

2006年、天安門事件に関わる題材を扱った『天安門 恋人たち』で中国の電影局から5年間の映画製作及び上映の禁止処分を言い渡されたロウ・イエ監督。それを待たずに作り上げた『スプリング・フィーバー』は現代の南京をたゆたう人々のラブストーリーだった。この『パリ、ただよう花』も禁令が解ける以前に作られた作品だが、パリを舞台に撮りたいものが自由に撮れたと監督は語る。表現の自由を求め続ける監督に、メールインタビューをお願いした。
「漂う」感覚を絶えず持ち続ける
3年前、『スプリング・フィーバー』での来日時にインタビューさせていただき、新作を楽しみにしていました。この作品の原作者リウ・ジエさんとは90年代からお知り合いだとか。脚本を書く上で、どのように共同作業を進めましたか。また、彼女は映画についてどんな感想を持たれたでしょう。
まず、原作と彼女が書いた脚本を読みましたが、映画化するに当たり、ロケーションを大きく変えました。原作では舞台は4区と6区だったのを、18区にしたんです。4区と6区はパリ市内でもわりと中心の街だけど、18区は移民の多い街。マチューの存在がよりリアルに感じられるようにしました。ロケーションはキャラクターの一部だから、撮影場所を選ぶときは登場人物たちに従います。リウ・ジエはこの映画を観て驚いていましたよ。彼女がよく知ってるパリが、よりリアルに描かれていたから。

原作のタイトルは『裸』ですが、邦題は『パリ、ただよう花』になりました。漂泊や浮遊といったキーワードが思い浮かぶ、ふわふわした感覚は『スプリング・フィーバー』にも、この作品にも感じます。人がある場所から流れ、漂う物語に監督自身が惹かれているのでしょうか。
漂う、という感覚はずっとあります。どんな人でも、絶えずその感覚は持っているんじゃないでしょうか。国や地域によって、もちろん違うんだろうけど。主人公の花は、北京に帰っても、彼女の心はずっと漂い続けるんだと思います。
監督にとって初めての外国語映画で、パリを舞台にフランス語で撮影というのは、いつもと違っていたと思います。いかがでしたか。
撮影中はヘッドホンで俳優たちのフランス語のセリフを聞きながら、同時通訳を聞いていました。『天安門、恋人たち』のベルリンのシーンではドイツ語、『パープル・バタフライ』の日本語のシーンでも同じような経験をしましたが、セリフがほぼ全編にわたってフランス語という映画を監督するのはこれが初めてでした。製作に関わったすべての人に心から感謝しているし、ふたりのフランス語通訳者にもお礼を言いたいですね。母語以外の映画を監督するのは、経験や感性への挑戦。言葉を理解しないことで、俳優がセリフをしゃべっているときのムードやイントネーション、トーン、リズム、ジェスチャーなど、言葉を超えた表現に私の注意がシフトされ、監督としての決定を、視覚的で身体的な表現の方向に傾けることになりました。

映画監督はずっと撮り続けるべき
花に寄り添うようなユー・リクウァイさんのカメラが、その浮遊感をよく捉えていて、室内の親密で濃密な空気を映し出していました。前のインタビューの際、新作はレッド・ワンで撮影したとうかがいましたが、今回はなぜ彼を撮影監督に?
5、6年前に知り合って、ずっと一緒にやりたいと思っていたんです。彼はフランス語が堪能なので、撮影時にそれはとても重要なことでした。カメラがまず言葉に反応するんです。彼との仕事はとても楽しい経験でしたよ。
音楽のペイマン・ヤズダニアンさんとは、どのようにコミュニケーションをとりながら音楽を作っていくのでしょう。3作目ですから、監督のニーズをよく理解し、求めているものがスムーズにでき上がってくるのでしょうか。
彼とは『天安門、恋人たち』から一緒にやっています。編集の時点で、編集者と私が参考用の音楽を選んで乗せ、ペイマンに提案として送り、その後ペイマンと私が、それぞれの曲やほかの可能性についても話し合って決めました。これまでは、メールでのやりとりが主だったけど、今回は彼にパリに来てもらって、現場で一緒に音楽を作っていきました。彼は一年のうち1、2ヶ月をパリで過ごすので、パリの街を熟知しているんです。

