

改修に当たって大揉めに揉める美術館の舞台裏が披露された『ようこそ、アムステルダム国立美術館へ』の、その後の日々を綴った『みんなのアムステルダム国立美術館へ』が公開に。さらに会議は紛糾し、こじれまくり、ついに館長が辞任。そんな中で美術への情熱を原動力に、忍耐強く準備を重ねて開館の日を待ち望んだスタッフのひとり、同館アジア館部長でアジア美術学芸員のメンノ・フィツキさんにSkypeインタビューをお願いした。日本美術を愛して止まない彼の様子は、日本人なら微笑まずにいられない。レンブラントにフェルメール、そしてフィツキさんに会いに、アムステルダム国立美術館を訪ねよう。
前作以来、美術館のその後が気になっていました。映画を通じて美術館の内幕が世界中に明かされることをどう感じていますか。
前の映画では改修工事自体が全然終わっていなかったのですが、今回の映画ではきちんと物事が進んで工事が無事終わって、オープンすることができました。それをみなさんに知ってもらえて本当によかった。この映画はオランダの文化と社会を映し出している、とてもいい作品だと思います。もちろん日本でも、何か物事を決めるときに話し合って合意していくプロセスはあるでしょう。映画にあるようにオランダでは面倒なこともいっぱいありますが、結果的に素晴らしい美術館が完成したという意味では、オランダ人が持っている文化を誇らしく思うし、それがとてもよく記録されていると思います。

被写体として登場しているフィツキさんご自身については?
自分が苦闘している姿をスクリーンで観るのは、とても難しい体験でしたが、映画の登場人物の1人として、私の役割はよかったのではないかと。これは監督がくれた贈り物だと思います。しかし同時に、美術館には35人のキュレーターがいるのに、私が代表的な存在として紹介されてしまって……。この美術館が35人ひとりひとりの情熱と努力で支えられていることも、みなさんに知っておいてほしいです。
気付いたら10年経って45歳に
まさか10年もクローズすることになるとは、誰も予想していなかったと思います。フィツキさんはその年月をどんな気持ちで、どのように過ごされましたか。その10年はどんな時間だったのでしょう。
私が35歳のときに改修工事が始まり、気付いたら10年経って45歳になっていました。いま思い返すと、ひとつの美術館の改修のために人生の10年を費やしたことがとても不思議な感じがします。私はキュレーターで、キュレーターとしてのいちばんの役割は所蔵品をきちんと展示してみなさんに見てもらうこと。ところが改修の間はずっと倉庫に入れておかなければならず、それがとても残念で悔しかった。たまに美術品に謝りに倉庫に行きましたよ(笑)。

展示については、2006年の時点ですでに私の中でプランが固まっていたので、延期が決定したときもあまり影響は受けていません。どちらかというと待たなければいけなくなってしまいましたが、延期になったことで細かい調整をする時間ができましたし、10年の間に展示について考えさせられました。キュレーターである以上は展示に何かしらの文脈やコンセプトを与え、美術品を展示して裏に隠れている意味などを来館者に知ってもらいたい。たまには「こんなふうに見てほしい」と誘導もしてしまう。しかし必ずしもそれは来館者にとっていいことではないかもしれない。学芸員として、展示の仕方について私はもう少しリラックスしてもいいのではないか。来館者の中には私の考えに同意できない人もいるだろうし、楽しんでもらうためにも、私自身がのめり込み過ぎないようにしよう。そんなふうに考えたら、展示に対してもう少し距離を置き、リラックスできるようになった気がします。
美術館のひとつの役割は、学ぶ機会を来館者にどれだけ与えられるかだと思いますが、もし学びたくないと思えばそれはそれで問題ないです。学びたいという意欲がある人にはもちろん、こちらもどんどん手助けをしたいと思っています。2008年から2010年は再オープンの日が決定しない中で動かなければならず、苦しい時期でした。2010年になってやっとオープンが2013年と決まったので、そこからやる気が出てきました。2010年に定年退職を迎えたスタッフがいるのですが、自分たちが定年する前に完成すると思っていた美術館が完成しないまま退職することになり、とても悔しかったと思います。
前任のロナルド・デ・レーウ館長が辞任されたとき、フィツキさんはとても悲しそうでした。その事態をどう受け止めたでしょう。
前館長が辞任したときは心が折れそうになり、すごく落ち込みました。みんなで一致団結してこの危機を乗り越えようと頑張っていたのに、突然館長から「私はもう疲れた。ウィーンで過ごしたい」と聞いたときは、ものすごくがっかりしてしまって。ついに館長が辞任したとき、私はずっと図書館で日本の美術史や日本美術に関する本を読んで過ごし、美術館には1週間ほど行きませんでした。

