

いままでに見たことのない圧倒的な映像に多くの観客が打ちのめされた映画『リヴァイアサン』は、構図やピント、照明といった映像制作に必須な概念を捨てたところから始まりました。その代わり、何を頼りにこの怪物のような映画ができたのか? 2人の監督(でもあり人類学者)にお話を伺いました。
大変過酷な撮影と聞きました。
ヴェレナ:本当に地獄のようでした。ダンテの『神曲』地獄編に例えたくらい。嵐の中、逃げ場のない狭い船内で働かなくてはならなかった。撮影に集中したくても、海水や魚の血や臓物から機材を守るだけでも大変で。最も腐心したことは、同じ船内で働く漁師のみなさんに受け入れてもらうために一日20時間以上も共に過ごしたことです。漁師は船長を信頼し、船長は強い権限で漁師を導く。船長と漁師は相互に強い信頼で結びついています。撮影の3週間もの間、出会う人間は彼らだけであり、彼らに守られつつも命を握られている中で、また完全な孤独や暗闇の中で、ある種の狂気のようなものを感じながら、彼らと奇妙な連帯のようなものが生まれました。まさにそうした困難な状況が、映画を面白くした要因でもあります。寒くて、疲れきって、船酔いも酷く、恐怖に怯えた状態が、ドラマチックな展開を心待ちにする状況を作り出し、そこに悪夢のような霊的な幻影を見させる「何か」があったのでしょう。

“海”は地上的な考えをひっくり返す?!
最初はニューベッドフォードの漁港のドキュメントになるはずだったそうですね。漁船に乗船したのは、上記のような地獄を自ら望んだから?
ルーシァン:当初は、一切海を見せずに商業漁業をドキュメントしようと思いました。映画の最後になるまで主題が見えない作品にするはずで。船に乗ったのはまったくの偶然で、最初はそこで撮影しようとは思っていなかったんです。一度くらい経験しておこうというくらいの気持ちでした。2人とも船には慣れていたので恐怖心もなかった。しかし、漁船での経験はあまりにも暴力的かつ美しく濃密でした! それで企画をまったく別のものに変えたのです。すると、陸が一切見えない映画にひっくり返ってしまいました。
この映画は『白鯨』をよく引き合いに出されます。そういえばメルヴィルは『白鯨』を書く前に3年ほど船の上で生活していたそうですね。
ルーシァン:しばしば『白鯨』に関連付けられて恐縮してしまいますが、もし関連があるとしたら、『白鯨』は当時のアメリカ文学の形式をひっくり返そうとしたという意味において、この映画でも、既存のドキュメンタリーの形式に従って安定した大きなものにするのではなく、形式に従わずにひっくり返そうと試みました。そうすることで、人間と世界の間のリアリズムをいままでよりも一歩踏み出したものにしたかったんです! ちょっとかっこつけすぎ(笑)? そんな理想を最初から想定して作っていたわけではなくて、実際には泥の中を進んでいくようにまったくの手探り状態でした。運がいいのか悪いのか、メインで使うカメラをさっそく海に落っことしてしまって、Goproのような小さなカメラを使わざるを得なかった。おかげで、高度な機材を駆使するのとは異なる方法となったんです。「演出された」感じが失われ、人間中心的に権威を持って機械を使うことからも解放されました。特にヴェレナの撮影方法は直感的で、世界と一体化したような、一種のトランス状態で映画を作り上げていく。撮影クルーは僕とヴェレナの2人だけ。自分や漁師の頭や胸などにGoproを取り付けて、考えて撮るのではなく無意識に、眼で見て撮るのではなく身体で撮影が進んでいくということをしたかったのです。

人間が中心にいない世界の見方
この映画で使用されたGopro(超小型カメラ)にはファインダーもピントリングもライトもありません。これら演出の必須条件を捨てた代わりに、何を得たのでしょう。プレスでも「シェア」という言葉を使われていましたが、これについては?
ヴェレナ:ジャン・ルーシュの「共有人類学」の考え方を元に、私たちはもう一歩踏み出そうとしました。何かについての映画ではなく、何かと共に作るような映画を目指しました。私たちと漁師とでいえば、私たちが漁師にカメラを教え、漁師の目線でメッセージを発するようなやり方ではない、映画的意識とは距離を置いた映画を指向しました。11台のGoproカメラを漁師の身体や船に付けたりして、彼らの視線(意識)の記述ではなく行為を刻印することができたと思います。カメラを「シェア」する感覚については、私たちから漁師へカメラが漂うような、呼吸のようにカメラが移動していくような感覚をイメージしていました。それにより、私たちからでもない、彼ら固有のものでもない映像が、身体から、あるいは海から生まれ出た映像ができると思ったのです。従来の人類学に見られるような、人間中心主義からも離れるようなものを志しました。人間同士だけでなく、もっと広いもの、金属でできた船や、動物たちや海との「シェア」……。人間がもはや中心にはいない、ダイナミックな関係性の中での世界の動きを描けたらと考えました。

