

自主制作で2013年夏に完成した劇映画『アオギリにたくして』。その後、全国各地で劇場公開と自主上映を展開し、この一年間で上映回数が300回を超えた。描かれているのは、3.11後のいまと69年前の広島。被爆したひとりの女性の数奇な運命を軸に、平和公園で被爆したアオギリの種から育った苗木“被爆アオギリ2世”が過去と現在を結ぶ。戦争の現実を過去の出来事としてではなく現在進行形でヴィヴィッドに見せた本作は、企画者である中村里美さんの、約30年に及ぶ被爆者との交流を通じて高まった思いが結実したもの。シンガーソングライターでもあり、主題歌と挿入歌を手掛けた中村さんと、彼女同様に何役もこなして東奔西走、苦楽を共にしてきたおふたり、監督で実兄の中村柊斗さんと音楽監督でプロデューサーの伊藤茂利さんにお会いした。
里美さんと被爆者の出会い
中村里美さんの企画でスタートしたということで、映画のテーマともリンクする中村さんのご経歴について教えて下さい。
中村里美:アメリカのワシントン公文書館にあった原爆のドキュメンタリーフィルムを買い戻す市民運動が1983年にスタートし、記録映画三部作『にんげんをかえせ』『予言』『歴史』が完成しました。その中のひとつ『にんげんをかえせ』を海外で上映する活動が立ち上がって、私はアメリカで上映しながら広島・長崎について伝える「Never Again Campaign(NAC)」第一期生として採用されました。映画に出演されている被爆者の方にお話を聞く機会もあり、そのとき初めて『アオギリにたくして』の主人公のモデルになった沼田鈴子さんにお会いしたんです。実際に被爆者の方とお会いして、日本人でありながら被爆の実状を何も知らない自分自身に驚き、ともすると過去のことと片付けてしまいがちだけれど、いまを生きる自分たちが考えなければいけないことなんだなと痛感させられました。
被爆者の方が言っていたんです。「国と国を超え、これからは市民と市民の交流が大切。世界中に友達をつくりなさい。憎しみの連鎖を生むのではなく、愛の連鎖を生める人になって」と。沼田さんは、「憎むべきものは戦争であって人ではない。原爆を落とした国アメリカに対しても、なぜ自分たちが忘れてしまいたい過去の体験を話しているか、世界中の誰にも自分と同じ思いをさせたくないからなのだと伝えて下さい」とおっしゃって、私はそのピュアな思いを伝えたいと思いました。体験がないのに伝えることに最初は自信がなかったのですが、「質問されてわからないことがあったら、調べて答えますでもいいじゃない。ぜんぶ答えようとしたら何もできないよ」と励ましていただいて、すごく心が楽になったというか。被爆者のおばあちゃんたちのメッセージを伝えたいという気持ちになれました。いまもみなさんにはとても感謝しているんです。
「Never Again Campaign」に応募したのは、被爆の問題に関心があったからでしょうか。
里美:短大を卒業し、テレビ局の契約社員として働いていて、社会部だったので、新聞雑誌の反戦反核の記事をスクラップする作業を毎日していました。その中で公募の記事を見つけて応募したのが21歳のときで、被爆者の方には失礼ながら、ただ海外に行ってみたいとか、英語を学びたいとか、何かに挑戦してみたいという思いが強くて。特に被爆や平和に関心があるわけではなく、広島も長崎も過去のことでしかなかったんです。採用されて一年間の研修を経て、渡米したのは22歳のときでした。

演劇『トンボが消えた日』とピースライブ
映画制作の前に、お兄さんの中村柊斗さんと一緒に演劇を制作されたそうですね。
里美:アメリカで一年間過ごし、約280回の上映をした後で日本に帰国しました。その体験は私にとって掛け替えのないものでしたが、そのことすら忘れてがむしゃらに働いていた時期もあり、外国人向けの日本語学習雑誌『ひらがなタイムズ』の編集長をやっていました。ちょうど戦後50年のタイミングで、日本で日本語を学んでいる留学生などもたくさんいらっしゃったから、そういう方々に広島と長崎のことを伝えられたらという思いで演劇を企画したんです。
中村柊斗:『トンボが消えた日』という作品で、アメリカ、中国、フィリピン、フランス、韓国など、アジア、ヨーロッパを含めた外国人の方々が被爆者の体験を読む朗読劇でした。最初は『この子たちの夏』という台本を使って朗読してもらおうとしていて、みなさん「過去のことは忘れて未来志向でいきましょう」と言ってくれたのですが、途中で中国や韓国の方が「心を込めて読めない」と言い出して。じゃあオリジナルで作ろうということになったんです。朗読する外国人のみなさん自身のお父さん、お母さん、おじいさん、おばあさんの戦争体験も織り込んだ劇にしました。
