

実在のタリウム母親毒殺未遂事件を起こした少女のブログに衝撃を受け、「物語なんてないよ、プログラムしかないんだよ」と考える少女をとりまく“物語”を作り上げた土屋豊監督。レイヤー構造で描く現実、スマホやグーグルアースを通してみる世界、観察し、観察される日常。「僕は科学ものを撮ったとは思ってない」としつつも、ユニークな視点、綿密なリサーチによる裏付け、流れるコンセプトは実に科学心を刺激する。IT革命から10年、生活も社会も想像以上に変化した。では人間は、どうだろうか……? あえて科学よりの話を聞いてみた。ちなみに本作の資金調達には、やはりITに支えられたクラウドファンディングが活用されている。
観客と一緒に考えたタイトル
東京国際映画祭(2012)に出品されたときのタイトルは、『GFP BUNNY』でしたね。
「GFP」は緑色蛍光タンパク質(Green Fluorescent Protein)の英語の頭文字を取ったものなんですけど、2000年に「GFP BUNNY」というアートプロジェクトがあったんです。フランスのEduardo Kacというアーティストが実際に行ったもので、もともとはクラゲに紫外線を当てると緑色に光るタンパク質があるのですが、それをウサギに組み込んだらウサギが光るというアートプロジェクトなんです。医療分野でも実際に基本的な方法としてあって、例えばマウスの中にGFPを組み込んだハムスターの遺伝子を入れると、マウスの中でどれがハムスター由来の遺伝子なのかを光によって特定できる。同様の手法でガンはいつ発生するかを検証するような実験が、実際に行われています。そのアート的なアプローチをしたのが「GFP BUNNY」で、僕はそれにとても心を動かされて今回の映画のタイトルにもしたし、テーマにもなっているんです。
なるほど。そういえば当時はタイトルを聞いてなぜかアニメーションかと思ってしまって。いまのタイトルに変わって、よりストレートにイメージできて、インパクトもありますね。
やっぱりタイトル変えてよかったということですね(笑)。このタイトルにはいろいろ経緯があります。僕は「独立映画鍋」というNPOの活動に関わっていて、シリーズの講座をやっているんですが、その講座の中で『GFP BUNNY』をネタにしながら映画の配給宣伝の新しい仕組みを考えるということをやったんです。それで、とにかくタイトルがわかりにくいという話になって、じゃあ、変えましょうと。タイトルの候補を出して、東京国際映画祭の上映会場のQ&Aで「どっちがいいですか?」と観客に実際に挙手してもらって、これに決まったという経緯があるんです。

デジタル社会に人間はどう変わるのか
ということは、映画祭の出品は大きな意味がありましたね。作品を観たときには、ゾクゾクとした不思議な高揚感が残りました。それは多分、私が以前『ほぼ日刊イトイ新聞』で『ご近所のOLさんは、先端に腰掛けていた。』を書いてたとき以来気にしていた「デジタル社会になると人間はどう変わっていくのだろうか」というテーマにヒットしたんだと思います。「量子コンピューティングの世界では、バイオ中心の世界になる」と雑誌(『環境ビジネス2003年12月号(宣伝会議)』)に寄稿したときから10年が経って、量子コンピューティングの実現はまだですけど、すでにバイオの時代になってきました。
2003年というのはちょうどヒトゲノムの全配列が解読された年ですね。
そうですね。ただ、そんな変化の中で人間は、あるいは人間の心は、どう変わるのかというのはあまり研究されていなくて、技術系、理科系、文科系とかのちょうど狭間分野で。実は大事なところなのに置き去りでした。でも映画だったら、そういうセンシティブな部分を描けると期待していて、まさに今回、土屋監督は現代社会の人間の変化を嗅覚鋭く察知して描いていました。もちろん『マトリックス』みたいな映画はあったけど、もっと現実として、人間の変化を敏感に捉えたものは無かったですね……。
『マトリックス』のようなSF映画の世界じゃなく、現実世界の話ですよね。逆に言うと、もうSFの世界に僕たちは現実に生きてしまっているということですね。そういう観点のアプローチの映画は少ないと思います。いま指摘されたように、技術が発達していく中で人間はどう変わっていくのかということを「これはSFじゃなく、いまのあなたのことですよ」と、この映画でやりたかったんです。

