。

 

『ニューヨーク ジャンクヤード』 | REALTOKYO
『ニューヨーク ジャンクヤード』 (C)2013 Bridgit Folman Film Gang, Pandora Film, Entre Chien et Loup, Paul Thiltges Distributions, Opus Film, ARP

ジャーナリスティックな作品は撮りたくない

外的視点だけでなく、そのように現場の中に飛び込んで内的視点を作ることの意味とは?

 

ルーシァン:僕はそんなにクリアに中と外を分けられないと思っていて、いまのドキュメンタリー表現の世界では、外から客観的に観ることを無防備にやっている人はいないのではないかと思います。特に先住民映像の台頭と共に先住民が自分たちのイメージや歪みを自分たちで取り返すという運動をしたわけですが、そういう自覚の中で植民地化、あるいはポスト植民地という視線を、映像を作った人なら誰もが意識しているのではないかと。いまや映像はもっとハイブリッドで細分化されているので、人間は誰もが、撮る人も撮られる人も、パワー関係の中で制作表現をしていることについて自覚的だと思います。僕たちも外からの視点とか、中からの視点というよりも、プリズムのように多面的に捉えようとしています。多様な見方が難しく、一瞬でしか捉えられず固定化できない難しさをわかっている一方、対話の可能性は豊かな方式なのではないかということについて一生懸命考えています。

ほかのドキュメンタリー監督たちと違って、映画はこうあるべきだとか、被写体はこうなるだろうと予測して脚本を持って現場に入るわけではないし、どこの国のどこの人だろうと、境界を超えて撮影しようとしているコミュニティの人たちは、いつでも何らかの他者性のようなものを持っていて、それは文化的、経済的、個人的なものであり、存在論的な他者性が必ずあると思います。少なくとも、自分たちが関わって撮影していく中で、人間関係がどう変化していくかということが映し出されるような作品を作りたい。逆に、ジャーナリスティックなもの、例えばフクシマに行って、フクシマで起こっていること、フクシマの人が思っていることを世界に伝えていくのは傲慢な立場なので、そのような映像は作りたくない。たとえ歴史上にそのような重要な作品があったとしても、自分たちの作品とは違うなと思います。

 

『マナカマナ 雲上の巡礼』 | REALTOKYO
『マナカマナ 雲上の巡礼』 (C)2013 Bridgit Folman Film Gang, Pandora Film, Entre Chien et Loup, Paul Thiltges Distributions, Opus Film, ARP

テクノロジーと人間、ポスト人間中心主義時代

ハーバード大学感覚民族誌学ラボの一連の作品を観ると、テクノロジーと人間の関係性について考えることができたり、量子力学とか、複雑系の世界を思わせるような未来感覚さえ感じさせてくれたりします。今朝、『ヒト(仮)』試写のときにヴェレナさんが話した「地球感覚」を呼び起こすという話はとてもしっくりきました。

 

ルーシァン:僕たちのラボが作っているのは、とりわけ「現在性=その現場にいる」という感覚を重視しているドキュメンタリーなので、むしろ古典的なドキュメンタリーなのではと言われることもあります。つまりそれはグローバルで実験的なものがないという批判なのですが、僕たちは確かに現在性を重視した感覚性に身を置く作品を作っているわけだけど、そこにはローカルとグローバルの行き来をしていく視点というものを意識して入れている気がします。人と現場が出会う経験を観客にさせている、というのは一瞬のことで、その一瞬に何らかの共感が生まれるわけです。フラジャイルな(と言ってもいい)出会いのシミュレーションでしかないと思うのです。でも、「没入感覚=一瞬性」のようなものがあるからこそ、自分がいかに部外者であり、通過者であるかということに気付かせてくれるという、視点の二面性、多面性を意識していると思います。量子力学、つまりハイゼンベルグの不確定性原理に関係があるかということに言及すると、例えば映像作家と被写体の関係性は常に一定ではなく変わりつつある、確定できない関係であることもつながりがあるかもしれません。客観的に「こうである」と断定することができない。作家も断定できないし、観客もその世界には1時間半とか限定された時間しか没入できないわけですから、断定できない。そういう意味ではお互い無責任であると同時に、人間的な等身大の姿勢というものに気付かされるのではないかと思います。