里美:私が21歳のときに出会った被爆者の方々からの聞き取り体験をベースに、外国人のみなさんには国際電話で家族に聞き取りをしてもらって。彼らは自分の家族の言葉を聞き、同時に私が聞き取った被爆者の体験を一緒に読むという。その中に沼田さんの体験も入っていて、韓国人の方が読んでくれて。自分が朗読を担当する被爆者の方がもし存命なら、なるべく直接会ってもらいました。
里美さんは伊藤さんと音楽活動もされているんですよね。
里美:2009年から、歌と語りで伝える命をテーマにしたライブ活動を伊藤さんと一緒に行っています。沼田さんを始め被爆者の方々の体験の朗読もして。アメリカや海外の人たちに広島・長崎を伝えたときにどんな反応が返ってきたか、そのときのエピソードなども語っています。同時に、伝えていく中で考えたこと、感じたことから生まれた歌を歌うというライブです。これを聞いて感動された80代のおばあちゃんが、廃校になった小学校で自らライブを開催してくれました。ご近所の方を100人集めて、500円ずつもらって。彼女は四国で「風船爆弾」を作っていたんだそうです。「アメリカが原爆を作っているときにこっちは風船爆弾を作って、アメリカに飛ばしてた」って。いまの若い人たちには幸せになってほしいという思いで、このライブを広めたいと言ってくださり、教会やお寺や学校など、いろんな場所で開催してくださいました。

沼田さんの死、そして映画制作に挑戦
主人公のモデルになった沼田さんは3.11の後に亡くなられたそうですね。
里美:そうなんです。3.11の一週間後に広島に行ってお会いしたのですが、マスコミが原発のメルトダウンを伝える前に彼女は「大丈夫って言ってるけど、自分たちのときもそうで、放射能の障害が後からわかった」とおっしゃっていました。被爆者として自分の体験をもっともっと伝えなければ、日本は広島と長崎から何を学んだんだと、そういう思いも彼女にはあったと思うんです。
伊藤茂利:「昔と一緒だよ。安全だって言ってるけど危ないんだ。ちゃんとした報道はしてないんだから」とおっしゃってましたね。地震の直後から沼田さんにはわかっていたようです。
里美:2009年にオバマ大統領が「核なき世界」の実現と言ってノーベル平和賞を受賞したときは、「私の心は燃えてるの。100歳まで生きて、少しでもその世界に近づくことを見届けたい」と沼田さんは希望に満ちていましたが、3.11後は彼女の危機感が体全体から伝わってきました。亡くなる1ヶ月前にお会いしたときも「死ぬのは簡単だけど、生きて伝えなければ」とおっしゃっていました。国内外でピースライブを展開し、沼田さんとも1000回ライブをやるとお約束していましたが、沼田さん亡き後、より深く彼女のことを伝えるにはどうしたらいいんだろうと伊藤さんと相談して、それで映画を作ろうと思ったんです。
まったく初めての挑戦。よく飛び込めましたね。
里美:みんなに「身を滅ぼすからやめろ」と言われました。以前お世話になったテレビ局の方や映画業界のことを知っている方にお会いして「どうでしょう」と聞いたら大反対で、とにかくやめときなさいと。会う人みんな反対するので、もう誰かに相談するのはやめようと思いました。
柊斗:大変だとわかっていたらやってなかったと思う(笑)。沼田さんの遺志をどうやったら伝えられるかという、それだけだったから。
伊藤:たぶん、まったく映画業界を知らなかったからやれたんでしょう。大変だとは聞いていたけれど、なんとなくできるかなと思ってしまったんです。みんな反対してましたが、背中を押してくれた1人が先ほどの「風船爆弾」のおばあちゃん。彼女はいつも僕らを応援してくれています。
柊斗:映画のことを知らないから。プロはみんなやめろと言い、しろうとはやれって(笑)。普通の映画なら、エンドロールに協賛してくれた企業の名前が並びますが、『アオギリ~』の協賛はみんな個人です。企業名があっても、その中の個人が1万円協賛してくれたりとか。
里美:特別協賛2人のうちの1人がそのおばあちゃん(笑)。
ちなみに、トータルでいくらかかったんですか。
里美: 5000万円くらいになりました。撮り直したんですよ、ほとんど全部を。

撮り直しでみんなの気持ちがひとつに
え! 撮り直しというのは……?
