

初めての長編作品となった『ムサン日記〜白い犬』で、製作・監督・脚本・主演の4役をこなしたパク・ジョンボムさん。北朝鮮から韓国にやってきた主人公スンチョルを自ら演じているが、そのモデルになったのは、4年前に癌で他界した脱北者の友人だという。大学の後輩で、パク監督の映画作りも手伝っていた彼の遺志を汲んで完成させた本作は、昨年の東京フィルメックスで審査員特別賞を受賞したほか、韓国はもちろん、ロッテルダム、ロシア、イタリアなど世界各国で数々の賞を受賞。公開を前に来日した監督にお会いした。
まず、「脱北者」という特別な存在について教えて下さい。年々数が増えていて、昨年11月現在で韓国に2万人以上が暮らしているそうですが、韓国の一般市民にとってどういう存在なのでしょう。
テレビのニュースや新聞記事のみで接する、そんな存在です。実際にいるんだろうけど見たことがない。言ってみれば幽霊のような、そんな風に思われているのではないでしょうか。韓国人が「脱北者」と聞けば、漠然と「ああ、かわいそうだな」などと思うのでしょうが、おそらくそれ以上の関心は持たれていないような気がします。

脱北者の友人たちとの出会い
主人公のモデルになったチョン・スンチョルさんは、監督にとって弟のような親しい友人だったと聞いています。最初に彼のお兄さんと知り合ったそうですね。
もうずいぶん昔の話です。スンチョルのお兄さんと僕は大学の同期で、初めて会ったのは1996年ですから、16年も前になりますね。お兄さんもとてもいい人で、せっせと学校に通って、働いて、一所懸命に生きようとしていましたが、韓国という社会の中で、がんばった分の見返りを受けられないでいることも僕は目にしていました。なによりも彼自身が一所懸命に取り組んでいる姿はとても好感の持てるもので、次第に親しくなっていって、お兄さんに出会ったことによって脱北者のほかの友達とも知り合うようになった。そして、お兄さんがお母さんと弟を韓国に呼び寄せたので、スンチョルにも出会ったわけです。
そのお兄さんが監督にとって最初の脱北者のお友達だったということですが、最初から偏見のようなものはなかったのでしょうか。
おそらく僕の中にも偏見はあったでしょうね。でも、ああ、違うなと感じる前の段階で、彼のことをよく知ることができたと思います。北から来たんだから僕たちとは違うんだろうなと思っていたけれど、いざ接してみるとまったく違うということもなかった。ただ、それまで社会主義体制の中で育ってきたということで、やっぱり彼ら独特のクセみたいなものがあって、全体主義的というか。例えば「〜〜をしなさい」と言われたら、みんなで同じようにしなくてはいけないと考える。韓国だったら、そう言われたとしても一所懸命やる人もいればサボる人もいるし、話を聞いていない人もいるし、まったくやらない人だっている。そういう多様性が出るのが普通の反応なんだけど、それを彼らは良しとしないという感覚があったようです。自由な思考に慣れるのが彼らにとってはけっこう難しいことで、2、3年経つうちに次第に慣れていったようですが、来たばかりの人にとってはそういう部分がなかなか越えられない壁としてあったのかもしれません。

北野武監督の『HANA-BI』を観て、映画に興味を持たれたとか。大学で映画作りの勉強をされたそうですが、演技についても学ばれたのでしょうか。
最初は体育教師になろうと思って、大学の体育学科に入学したんです。映画をやってみようと思った時点で、周りに映画を作っている人はいませんでしたし、同じ科の先輩や後輩は「ヘンな奴だな」という顔で僕を見ていました。短編を撮り始めたとき、撮影も自分で、照明も自分で、シナリオも演出もぜんぶ自分でやって、せいぜい数人の友人に助けてもらうくらいでほぼ1人で撮っていました。運がいいことに短編映画が国内外で賞を受賞して、それを通じてほかの短編を作っている人たちが僕を役者として使ってくれたりもしたので、トータルで20本くらいは役者として出ています。数をこなしながら学んだというか、演技自体にぎこちなさや不慣れなことを感じることはもうないですね。演じるということは、映画を作る過程の1つであって、製作もあるし、演出もあるし、それと同じ1つであり特別なことではないんです。いまもそういう感覚で演技をしています。
毎日のように鼻血が……
とはいっても、演出しながら演技もするのは、たいへんな作業なのでは?
そうですね。体力的にはけっこうたいへんでした。特にこの作品はじっと座って話が展開していくものではなく、殴られたり、蹴られたり、走ったり、引きずられたり、ケンカしたり、そんなアクションも多かったので。でも、僕よりもっとたいへんだったのはスタッフと役者たちでしょう。僕が演出だけしているのであれば、モニターの前に座って演技を見ていてOKやNGをすぐその場で出せるわけです。でも、僕が演技もしていることによって、自分が演じたものをモニターの前に行ってチェックをすることになり、NGなら相手役の人も当然付き合ってもらってやり直さないといけない。単純に2倍の時間がかかります。精神的にはさほど辛いとは感じませんでしたが、体力的にはかなりのたいへんさを感じていました。実際、毎日のように鼻血が出たんですよ(笑)。撮っている間は没頭していたと思うのですが、体にはかなりの無理をさせていたのでしょうね。
過酷な現場でしたね……。ところで、刑事を演じた人は監督のお父さんだそうですね。役者さんではないんですか。
いえ、父は普通の人です(笑)。僕がお願いして出てもらったのですが、周りの人たちも「お父さん、うまいですね。演技が自然ですね」などと言ってくれました。映画というものは演出する監督がボスで、父はボスのさらに上のボスという気分で、ストレスを感じることがなく、リラックスして楽しみながらやっていました。自分が出ない場面ではビールを飲みながら「がんばってるね」と言いつつ横で見ていたり、普通、俳優は多少なりとも監督の前では緊張して、NGを出さないように気を遣ったりもしますが、父の場合は、NGを出すと「え? NGなのかい!?」と言ってみたり。セリフが思い浮かばないと思ったら、父なりに考えてアドリブでこなしたり。そうやって気楽に取り組んでいたことで、自然な演技ができたのだと思います。
お父さん同様に、白い犬のペックもいい演技を見せてくれました。
ペックは僕が飼っているのですが、名演技でしたね。この作品のために買ってきた韓国原産の珍島(チンド)犬と北朝鮮原産の豊山(プンサン)犬のミックスで、市場で3万ウォン(約2150円)で売られていたんですよ。