それから今朝の試写で話していた「地球感覚」は、『ニューヨーク~』はそうでもないけど、『リヴァイアサン』以降は意識しているかもしれません。というのは、現在はポスト人間中心主義時代の世界に私たちは突入していると思っていて、人間は自然を完全にコントロールしていると勘違いしがちですが、実は大きな世界では人間は「エキストラ」でしかなく、マージナルな存在であるという世界観を持ちながら映画を作っています。

 

ヴェレナ:人間を追認し直そうとしているだけでなく、動物の本質、あるいは機械の本質とか、本質的なものに迫ろうとして映画を作っています。決して人間を除けようとしているわけではなくて、人間に迫り来る「自然」というものに対して、テクノロジーとは実際は会話(カンバセーション)のひとつであるという、『リヴァイアサン』も『ヒト(仮)』も別の方法ですが同様のアプローチをしています。

 

『マナカマナ 雲上の巡礼』 | REALTOKYO
『マナカマナ 雲上の巡礼』 (C)2013 Bridgit Folman Film Gang, Pandora Film, Entre Chien et Loup, Paul Thiltges Distributions, Opus Film, ARP

ルーシァン:そういう意味では、『マナカマナ~』もほかのどの作品よりもテクノロジーの役割を見せているよね。

 

ヴェレナ:そう、アナログな撮影方法だけど、山の頂上と下界を往復するケーブルカーの中で撮影していて、以前はとても時間がかかるトリップだったのがテクノロジーによって短時間で人間を移動させていることも見せています。

 

ルーシァン:昔は徒歩で2日間かかった行程が10分になったのは驚異的な変化だから。

 

『マナカマナ~』では狭いケーブルカーの中に撮影隊がいたことに驚きますが、撮影者と被写体の信頼関係がケーブルカーに乗車するたった10分間でできていたというのも驚きです。

 

ヴェレナ:あの小さな箱に入って撮影者が乗客を凝視しているという特殊な撮影は、ステファニー・スプレイ監督がネパールで15年間暮して行ったフィールドワークのもとに成立しているわけです。

 

ルーシァン:ステファニーは15年間現地に住み、現地の人たちと同じ楽器を奏で、完璧に地元の言葉を話せることも驚くべき親密な関係を作ることにつながりました。

 

ヴェレナ:この映画の美しさについて語るとすれば、まず、こんなに親密な関係を作るワークに対しての「怖れ」かもしれない。ケーブルカーの中で10分間乗客を凝視するというのは、ほかのどんなドキュメンタリーを観るより彼らについて学ぶということで、何か10分間のトラップにかかったように感じる。ときに静かに、より深く、何かを伝え、そこには高度に対する恐怖、過去とか、彼らが抱く恐怖の本質とか、ケーブルカーというテクノロジーに付随する音とかも含まれる。私たちが撮った映画ではないけど(編集注:ルーシァンとヴェレナは製作・プロデューサーを担当)、『マナカマナ~』が民族誌学における傑作のひとつであることは間違いないです。

 

資金面でもインディーズ作家たちと同様の苦労をしている

そのように長い時間をかけてひとつの映画のプロジェクトが実現できるというのは、資金的にもハーバード大学の強力なバックアップがあると考えていいのでしょうか。

 

ルーシァン:よくそう思われるのだけど現実には違います。確かにハーバード大学はとてもリッチだけど、信じられないくらいケチで、ラボにはほとんど予算を割いてくれない。ステファニーの制作は大学のサポートをほとんど受けてないはずです。彼女は7~8年間ハーバード大学に在籍してますが、その前は独学で音楽、言語、宗教を研究して、その後ハーバードの宗教学部に入学し、フィルムメイカーになりました。現在はラボの博士課程に在籍していて奨学金をもらっていますけど、終わったら職に就かなければなりません。

 