柊斗:実は、監督が交代したんです。僕は2回目の監督です。脚本も僕が作ったのですが、1回目の撮影ではストーリーの大切なところが大きく変えられてしまったし、粗編集したものを観てまったく満足できなくて。資金は尽きていましたが、最初からやり直そうということになりました。
伊藤:そこからが始まりですね。監督もスタッフも総入れ替えして。
里美:私たちの、この映画に対する気持ちを最初のスタッフには共有してもらえなかったんです。多額の借金を抱えて、本当に落ち込んでしまいました。映画づくりはこれまでやってきたことと桁が違っていたし、追い詰められて、精神的にも弱ってしまって……。
柊斗:でも、新しいスタッフのみなさんはとても協力的でした。風見しんごさんや斉藤とも子さんなど、撮り直しを決めた後も「この映画のためだったら」と残ってくれたキャストのみなさんにも助けられました。キャストは最初の撮影とほぼ同じなんです。
伊藤:2回目のスタッフは7人しかいないんですよ。「七人の侍」って呼んでいますが、予算がないからみなさんアシスタントなし、60過ぎのベテランの方も重い荷物を持ってひとりで参加してくださいました。
里美:みなさん長いキャリアをお持ちの方ですが、終わった後「これは代表作になる。こんなに楽しい現場はなかった」とおっしゃってくれて。本当に素晴らしい方々でした。1回目を経て団結したというか、「伝えたい」という思いを共有してくださって。1回目がうまくいかなくて「次の作品をまたがんばればいいじゃない」と言われたこともありましたが、私たちには次はない。これを伝えたいんだから。この映画だから私たちもやれたと思います。そうでなければ、もうやめようかということになっていたかも……。でも、強い思いがあってスタートしたので、逆境のときには強かったですね。
柊斗:ビジネスで考えるなら、お蔵入りという判断もあったでしょう。2012年の春に企画をして、8/6にクランクインして9月に2週間撮って、その後これではダメだと思って、9月末から翌年まで撮り直しのために奔走しました。僕はそのとき小説を書いていて、それを中断して監督をやることになったのですが、どこかでもう自分はこれが作れたらそれでいいという気もしました。この映画のためにお断りした仕事もあって、それでキャリアが終わるかもという気もしたけれど、それならそれでしょうがない。たぶんみんなそういう気持ちだったと思います。80〜90%くらい撮り直しで、ものすごいハードスケジュールでした。2013年の3月と5月に撮って、編集が2ヶ月くらい、7月末にはもう公開してましたから。もし1日でも雨が降ったら完成しないというスケジュールで、みんなで祈ってましたが、撮影日はぜんぶ晴れてくれて。奇跡的に完成しました。しかし、あまりに少人数で撮ったから、街中でロケをしていても気付かれないくらい(笑)。人だかりもできないし、学生映画くらいな感じで、そういう意味では楽でしたね。
僕は演劇の脚本を書いたり演出をしたり、役者をやっていたこともあるのですが、映画の演出は初めての経験でした。いちばん苦労したのは、広島駅での別れのシーン。JRに申請して撮影したから、1回で成功させなければいけない。もし涙が出なかったらどうしようと2ヶ月くらいリハーサルを重ねました。涙が出なくてもそれを使うしかない状況でしたが、1発OKでホッとしました。
伊藤:そのシーンはふたりが本当にいい芝居を見せてくれて。カメラマンも音声さんも僕らも、みんなで泣いてました。制作の裏側にはいろいろあったので、この話を元に映画が作れそうですよ(笑)。

原作のこと、音楽のこと
中村監督が書かれた本の物語は、ほぼ実話なんですか。
柊斗:事実関係はほとんど押さえています。後半の節子の恋の舞台は逓信局にしましたが、実際は沼田さんが学校の先生になってからです。映画では妹が登場し、姉の節子に関する取材を受けていますが、実際には妹さんのほうが沼田さんより先に亡くなっています。でも、生前は妹さんが夫婦のように沼田さんを支え、ほかにも多くの方々が沼田さんを支えていたので、こういう設定にしました。
音楽は里美さんと伊藤さんの共同作業ですね。里美さんが音楽を始められたきっかけは?