日本美術との出合い、そして日本へ
金剛力士像が到着し、それをうれしそうに見つめるフィツキさんの輝く瞳が印象的でした。日本の美術にどのように出合い、関心を深めていったのでしょう。
16歳のときに初めて日本の俳句を読み、とても感激して日本文化に惹かれていきました。私は自然に受け入れたのですが、それがオランダ人にとって普通ではないことを後で知りました。もしかしたら私の前世は日本人なのかも(笑)。俳句を読んで以来ずっと日本に興味があり、周りの友人から大学に行けば日本語の授業が受けられると聞き、迷いもなく大学では日本語を専攻して、どんどん日本文化にはまっていきました。1989年に留学生として訪れた日本で、長崎のオランダ村に行った後、有田焼を見に行きました。その瞬間に日本の陶芸を学びたいと思って、柿右衛門の家系の人に会いに行き、その深さを知りました。その後、日本の美術史をきちんと学ぼうと思ってオックスフォード大学に留学し、日本のアートを専攻。卒業後はオランダに戻り、派遣登録して週3日は工場の清掃など様々な仕事をして、残りの4日はアートの勉強をしました。ひとりで勉強を続けていく中でだんだんアートの世界と繋がって、29歳でこの仕事に就いたんです。そのとき、私の両親はとてもホッとしていましたよ。

アジアの近現代の美術もお好きですか? また、美術以外のジャンルで関心があるものは?
専門が古い美術なので、近現代についてはあまり詳しくはありませんが、美術館には近現代の美術品もあります。関心があるのはその土地の生活そのもの。1989年に初めて日本を訪れたときからですが、どうやって生活しているかなどを自分の文化と比較します。比較すると自分の文化と全然違う部分を発見することも。比較しながら生活を見ていくことに興味があるんです。
日本の中で好きな場所、また行きたいところはありますか。
東京も好きですが、九州にとても惹かれています。東京と九州では生活が違うと思いますし、九州のほうが、人々がリラックスしているような気がします。例えば福岡なんかは、大きい都市だけど、都心から少し離れると田舎に行けますしね。

互いの文化を理解するためにアートが有効な手段に
新しくアジア館が誕生しました。グランドオープン後、生活はどのように変わりましたか。
とても忙しくなっています。もちろんオープン前も大変だったのですが。オープンしてから来館者がどんどん増えて仕事も増えました。1日に100ものツアーがあって、夜はスポンサーや協賛者向けのイベントがあって。そういう意味ではいま、美術館はひとつの大きな装置のようになっていて、様々な場所でいろいろなことが起こっています。それと、私も毎日自転車で通勤しているので、入口が自転車で通り抜けられるようになってよかったです。実際通ってみて、とても気持ちがいいです。
最後に、日本の観客にメッセージをお願いします。
オランダという文化をオランダ人が発見するように、日本の人にも映画を観ることが文化の違いや私たちの社会を知るきっかけになったらと。あとは映画を観たみなさんがオランダを訪れ、美術館にも来ていただいて、そこで見たものを持ち帰ってもらえたらと思います。日本とオランダは昔から関係が深いので、交流が続いていけばうれしいですね。お互いの文化を理解するために、アートはとても有効な手段ではないかと思います。

(※このインタビューは2014年12月8日に行われました。)
プロフィール
Menno Fitski/アムステルダム国立美術館アジア館部長。アジア美術学芸員。
寄稿家プロフィール
まつまる・あきこ/1996年から2005年までP3 art and environmentに在籍した後、出版社勤務を経てフリーの編集者に。P3在職中にREALTOKYO創設に携わり、副編集長を務める。2014年夏から長岡市在住。