『モンタナ 最後のカウボーイ』 | REALTOKYO
『モンタナ 最後のカウボーイ』 (C)2013 Bridgit Folman Film Gang, Pandora Film, Entre Chien et Loup, Paul Thiltges Distributions, Opus Film, ARP

ヴェレナさんとルーシァンさんは、大学で教えながら映画を制作しているわけですね。

 

ルーシァン:僕たちの場合は映画制作ではお金を稼いでいなくて、映画制作が好きで、世界中で映画を撮るという経験を楽しんでいます。もちろん大学の修士課程で教えて、助成金申請の書類作りにもすごい時間をかけてるけどね。

 

ではハーバード大学のアカデミックなバックアップがあるにせよ、ほかのインディーズの映画監督と状況は同じ?

 

ヴェレナ:そうです。最近私はパリに引っ越して、フランスで映画制作資金を獲得する方法を学んでいるところなんです。「フランスは世界で唯一の映画支援をする国だよ」とみんなが言うから「私たちも!」とフレンチシステムを学びながらトライしているところですが、本当に難しい。とりわけドキュメンタリー制作というのは脚本らしきものがなく、私たちのやり方は特にその場所の内部リサーチや研究方法ばかりだから、そういう書類を書くときは嘘ばっかり書かなくちゃならないわけで、非常に矛盾を感じてるところです。インディペンデントの映画監督と同じ状況というのは本当にその通りです。

 

ルーシァン:さっきのテクノロジーとメディアの関係について、あるいはインフラストラクチャーにも関連するけど、僕たちのラボが研究を映画制作に方向転換したことについて、驚いたとかいろいろ言う人がいて、僕たちにしてみれば「は?」って感じ。映画自体はとても難しく、手とり足とりするような“優しい”映画ではないけれど、「大きなインパクトを人々に与える」と評してくれる批評家もいて、劇場で上映してもらえるようになりました。東風はじめ、配給会社は大衆を喜ばせるタイプの映画ではないことを承知で買ってくれている。ネットワーク配給の存在もあるけれど、いまのところは、テレビなど既存の大規模メディア多国籍企業をコントロールする覇権をブレイクスルーするのは難しくて、そういう大規模配給システムに対して僕たちの映画配給の規模は足下にも及ばない。もし東風が破産したら我々も破産するわけで……。冗談めいて聞こえるけど、けっこう深刻な話。要するに「場所」の問題で、多様な映画を観たいと思っている人のために、いろいろな困難を乗り越えても、東風のような会社が場所を提供してくれることに感謝してます。

 

ヴェレナ:グッジョブ、東風。

 

『ニューヨーク ジャンクヤード』 | REALTOKYO
『ニューヨーク ジャンクヤード』 (C)2013 Bridgit Folman Film Gang, Pandora Film, Entre Chien et Loup, Paul Thiltges Distributions, Opus Film, ARP

今後の興味深い2つのプロジェクト+α

現在おふたりで進行しているプロジェクトがあれば教えて下さい。

 

ヴェレナ:どの作品も「違うことをする」ことを重視しています。アプローチ、制作スタイル、テーマそのものについても、「違うこと」に挑戦しています。現在、すでに撮影したものを仕上げていますが、基本的な素材はサウンドアーカイブです。ルームメイトに、たぶんパートナーだと思うけど、7年間にわたって寝言を録音された男性の、80時間の夢の録音です。ものすごくクリアな睡眠中の話し言葉でワクワクさせてくれます。ほかにも老若男女の多様な人々、子供や同性愛者もスタジオに招いて、暗闇を提供するブラックボックスの中に入って眠ってもらい、夢の録音を集めました。そういう異なる環境で仕事をしているのは、まったく異なる考え方をするためです。夢にアプローチするというのは、人間の無意識に直接アクセスすることで、睡眠中に話される言葉は完璧に意味を成しています。だけど月に行って、風船に乗って、鳥に攻撃されたとか、ロジックは滅茶苦茶で、だいたいは性的な話です。ゲイの人が女性に迫られて、女性の膣から逃げようと闘う悪夢だったり。撮影を終えて5時間分を抽出し、いまちょうど仕上げているところです。

