

“日本の老人を撮る”モチベーションとは…?
中国残留日本兵の老人を追った『蟻の兵隊』の池谷薫監督は、新作『先祖になる』で、またもや陸前高田に住むひとりのガンコ老人を撮り尽くした。なかなかの老人キラー? 3.11震災直後、被災地で運命的に出逢ったきこりの佐藤直志さんに「あなたの生き様が撮りたい」とプロポーズ、カメラマンとふたりで東京から50回も通った。「同情はいらない。友達になってくれ」と直志さんに言われた池谷さん。「撮らせてもらってるという感覚ではドキュメンタリーは撮れない」という被写体との関係、いったいどうやって心を掴むのだろうか。「すぐに会いたくなるんですよ」とうれしそうに、直志さんの魅力や撮影秘話を語ってくれた。
「今年も桜は同じように咲く」と直志さんは語った
素直な感想を言わせていただくと、こんなに「虚心坦懐」という言葉をそのままに生きている直志おじいちゃんに出逢えたことに感動でした。その佐藤直志さんに出逢った経緯や撮影しようと思われたきっかけなどを聞かせて下さい。
まず被災地といっても相当エリアが大きいですが、なぜ陸前高田に向かったのかというと、9代続いているお醤油屋さんの会長さんがすごい人だと聞いていて、会おうと思ったんです。それで陸前高田を目的地のひとつとして向かったら、その会長さんから「花見の会」のことを聞いて、「これは行かなくては!」と思って行きました。そこで「今年も桜は同じように咲く……」と直志さんが語るのを聞いたのですが、すごい言葉だなと思いました。実は陸前高田に着く前、気仙沼あたりで遺体捜索をしている方々にも出逢いましたが、声をかけられなかったんです。僕は30年近くドキュメンタリーを撮ってますが、取材相手に声をかけられないという体験は初めてでした。そんな中で「花見の会」というのが、ちょっと虚をつかれたような感覚で、しかもそこでしっかりと前を向いている人に出逢って、ものすごい驚きがありました。あの言葉を聞いたときに、ここでしっかりと生きている人なんだなというのがわかった気がしました。同行したカメラマンとふたりで「いいねえ」と言い合って、これは撮影したいと思いました。その「花見の会」の呼びかけ人が直志さんだったんです。

不思議なことに、映画が被災地の話だというのを忘れる瞬間がありました。それほどみなさん明るく、映画自体も明るいものになっていました。
実は僕らも、あれだけ元気な人たちに密着して撮影してると、ここが被災地だというのを、申しわけないけど忘れることがあったんです。だけど、そのちょっと後でやはり亡くなった息子さんの話が出る。そういう瞬間に、「この人の中にはものすごい悲しみがあるんだ」と気付くんです。2時間の作品ですけど、そういう喜怒哀楽を交互に描いていくような編集の仕方をしたのは、僕らが体感したことをそのまま感じていただきたいなと思ったんです。
それと僕自身、撮影を始めてしばらく経ったころ、「これは震災映画ではないな」と思いました。決して被害の記録ではないと、その先にあるもの、人間のとても大切なことが直志さんの中にはいっぱい詰まってるなと思いました。それを映画的な表現で見せたいなと思ったんです。カッコよく言うと「人間の尊厳」ということだと思うんです。人としてどう生きるかというような。僕は映画を作るときに、そういうものに辿り着きたいと思っているんです。
誰も悪者にしたくない
直志さんは「親分」と呼ばれて、みんなを引っ張っている中心的な方なんですね。
そうですね。ただ、みんなが直志さんと同じことができるかというとできないわけです。保守的な風土の中で屈せずにやっていくということは大変なことでもある。時々、直志さんの表情の中に孤独が見えるときがあります。それもあの人の魅力だと思うんです。
役所の職員に対しても、譲れないところは譲れないと主張してましたね。
そう、でも優しいですよね。手を握り合っちゃったり。役所の人たちともやはりみんな顔見知りなんですね。だからお互いを気遣いながら、逆の立場で対峙してるんだけど、気持ちの触れ合いというのはあそこにはしっかり映ってるんですね。僕自身、今回の映画は「敵を作らない手法」を見せていくというのを肝に銘じてやったつもりなんです。誰も悪者にしたくないという思いはありました。
今回の震災のような一大事に直面して、人間はどうやって生き抜くかというとき、コミュニケーション力というか、「人間力」が本当に問われるのだなと、震災後に作られた様々なドラマやドキュメンタリーを観ると考えさせられました。そんなときにこの『先祖になる』を観て、これだと思ったんです。直志さんを見ると、どうやって生きていくのかのヒントがある。これを観てほしいと思ったんです。
だけど直志さんは説教臭くないでしょ? 言葉を体現するというか、全身で表してくれるところがすごく説得力があるんです。それと有言実行ですね。口先だけじゃない。最近は無責任な人が多い中、確実に実行していく。しかも宣言しちゃう。「家を建てるぞ」と。そしてそれを伝えるときに「夢なんだけど」ってひとこと付け加える。あれが「優しさ」なんですね、きっと。誰も傷つけないようにと。
直志さんの言葉は、とても明快で素敵です。「これからは命のある限り、地域のみなさんのお世話をしたいと思います」って話されるシーンがありますけど、失礼ながら年齢のことを考えても「お世話になるのでよろしく」と言うのではないかと。でも、こう言える直志さんはチャーミングだなと思いました。撮影中、監督が直志さんに励まされたりしたことはありましたか。
実は去年の2月に僕の母が亡くなって、その直後すぐにまたロケに行ったときに、直志さんにお香典をいただいちゃってね。「身内を亡くすのは一緒だ」と言って下さったんです。ずいぶん励まされたというか、本当に嬉しかったです。
ほかでも書いていますが、今回のカメラマンの福居(正治)さんも息子を亡くしているということがあります。ドキュメンタリーの現場というのは、撮る者と撮られる者との間に自分を重ね合わせてシナリオを作っていくという感じがあるんですね。カメラマンにとっては最初は厳しい撮影だったと思うけど、福居さんは福居さんで何ひとつ愚痴ることなくやるわけで、それをわかっていて直志さんがレンズに視線を向けるという。そういう感じで撮影が進んでいくわけです。
「同情なんかしてくれなくていいから、友達になってくれ」と直志さんや(菅野)剛さんが言ってくれました。東京で試写会をしたときにお米を持ってきてくれたり、秋にはサンマを送ってくれたり。申しわけないほど人情が厚いですね。僕らにできることは最後までおつきあいをさせていただくことで、撮影が終わったからサヨナラというのではなく、これからもおつきあいさせていただくということなんです。