あなた方は映画監督なのですか。それとも学者なのですか。もしくは、こういう問いは意味を成さない?
ルーシァン:少なくとも私たちにとっては、ある矛盾を抱えています。ハーバード大学というある種の権威に在籍しつつ、(大学が持っているような)専門性、権威に対して抵抗も感じている矛盾。私たちにはプロフェッショナルな労働の住み分けは一切なくて、イノベーションを通して専門性の壁を壊したいと考えています。私たちはいつでもアマチュアで、実験を繰り返し、意味や理念やカテゴリーに整理されていない世界、手探りによる世界の感じ方を信じている人間です。
その専門性の壁は映像のアウトプットにも見受けられますね。『リヴァイアサン』は映画版だけでない展開があって、パリで行われたインスタレーション版で選ばれたカットは、特に霊的なニュアンスのものだったようですね。上映形式を模索してアップデートすることと心霊や精霊のチョイスとが、映画の黎明期が霊的な関心と強く結びついていたことを想起しました。
ルーシァン:うまく言ってくれてありがとう(笑)。加えるとすると、映画の黎明期はリュミエールの世界(リアリティの世界)でありつつ、メリエスの世界(マジック、トリックの世界)でもあって、その2つの緊張関係にあったと思います。私たちの仕事もその中に位置づけられている。映画はスペクタクルでありながら、葉っぱが風にそよぐような、ごく普通のリアリティでもあります。3次元の世界が2次元に移っていく奇妙なパラドックスに、ワクワク感があったのだと考えます。霊的なものは、ファンタジーとリアリティのゆらぎの中にあるのではないでしょうか。

日本で関心のある題材はありますか。
ヴェレナ:実はこの1年半ほどの間、何度か日本に来て撮影をしています。それはフクシマについての企画です。お話をいただいたとき、外国人であり3.11を経験したわけでもない我々には到底無理だと思ったのですが、何か自分たちに感じ取れるものがあるかもしれないということもあり依頼を受けました。たくさんの人に会い、話を聞いている間に、偶然の出会いがありました。襟裳岬の美術館にある望遠鏡のレンズ越しにiPhoneで撮影しようとしたら、非常に美しいものを発見しました。デジタルとアナログの2つのレンズの、光軸の微妙なズレによる映像の破壊と創造が見られ、ちょうどそれが、我々が日本やフクシマに感じている戸惑いや微妙な距離感にも感じられました。目に見えない放射能への恐怖や、成長、発展しつつも壊れやすいものを持っている日本を映しとるのに適しているのかもしれないと思い、小さな望遠鏡とiPhoneを持って日本中の撮影を続けています。
(※このインタビューは2014年7月22日に行われました。)

プロフィール
Lucian Castaing-Taylor/ハーバード大学感覚民族誌学研究所のディレクターであり映像作家。後期旧石器時代以降の人間と動物たちとが1万年ものあいだ育んできた不安定な関係、同時にアメリカ西部開拓時代についての非感傷的なエレジーである『Sweetgrass』(共同監督Ilisa Barbash、2009)、西部劇が喚起する田舎の魅惑やその両義性についてのヴィデオ・インスタレーションと写真のシリーズ『Hell Roaring Creek』(2010)、『The High Trail』(2010)などを発表。他にトランスナショナルなアフリカ美術市場における正統性や鑑識眼、人種間の政治学を問う民俗誌のヴィデオ作品『In and Out of Africa』(共同監督Ilisa Barbash、1992)や、ロサンゼルスの衣料品製造業における児童労働と搾取工場を映した『Made in USA』(共同監督Ilisa Barbash、1990)などがある。
Verena Paravel/ハーバード大学感覚民族誌学研究所に所属するフランス人映画作家、人類学者。彼女の作品は、ボストン、パリ、ニューヨークのギャラリーで上映され、ニューヨーク近代美術館の常設コレクションに収蔵されている。これまで『Foreign Parts』(J. P. Sniadeckiと共同監督、2010)、『Interface Series』(2009-10)、『7 Queens』(2008)などを発表。『Foreign Parts』は2010年ロカルノ国際映画祭で最優秀初長編・審査員特別賞、2011年プントデヴィスタでグランプリを受賞。ニューヨーク・タイムズ批評欄の推薦リストに選ばれ、2010年ニューヨーク映画祭と2010年ウィーン国際映画祭に正式招待された。現在パリのSPEAP (School of Political Arts)マスタークラスの教員であり、ハーバード大学でも人類学を教えている。
寄稿家プロフィール
さわ・たかし/映像作家、キュレーター。2000年から2010年までイメージフォーラム・シネマテーク、イメージフォーラム・フェスティバルのプログラム・ディレクターを務める。また、ロッテルダム、ベルリン、バンクーバー、ロカルノ等の国際映画祭や、国内美術館等にプログラム提供多数。主な映像作品に『特派員』。