ほかに現在撮影しているのは2つの関連性のある作品です。ひとつは80年代にパリでクラスメイトを食べてしまった佐川一政について。いま出獄して東京に住んでいる彼を10日間撮影して、人肉への欲望を理解しようとしています。“リアルモンスター”として世間に捉えられた人ですが、私たちは少し違うアプローチをしようと思ってます。

 

ルーシァン:実は佐川はゾンビ映画の監督になりたいと思っていて、彼と僕たちがコラボもしています。

 

ヴェレナ:もう1本は、日本にしか存在しないピンク映画に興味があって、クロサワとか多くの日本の巨匠が携わってきた日本映画史の重要なジャンルであるピンク映画についての映画。いろいろ複合したモンタージュっぽくなる予定で、日本の映画監督とのコラボにもなってます。劇中で、私たちが脚本を書いた1本のピンク映画を撮っていて、それは全然異なる方法で作る完璧なフィクションのピンク映画になっている、という感じです。フィクション制作のクルーの動きや、何が起こっているかが見える、フィクションとドキュメンタリーの境界や意識を消してしまうような作品になります。その前にインスタレーション用フィルムの『ヒト(仮)』も仕上げなくては……。

 

(※このインタビューは2015年6月8日、ルーシァンとヴェレナのパリへの離日直前に行われました。)

 

プロフィール

Lucian Castaing-Taylor/ハーバード大学感覚民族誌学研究所(SEL)ディレクターであり映像作家。『モンタナ 最後のカウボーイ』(2009)が、ベルリン国際映画祭、ニューヨーク映画祭ほかで正式招待される。2012年、ヴェレナ・パラヴェルとの共同監督で『リヴァイアサン』を発表し、ロカルノ国際映画祭で国際映画批評家連盟賞を受賞。彼の作品はニューヨーク近代美術館、大英博物館の常設コレクションに収蔵されている。ヴェレナ・パラヴェルとともに『マナカマナ 雲上の巡礼』(2013)のプロデュースを手掛ける。

 

Verena Paravel/SELに所属するフランス人映画作家、人類学者。これまでに『7 Queens』(2008)、『Interface Series』(2009-10)、『ニューヨーク ジャンクヤード』(2010)、『リヴァイアサン』(2012)などを発表。『ニューヨーク~』でロカルノ国際映画祭で最優秀初長編審査員特別賞受賞。ルーシァンとともに『マナカマナ 雲上の巡礼』(2013)のプロデュースを手掛ける。彼女の作品はニューヨーク近代美術館の常設コレクションに収蔵されている。現在パリのSchool of Political Artsマスタークラスの教員であり、ハーバード大学でも人類学を教えている。

 

ハーバード大学感覚民族誌学研究所(Sensory Ethnography Lab)/美学と民族誌学との革新的なコラボレーションをおしすすめるハーバード大学の実験的なラボラトリー。アナログとデジタルメディアを組み合わせた研究プロジェクトの成果として、映画、ヴィデオアート、音響、写真、インスタレーション作品を発表。日本国内では、2014年8月に北米の底引き網漁を圧倒的な映像美と音響で活写した『リヴァイアサン』が公開された。人類学者であり、映画作家のルーシァン・キャステーヌ=テイラーがディレクターをつとめる。

http://sel.fas.harvard.edu

インフォメーション

『ハント・ザ・ワールド ハーバード大学 感覚民族誌学ラボ 傑作選』

シアター・イメージフォーラムで公開中、ほか全国順次公開

配給:東風

公式サイト:http://www.hunt-the-world.com/

寄稿家プロフィール

ふくしま・まさよ/航空会社勤務の後、『ほぼ日刊イトイ新聞』の『ご近所のOLさんは、先端に腰掛けていた。』コラム執筆。桑沢デザイン塾「映画のミクロ、マクロ、ミライ」コーディネーター。産業技術総合研究所IT科学者インタビューシリーズ『よこがお』など。