1本のドキュメンタリー映画を作るということは、撮影やその前後だけだけじゃなくて、一生のおつきあいをする覚悟がいるということですか。
まあそうですね。でもその前に「直志さんを撮りたい!」という気持ちになるんです。そのうちのっぴきならない感じになってくるという(笑)。そういうときが多いですね。
今回は50回も東京と陸前高田を車で往復されたと。
誤解を恐れずに言いますけど、楽しかったんです。会いたいわけです。気になるんです、続きが。だからよく「ネタないですか? そろそろ行きたいんですけど」とか、「早く会いたいんですけど」って電話してました。
そうすると「あるよ」と教えてくれるんですね。
それと、彼の生業である「きこり」としての仕事を僕らが撮るんだなと気付いてくれたときに、僕らの方を向いてくれました。残したかったんでしょうね、きっと。ドキュメンタリーって、撮らせてもらってるという感覚の間は、緊張感のあるシーンなんて撮れないんです。どこかで一緒になって映画を作るっていう感じにならないとダメなんだけど、それが直志さんの場合は山仕事だったんです。これを直志さんは残したかったんでしょうね、映像で。
きこりの直志さんは一段とカッコいいんですよね。
そのときは逆に電話がかかってきましたよ。「今度こういうのやるから来い」って。それがお祭りの山車の材料の木を切るシーンでした。
人がいなければ祭りはできない
その木を切るときや、家の建前とかの「儀式」のシーンがありますが、直志さんは重要な役割を果たしてますね。その様式美というか、姿がとても美しいです。
例えば仏様にお茶をあげるという行為が小さいときから身に付いている方だからでしょうね。自然と般若心経は出てくるし、日常の当たり前のこととして、直志さんだけじゃなく、このあたりの人はみんなそうですね。
厳しい自然の中で仕事をしているからでしょうか。
そうですね。津波や地震だけじゃなく冷害や日照りもあるし、お天道様とずっと向き合って仕事をしてるわけですから。それが「祈り」として出てくるんでしょうね。
いま伝統的な文化が廃れていく状況で、本当に貴重な姿ですね。
そういう意味で津波というのは、人間の命や財産を奪っていったのは悲しいことだけれど、それと同時に伝統や文化を実は途絶えさせてしまおうとしてると僕は今回思いました。だからこそ、そこを繋ぎ止めたい。七夕祭りにしても、祭り自体が目的じゃなくて、七夕ができる土壌、文化というものをきちんと残しておきたいという思いなんですね。人がいなければ祭りはできない。「またここに人が戻ってくるために祭りがあるのだ、だから祭りをやろう」と彼らは言ってたんです。それはそうだなあと思いました。
だからこそ土地を大事にしなければいけない。そのとき思い浮かんだのは放射能のことでした。放射能はこんなに大事なものを奪ってしまうという。
直志さんも「土地がなんとかしてくれる」と言います。土地があるわけですからね。そういう切なさを僕もものすごくはっきりと意識してつなぎました。
こう言うのは違うのかもしれないですが、この映画を観ることで逆に、放射能によって土地を奪われた方々の喪失感の大きさを想像してしまいます。
奪われたものがどれだけ愛しいものだったか。失くした悲しみを切々と訴えるということもあるけれど、失くしたものがいかに大切だったかというふうに見せていくのも、僕は映画の表現だと思うんです。