電影局の禁令が解けて、新しい作品を世に出すことができたいま、中国の映画製作のありかたについて、どんなことを感じていらっしゃいますか。監督はきっと今後も屈することなく、作りたいものを作り続けていかれるかなと期待しています。
中国では、私だけでなく多くの監督が面倒な事態に直面しているのです。『天安門、恋人たち』で、5年間の追放処分を受けたときは、電影局や、表現の自由に対する中国の決定に本当に腹が立ちました。でも、それによって中国の検閲制度を世界に知らしめることができたし、その5年間に『スプリング・フィーバー』と『パリ、ただよう花』を自由に作ることができました。私は、映画監督という職業は決して禁止されてはいけない職業だと思っています。ずっと撮り続けるべきだと。
(このインタビューは2013年11月に行われました。)
プロフィール
Lou Ye/1965年、劇団員の両親のもと上海に生まれる。85年、北京電影学院映画学科監督科入学。80年代から90年代初期にかけての上海の満たされない若者たちを撮った卒業製作映画『デッド・エンド 最後の恋人』(94年)は、中国の伝統と典型的な中国文化に重きをおいた第5世代の監督たちの作品とは一線を画した作品で、中国映画史上、最年少の作家が集まって製作した点でも話題となり、96年のマンハイム・ハイデルバーグ映画祭で監督賞受賞。95年、ほかの第6世代の監督らと共にテレビ映画のプロジェクト「スーパーシティ・プロジェクト」を企画。プロデューサーとして、若手監督に心ゆくまま自分の撮りたい作品を撮るチャンスを与えた。彼自身が手掛けたサイコミステリードラマ『危情少女 嵐嵐』(95年)はテレビ用の長編映画だが、ナレーションなしに作られ、その演出は中国のテレビ映画界に衝撃を与えた。98年、自らの会社ドリーム・ファクトリーを設立。中国初のインディーズ映画製作会社となる。第2作目、上海の通りで秘かに撮られた『ふたりの人魚』(00年)は中国国内で上映を禁止されながらも、2000年のロッテルダム国際映画祭とTOKYO FILMeXでグランプリを獲得。続く『パープル・バタフライ』ではチャン・ツィイーや仲村トオルらを起用し、カンヌ国際映画祭のコンペティション部門に正式出品された。89年の天安門事件にまつわる出来事を扱った『天安門 恋人たち』(06)は、06年のカンヌ国際映画祭で上映された結果、5年間の映画製作・上映禁止処分となる。禁止処分の最中に、中国では未だタブー視されている同性愛を描いた『スプリング・フィーバー』が、第62回カンヌ国際映画祭で脚本賞を受賞。本作『パリ、ただよう花』は第68回ヴェネツィア国際映画祭のヴェニス・デイズ、および第36回トロント国際映画祭ヴァンガード部門に正式出品された。11年に電影局の禁令が解け、中国本土に戻って撮影された『Mystery/浮城謎事(原題)』は、第65回カンヌ国際映画祭ある視点部門に正式招待。中国本土での劇場公開に当たっては、電影局から暴力シーンの削除を求められ、最終的に「監督署名権」を放棄し自分の名前をクレジットから外した。同作は、第7回アジア映画大賞(アジアン・フィルム・アワード)で最優秀作品賞ほか3部門に輝いた。現在、中国現代文学の代表的作家でありロウ・イエと親しい友人でもあるピー・フェイウー(畢飛宇)の『Massage/按摩(原題)』を原作にした新作を製作中。
寄稿家プロフィール
まつまる・あきこ/1996年から2005年までP3 art and environmentに在籍した後、出版社勤務を経てフリーの編集者に。P3在職中にREALTOKYO創設に携わり、副編集長を務める。2014年夏から長岡市在住。