まさに、科学と現実世界を結びつける土屋監督の嗅覚の鋭さにグッときました。しかもそれを生命に結びつけて、ドキュメンタリー的にカエルの解剖を全部映すような命の扱い方も興味深くて。
本当にいま先端技術のニュースに毎日驚かされていて、SFよりもすごい現実なわけですね。iPS細胞の実用化の認可にしても凄いことですね。そうなると再生医療分野がこれからどんどん発展していくことになるので、数年後にはいまでは想像できないくらいに進んでしまうと思います。臓器提供とかという話は何だったんだろうということになってしまってもおかしくない。ケータイがない時代はどうやって連絡とっていたんだろうという話を若い人から聞きますが、僕らはケータイがなくても連絡とってましたよね。でも、ケータイがある生活が“ネイティブ”な世界になるといろんなことがガラッと変わって、それもいつ変わったかわからない感じになると思うんです。「慣れ」というのも何ですけど、技術の進歩に人間が追いついていかないことはなくて、自然にすんなりと人間が使っているのではないかなと思うんです。
いまおっしゃったように、“ITネイティブ”な人々ですよね。生まれたときにはITがあって当たり前の人たちの思考回路や生活習慣、もしかしたら生理的な営みまで、想像をはるかに超えて変わっていくのだろうと、ネイティブ以前に生まれた者としては思います。でも、いま共生しているわけで、「彼らは違う人種だから」とは言えない。何が起こっているのかというのを認めることは大事じゃないかと思うんです。
僕は1966年生まれですが、例えばタリウム少女世代の人たちと共に同じ環境に、ここ10〜20年の技術の進歩に影響を受けながら生きてるわけです。前の歴史を引きずっているので、すんなりと同じようには感じられないかもしれないけど、ITネイティブな環境で生まれた人たちは僕らが届くことができない、何か新しい可能性を持っていると思うんです。彼女や彼らのことは実際のところよくわかりませんが、その「わからない」ということに可能性を感じるので、逆にいろいろ教えてほしい、できたら僕もそれを利用したいと(笑)。僕らが行けないところまで、彼女や彼らは行けると思うんですよね。
表面の現象だけを見れば、少女の母親殺人未遂のセンセーショナルな話だけど、そこから監督視点の「システムと人間、プログラムと生命」とか、映画に流れるコンセプトをまるっと受けとるのはハードルが高いのかもしれないと思ったんですが、そこに倉持由香さんを起用することによって説得力が高まってますよね。ビジュアルの魅力もあるし、存在感の強さも。

僕の頭の中だけでどれだけロジカルに考えても、それを人に伝えるのは難しいわけです。どう人に伝えるかというときに、映画の中にいる人そのものが観客とつなげる役をしてくれるんですね。僕の頭の中のごちゃっとした思いを、そこに立っているだけで物語ってくれる人がいるわけです。映画の中で少女の「物語なんかないよ」というセリフが出てくるんですが、実際には、彼女がそこにいるだけで背後に物語が隠れているのを観る人は観てくれるので、当然ですけど、僕ひとりでは決して出来ない「映画」というものになっているんだなと思います。さらにお母さん役の渡辺真起子さんや、先生役の古館寛治さんが存在するだけで、そこに物語ができあがるし、脚本には書いていないものが、実際にアクションをしたり、生きた人になることによって、豊かな世界になっていくわけですね。
本当に渡辺さんと古館さんが、現実や私たちの感覚により近づけてくれていました。脚本を書いていたときと、実際撮影をしているときとでは、違ったものになってきているという実感はありましたか。
すごくありました。撮影中はひとりの観客として単純に、俳優ってスゴイなと感動してましたね。
フレッシュで多彩なカメラワーク
さらにカメラワークが、接写があったり、アングルがおもしろかったり、バリエーションが豊かでした。どういう話をされて撮っていたのでしょうか。
カメラマンの飯塚(諒)くんは今回初めて一緒にやったんですが、当時はまだ早稲田大学の大学院生でした。制作の太田(信吾)くんに紹介してもらったカメラマンです。現場でどうしようかとふたりで確認したり、飯塚くんだけに任せるところがあったり、いろいろでしたね。それと、バリバリのプロの劇映画のカメラマンだったら逆に相当苦労したと思うんですけど、そういう意味では彼は当時大学院生だったし、商品として映画を撮った経験がなかったので、むしろよかったですよね。
映像からフレッシュさが溢れていたわけがわかった気がします。
飯塚くんのカメラがメインだったんですが、接写撮影とか、iPhone撮影のカットもいっぱいあるし、監視カメラみたいなのを置きっぱなしというカットもあったし、実際に映画の中で少女自身が撮ってるのもあるので、いろんな映像が混ざり合っているんですよね。