さらに、直志さんが「オハヨウ! 今日も1日がんばろう」と剛さんと声をかけ合うシーンがなんとも印象深いですが、直志さんと剛さんの関係性も興味深いですね。
あの「オハヨウ!」は安否確認なんですよね。通信手段が壊滅して携帯電話もつながらない状況ですから、「生きてるか〜?」ということですよね。それと、剛さんが支えてあげないと直志さんが孤立してしまうというのもあります。さっき言ったように、ちょっと尖って生きていくというのはやっぱり大変なことです。だから逆に言うと、直志さんには剛さんが要るということですね。
そういう関係性は撮影してすぐ見えてきたのでしょうか。
わかりました。農業に関して言えば、剛さんのほうがエキスパートなんです。だけど田植え機に乗るのは直志さんですから(笑)。自分が乗らないと気が済まないんですね。剛さんはそれがわかってるわけですよね。
経歴を拝見すると、剛さんはおもしろい方ですね。東北大学を中退した後キャバレーの呼び込みとか、いろんな仕事を経て陸前高田に戻ってお醤油屋さんを継がれた……。
おもしろい方です。それから、彼は農業に関しては一家言ありますね。
こう見ると頑固者ぞろいですね、喧嘩しないのが不思議なくらいの(笑)。
頑固ですよ(笑)。最初に「気仙大工」っていう言葉が出てきますね。明治神宮などを作る大工で、要するに外に出て行くという伝統があるんですね。だから外の新しいものを取り入れる進取の精神があるところで、個性的な人が出る地域なんです。基本的には林業、農業の第一次産業の町だけど、大工さん、左官屋さんも多い職人の町でもあるんです。
そんな中、女性も負けずに強い。
強くないとやっていけないですね。芯がしっかりしてます。忘れたくない、逃げないということを、恐らく自分の中で決めてるんでしょうね。

そして、ベルリン国際映画祭ではキリスト教団体が選出する「エキュメニカル賞」を受賞されました。おめでとうございます!(編集部注:インタビュー後に受賞が決まり、コメントをいただきました。)
とても光栄なことだと思います。受賞理由は、自宅を再建しようとする直志さんの姿の中に日本人の豊かな精神文化が描かれているというものだったのですが、そういったものが国境を越えて理解されたことをうれしく思います。直志さんも震災のときに国内だけじゃなく、世界から支援が届いて、そのお礼を言う機会がないから、映画でお礼が言いたいと言ってました。
そういう考え方をなさるのも、すごいなと改めて思います。直志さんは映画についてどんな感想をおっしゃってましたか。
「僕は名前の通り素直な人のつもりなんだけど、映画を観ると頑固だにゃあ」と。ちょっとウルっとなさってました。達成感みたいなものを感じていらしたように思いました。
「にゃあ」ですね。いや〜ラストシーン、最高です。
(このインタビューは2013年1月23日に行われました。)
プロフィール
いけや・かおる/1958年、東京生まれ。同志社大学卒業後、数多くのテレビドキュメンタリーを演出する。97年、蓮ユニバース設立。初の劇場公開作品となった『延安の娘』(2002年)は文化大革命に翻弄された父娘を描き、ベルリン国際映画祭など世界30数ヶ国で上映され、カルロヴィ・ヴァリ国際映画祭最優秀ドキュメンタリー映画賞ほか多数受賞。2作目の『蟻の兵隊』(06年)は中国残留日本兵の悲劇を描き、記録的なロングランヒットとなる。08年からは立教大学現代心理学部映像身体学科の特任教授を務め(13年3月まで)、卒業制作としてプロデュースした『ちづる』(11年・赤﨑正和監督)は全国規模の劇場公開を果たす。著書に『蟻の兵隊 日本兵2600人山西省残留の真相』(07年・新潮社)、『人間を撮る ドキュメンタリーがうまれる瞬間(とき)』(08年・平凡社 日本エッセイスト・クラブ賞受賞)。
寄稿家プロフィール
ふくしま・まさよ/航空会社勤務の後、『ほぼ日刊イトイ新聞』の『ご近所のOLさんは、先端に腰掛けていた。』コラム執筆。桑沢デザイン塾「映画のミクロ、マクロ、ミライ」コーディネーター。産業技術総合研究所IT科学者インタビューシリーズ『よこがお』など。