里美:子供のころテレビがない環境で育ったので、音楽もあまり知らなかったんです。『ひらがなタイムズ』時代、音楽プロデューサーの方をインタビューしたことがあり、音楽を聴かないと申し訳ないと思ったんだけど、自分の家に音楽を聴くためのものが何もないということに気付いて、自分でもショックでした(笑)。そして、音楽を聴いたら、いままであまり知らなかったので、自分もできるような気持ちになっちゃったんでしょう。軽い気持ちで「私も作ってみよう」って。映画と同じで、やったことがなかったから(笑)。30代後半で最初に作った曲がアメリカで広島・長崎を伝えたときにネバダの砂漠で見たお月様だったり、アメリカでの映画上映会をしていく中で感じた詩がわーっと浮かんできたり。お風呂に入って、リラックスして鼻歌を歌うように作っていきました。取材した音楽プロデューサーの方が「世の中に音痴はいない」と言っていました。「音符に合わせようとするから外れているということになる。リラックスして、いちばん気持ちのいい声を出すこと。ため息でもいい、あくびでもいい、自然な自分のリズムで歌えばいい」とおっしゃっていて。それもあって気負うことなくやれたんだと思います。
今回の曲はどのように生まれたのでしょうか。
里美:この映画では主題歌と挿入歌を作って歌っていますが、エンドロールに出てくる「アオギリにたくして」、映画のタイトルにもなっている曲は、沼田さんの最後のお誕生日にプレゼントしたものです。沼田さんにアオギリの苗をいただいて、それが本当にかわいらしくて、歌が自然に生まれました。2010年に彼女の87歳のお誕生日ライブが広島国際会議場(フェニックスホール)でのイベント内で開催されたのですが、そのライブの前に沼田さんに歌を捧げようと伊藤さんが言ってくれて、入院されていた病室で歌いました。そのシーンをエンドロールで使っています。挿入歌はいちばん最初のころ、それこそ15年くらい前に、次世代へのメッセージというテーマで作った「ひな鳥へ」という曲です。それを音楽監督の伊藤さんが挿入歌に使ってくださって。歌入りの曲はその2曲で、そのほか日頃のピースライブで歌っている曲がいっぱい使われています。

伊藤さんが担当された曲はどのように作っていったんですか。
伊藤:基本は、それぞれのキャラクターに音楽をつけていくという手法です。「ひな鳥へ」の話が出ましたが、公園に1羽だけ足が傷付けられている鳩がいて、それがいじめられていたりとか、その鳩を見ながらイメージがふくらんだという話を里美さんがしていたのですが、沼田さんも足が不自由で、その偶然に後で気付いてびっくりしてしまいました。
音楽の中で、二胡の音色が際立ってましたね。
伊藤:弦楽器が欲しかったんですけど、何がいいかとピアニストの友人に相談したところ、「二胡でいい人がいるけど、どうかな」という提案があったんです。とてもよかったですね。今回は、中村監督が書いた原作本を演奏家の方々に渡して読んでもらいました。与えられたものを上手に演奏するというスタジオミュージシャンのような感じではなく、まず映画のイメージをもってもらって、共感してくれた人にお願いしたかったから。1回目の撮影がうまくいかず、音楽は最後の最後で時間もなくて。お金も時間もないけれど、それでもいいからやりたいという人に集まってもらいました。それが今回の音にこもっている気がしますね。僕と里美さんは、音楽に集中する前に制作の仕事もしていて、お弁当を買いに行ったり、カチンコをやったり。いずれ最後に音楽を作らなきゃとは思ってたけど、ずっとそんなことばかりやっていたから、その切り替えも大変で怒濤の録音でした。僕はエキストラ係でもあって、1人で何役もやったから、映画がどうやってでき上がるのか、もうだいたいわかってしまいましたよ。
上映回数300回を超えて広がるアオギリの輪
そんな苦労の末に完成した映画が全国各地に広がっていますね。