日常で使われているリアルな撮影ツールがたくさん使用されてたのですね。ちょっと話は飛びますが、「物語なんてないよ」って言われたとき、「物語」って何だろう、宗教なのか、歴史なのか、運命論なのかとか、なんていろいろ考えてしまったのですが、監督の以前の作品の『新しい神様』を観ると、あ、ここには物語があったなと思いました。そこでは「政治」という物語だったと思うのですが……。今回の監督の「物語」の視点はどこにあったのでしょうか。
タリウム少女の視点というのは、世の中のシステムとか、人間そのものをプログラムとして見る、あるいはとにかく、科学的に計算できるものなんだというふうに捉えようとしているんです。そうじゃなかったら私には意味が解らないと。例えば「人間の尊厳」という言葉がどれだけ空虚であるか、「尊厳は数式で表せるのか」という思考回路で彼女は考えるタイプなんですね。愛情のもつれとか、恋愛関係でもいいけど、ある種のエモーショナルな物語みたいなのは、結局はひとつひとつのプログラムから発生したバリエーションに過ぎないじゃないか。つまり思考そのものもコンピュータによってプログラミングできるんじゃないかと、そこまでドライに現実を見ているので、いま「物語」と思われているものも、結局は様々なプログラムの演算によって出てきた答だから、そんな物語を信じて落ち込んだりすること自体は、愚かしいことですよ的なことを、彼女はお母さんに対して言ってるんですね。お母さんは自分の老化のことで悩んだりしてるけど、そういうふうなプログラムになっていて結局は死ぬしかないんだから、そんなことで悩んでもしょうがないんだよ的なことも言ってるんですね。
なるほど。時間がなくなってしまいましたが、今後も“科学もの”が続きますか?
でも今回、科学ものを作ったとは僕は思ってなくて(笑)。だけど、さっきおっしゃっていただいたように『新しい神様』とかから僕の中では一貫したつながりがあるので、次もつながっていくとは思います。
『新しい神様』も今回も女性を撮られたのですが、その「女性」の変化もくっきり感じました。
そうですね、それは、僕自身も(その頃からは)変わったからでしょうね。
(※このインタビューは2013年6月27日に行われました。)
プロフィール
つちや・ゆたか/1966年生まれ。90年頃からビデオアート作品の制作を開始する。同時期に、インディペンデント・メディアを使って社会変革を試みるメディア・アクティビズムに関わり始める。ビデオアクト・主宰/独立映画鍋・共同代表。監督作品は『あなたは天皇の戦争責任についてどう思いますか?』(97)、『新しい神様』(99)、『PEEP “TV” SHOW』(03)。
インフォメーション
7月6日(土)より、渋谷アップリンクほかにて全国順次公開
配給:アップリンク
寄稿家プロフィール
ふくしま・まさよ/航空会社勤務の後、『ほぼ日刊イトイ新聞』の『ご近所のOLさんは、先端に腰掛けていた。』コラム執筆。桑沢デザイン塾「映画のミクロ、マクロ、ミライ」コーディネーター。産業技術総合研究所IT科学者インタビューシリーズ『よこがお』など。