師匠イ・チャンドン監督からの「おつかれさん」
音楽をまったく使わなかったのはなぜでしょう。
この映画の場合、映画に込められているものに忠実にありたいと思ったので、音楽を外部からわざわざ入れ込むということはやりたくなかったんです。非現実的なものになってしまうように思ったので。あくまでも現場で発生する音と音楽のみをそのまま生かして、エンドロールが上がるときもあえて音楽を入れませんでした。
さすがイ・チャンドン監督のお弟子さん。『ポエトリー アグネスの詩』公開前に、イ・チャンドン監督にも同じ質問をしたことがあるんです(イ・チャンドン監督インタビューはこちら)。『ポエトリー アグネスの詩』の助監督をされていたそうですが、様々なことを学ばれたと思います。印象に残っていることはありますか。
イ・チャンドン監督にお会いすると、日本の偉人、徳川家康みたいな人だなといつも思います。山のように泰然自若としているというか。文化観光部長官もなさっていましたし、仕事がたくさんある超多忙な方ですが、それでもいつも動ずることなく、周りの人を包み込む度量の大きな方。真の意味での年長者、大人ですね。肯定的なことであれ否定的なことであれ、いつでも真実はなにかと探していらっしゃる。「映画監督というものは、なにかあったときに、真実はなにか、本当のものはどこにあるのかと見つける努力をすべき職業」と、おっしゃっていました。映画を撮るスキルやテクニックよりも、なにか事件だったり、出来事だったり、すべてのことに関して真実をきちんと見つけなさいと、そういう姿勢を教えてくださいました。
この作品をご覧になって、イ・チャンドン監督はなんとおっしゃっていましたか。
特にコメントはありませんでしたが、うなずきながら「おつかれさん」と言ってくれました。その後、イ・チャンドン監督と親しい方々が、彼が「おつかれさん」と言うなんて滅多にないことで、そのひと言を聞けたのはすごいことなんだよと教えてくれて、うれしく思っています。
その「おつかれさん」が最大の賛辞なのでしょうね。スンチョルさんのお兄さんとお母さんも作品をご覧になられたでしょうか。
はい。いちばん最初のVIP試写にお招きして観ていただきましたが、2人とも映画が終わったときには、わんわん号泣されていました。特にお兄さんのほうは韓国にやってきて16年になりますから、自分も忘れかけていた当時のことを思い出して悲しみが込み上げたようです。試写会が終わって泣いたまま無言で帰られましたが、後で電話で「いい映画を作ってくれてどうもありがとう」と言ってくれました。スンチョルさんのお母さんもとても喜んでくれましたよ。

(※このインタビューは2012年3月29日に行われました。)
プロフィール
Park Jung-bum/1976年、ソウル生まれ。体育教師を目指し、延世大学体育学科に入学。大学2年で兵役に就き、その頃観た北野武監督の『HANABI』の影響で映画監督を目指す。2000年、大学に戻り、新設された映画コースで学び、短編映画を撮り始める。同年に完成させた短編『サギョンを彷徨う(Templementary)』がニューヨークで開催されたアジア短編映画祭に招待され、最優秀賞と観客賞を受賞。その後、20本近くの短編を撮る。07年、東国大学映画大学院に入学。友人をモデルに『125 チョン・スンチョル(125 Jeon Seung-Chul)』を撮り、08年ミゼンセーヌ(mise-en-scene=演出の意)短編映画祭で審査員特別賞を受賞するなど高く評価される。この短編が『ムサン日記〜白い犬』の原型となる。その後、イ・チャンドン監督の『ポエトリー アグネスの詩』(2010)に助監督として参加。同年、初の長編作品である本作『ムサン日記〜白い犬』を監督。
寄稿家プロフィール
まつまる・あきこ/1996年から2005年までP3 art and environmentに在籍した後、出版社勤務を経てフリーの編集者に。P3在職中にREALTOKYO創設に携わり、副編集長を務める。2014年夏から長岡市在住。