里美:観た方が感動してくださり、自分もなにかしたいと感じて次の上映会を企画してくれたりして、この夏に上映300回を超えました。口コミで広がって、学校での上映も30回くらい。ピースライブを1日目にやって、2日目に映画の上映会をしたり。劇場にも直接出向いて交渉して上映してもらっていますが、作品を気に入ってくれている劇場は何度も上映して、恒例にしたいと言ってくれています。
来年は海外での自主上映も考えています。2010年に、ワシントンD.C.の(財)カーネギー地球物理学研究所で被爆アオギリ2世の植樹とピースライブを行ったのですが、ぜひワシントンでも上映したいと思い、もう英語字幕版も作ってあるんです。アメリカで広島・長崎を伝えた「Never Again Campaign」時代にお世話になった方々にもお力添えいただきながら、学校や教会、施設など、22歳のとき『にんげんをかえせ』の上映行脚をした場所をもう一度訪れてみたいと思います。前に別府ブルーバード劇場で上映したときには、日本企業に勤めている中国人の女性が感動してくださり、ぜひ中国語字幕の翻訳をさせてほしいという連絡をいただきました。ほかにも、映画を観てくださった多くの外国人の方から「ぜひ自分の国で上映してほしい」というお申し出をいただき、世界の人たちの心にちゃんと届いているのはすごく嬉しいことです。また、被爆アオギリ2世の苗を公共の場所での植樹に限り広島市が無償で提供していて、各地で植樹しています。来年は戦後70年、上映と共にアオギリの植樹も進めていこうと思っています。
柊斗:普通の映画は最初の数ヶ月が勝負だと思いますが、この映画は去年より今年のほうが広がったし、今年より来年のほうが広がっていくでしょう。ありがたいですね。スタッフ&キャストの努力の結晶です。
伊藤:エキストラで参加してくれた方で、撮影のときから目が悪かったのですが、いまはもう全盲になってしまった方がいます。その前に完成した映画を観ることができてよかったと言ってくれました。エキストラの方々は出演シーンがたとえカットされていても、自分が参加した映画だという気持ちで応援してくれています。
里美:映画になるかどうかまだわからないけれど、新たにドキュメンタリーを撮っています。『アオギリ〜』がきっかけで始まった各地の様子、沼田さんと関係があった方々へのインタビュー、3.11後に日本のことを心配されながら亡くなった沼田さんの生前の映像もあるので、みんなが自分の生き方を考えていかなきゃと思うような作品になればいいなと思っています。もし完成したら、『アオギリ〜』と一緒に上映していきたいですね。
(※このインタビューは2014年9月14日に行われました。)

プロフィール
なかむら・さとみ/東京都出身。1986年、日米協力草の根プロジェクト「ネバー・アゲイン・キャンペーン」民間大使の第一期生として渡米。原爆映画『にんげんをかえせ』『ピカドン』等の原爆フィルム上映をアメリカの学校や施設等で行い、被爆者のメッセージを伝える。帰国後、体験記の出版や講演活動を行いながら、27歳で外国人向け雑誌『ひらがなタイムズ』編集長に就任。同誌の企画営業&流通チーフも兼任しながら、異文化間理解をテーマに様々な国際交流イベントの企画運営を行う。95年夏、8ヶ国の出演者の祖国の戦争体験と共に、ヒロシマ・ナガサキの被爆体験を伝える多国籍出演者による日本語朗読劇『トンボが消えた日』を企画・プロデュース。CNNなど海外メディアでも放映され、テレビ朝日で戦後50年特集の2時間特番となる。08年8月6日、表現の場作づくりと異文化交流をテーマに(株)ミューズの里を設立。社会貢献と平和づくりにつながるビジネスモデルの構築に力を入れている。同年シンガーソングライターとして活動開始。09年から被爆者の体験の朗読、世界にヒロシマ・ナガサキを伝える中で生まれた歌やエピソードなどによる全国行脚ライブをスタート。10年秋には、米国ワシントンD.C.の(財)カーネギー地球物理学研究所で海外初のピースライブと被爆アオギリ2世の植樹を行う。国籍・世代・ジャンルを超えた様々な表現空間のプロデュース、学校や施設など様々な会場で、いのち・人権・平和をテーマとした「いのちの音色」公演活動を行う。13年夏に完成した『アオギリにたくして』で映画を初プロデュース。日本全国の映画館で、また自主上映が続き、上映回数は14年夏に300回を超えた。15年秋には海外上映がスタートする予定。同作の主題歌&挿入歌の作詞・作曲・歌も手掛けている。著書に『アメリカにだって伝えちゃえ』(汐文社)、日英対訳・絵本『おりづるにのって〜サダコと子どもたちの物語〜』(発行:ミューズの里/発売:ほんの木)、CDに『LOVE&PEACE』『Trusting Orizuru Cranes』『アオギリにたくして』などがある。
歌と語りで伝える「いのちの音色」http://musevoice.com/peacelive/
なかむら・しゅうと/東京都出身。成蹊大学中退後、演劇活動に入り、自ら劇団を作る。劇団解散後は劇作家としてジャパンアクションクラブ(現ジャパンアクションエンタープライズ)に作品を提供。劇団四季にて外国人俳優の日本語指導にも当たっている。2010年、『夢幻の如く―異聞・本能寺の変』(廣済堂出版)で作家デビュー。『奇蹟の如く―異聞・島原の乱』(廣済堂出版)、『最後の贈り物』(双葉社)等が好評発売中。13年、原作『アオギリにたくして』徳間文庫より出版。世界8ヶ国の若者が立場の違いを乗り越えて被爆朗読劇を上映するまでを綴ったドキュメンタリー本『国籍を超えた若者たち』(ヤック企画)は、日英対訳本として海外でも発売されている。作家・劇作家・演出家・監督として活躍中。
いとう・しげとし/東京都出身。高校時代に、来日中のジャズピアニストのマル・ウォルドロンに電話越しにギターを聞いてもらったことがきっかけとなり、本格的にギタリストへの道を歩み始める。80年代後半に、キングレコードから『マグネチックストーム井上博&RASA』でアルバムデビュー。ジャズスクール『メーザーハウス』の講師を務めながらライブ活動。06年1月、オリジナルインストバンド「Natural Vibration」結成。現在、株式会社ミューズの里専務取締役。表現の場づくりをテーマに、オープンマイク等、表現者に開かれた場づくりのプロデュースを行っている。10年、シンガーソングライターの中村里美と共に米国ワシントンD.C.の(財)カーネギー地球物理学研究所で海外初のライブを行い、広島市長のメッセージを届け、広島平和記念公園の被爆アオギリ2世の植樹を行う。現在、いのち・人権・平和をテーマに中村里美とのデュオによる歌と語りで伝える「いのちの音色」を行い、日本全国の小・中・高校、大学、企業、NPO等、さまざまな施設での公演活動を行っている。『アオギリにたくして』では音楽監督とプロデューサー。14年秋公開の映画『LAST LOVE』(石川均監督作品)ではギター音楽を務める。
歌と語りで伝える「いのちの音色」http://musevoice.com/peacelive/
インフォメーション
『アオギリにたくして』公式サイト:http://aogiri-movie.net/
企画・製作・配給:ミューズの里「アオギリにたくして制作委員会」
全国各地で劇場公開と自主上映を展開中。日程は以下を参照。
http://aogiri-movie.net/screen/
上映活動資金の募金はこちらから。
寄稿家プロフィール
まつまる・あきこ/1996年から2005年までP3 art and environmentに在籍した後、出版社勤務を経てフリーの編集者に。P3在職中にREALTOKYO創設に携わり、副編集長を務める。2014年夏から長岡市在住。