COLUMN

interview
interview

Interview

062:ヴェルナー・ヘルツォークさん(『世界最古の洞窟壁画3D 忘れられた夢の記憶』監督)
聞き手:松丸亜希子
Date: March 01, 2012
ヴェルナー・ヘルツォークさん | REALTOKYO
Photo: 名倉千尋

1994年に3人の探検家が南フランスで発見したショーヴェ洞窟。その中には、3万2,000年前に描かれた人類最古の壁画があった。洞窟内は、ごく一部の学者や研究者を除いては非公開だが、特別に許可を得たヴェルナー・ヘルツォーク監督と数名のクルーがタイムカプセルの扉を開き、内部の様子を3Dカメラで臨場感たっぷりに撮影。完成した『世界最古の洞窟壁画3D 忘れられた夢の記憶』は、時空を超えた壮大なロマンを現代の私たちに届けてくれる。公開に先立ち、ヘルツォーク監督にメールインタビューで語っていただいた。

「ヘルツォーク監督が3D映画を!?」と驚きましたが、実際に拝見して、この作品には3Dの必然性を感じました。「これは絶対3Dで撮りたい」と決めたときの気持ちについて教えて下さい。

 

3Dでの撮影は、私にとって“使命”に近いものがありました。ジェームズ・キャメロン監督の『アバター』を見て愕然として、正直がっかりでしたね。そのとき、私は決して3Dで映画を撮影することはないと自分自身に誓いましたし、もしかすると、周りの人たちにもそのようなことを言ったかもしれません。しかし、ショーヴェ洞窟に入り、初めてその壁画を見たときに、どれも自然が生み出した凹凸に合わせて描かれた立体絵画であると気付いて、これはどうしても3Dで撮ってみたいと思いました。その出合いがあり、古代に描かれた立体絵画を私が3Dで撮影することになったのは、ある意味それが私の使命だったからといえます。

 

ヴェルナー・ヘルツォーク『世界最古の洞窟壁画3D 忘れられた夢の記憶』 | REALTOKYO
(C) MMX CREATIVE DIFFERENCES PRODUCTIONS, INC.

一緒に洞窟探検をしているような気分になり、監督の興奮がダイレクトに伝わりました。フランスの文化大臣が監督のファンで、撮影許可がスムースに得られたそうですね。

 

12歳の頃、ラスコー洞窟の壁画に関する本と出合い、その本が私の芸術への関心を芽生えさせてくれました。しかし、フランス政府によって厳重に保護されているショーヴェ洞窟には、決して一般の人は立ち入れません。一部の研究者しか入れない洞窟に、私はどうしても入りたかった。フレデリック・ミッテランが文化大臣になったばかりのころにお会いして、彼のほうから私のそれまでの作品について、それらに自分がどれだけ影響を受けたかと語りかけてくれたので、これはチャンスだと思いました。私は彼にラスコー洞窟の壁画の本の話をして、この映画制作への熱い思いをアピールしたんです。洞窟に入る申請には1年くらいかかりましたが、その甲斐もあって許可が下りました。私は世界中に多くの友人がいて、南極大陸で撮影する際も、オーストラリア空軍の友人に手伝ってもらい、軍用機で南極へ降り立ちましたが、今回もフランスの友人知人のサポートがあって撮影が実現しました。

 

1日4時間のみで6日間という制限があったり、狭い場所を這いつくばったり、撮影は苦労が多かったのでは?

 

時間制限や撮影スペースの問題もそうですが、それよりもずっと大変だったのが、3Dカメラのフォーカスを暗闇の中でコントロールすることでした。私たちは十分な明るさのある照明を持ち込むことが許されていませんでしたし、その暗さの中でピントを合わせるのがとても難しかった。洞窟内の狭い歩道からしか撮影できませんし、カメラに問題が発生して修理しようと思っても、洞窟の外に出て直すわけにいきませんから、暗い中で修理することが多くて。また、洞窟内には有毒ガスが出ている場所もあって、それも大きな試練でした。まるで戦場ジャーナリストのように、張りつめた緊張感の中で撮影していたような気がします。そういった制限のある条件下で、いかにプロフェッショナルな仕事が出来るか、私たちはそこにフォーカスして撮影を進めました。

 

ヴェルナー・ヘルツォーク『世界最古の洞窟壁画3D 忘れられた夢の記憶』 | REALTOKYO
(C) MMX CREATIVE DIFFERENCES PRODUCTIONS, INC.

壁の表面の凹凸やキラキラした輝き、ぬめっとしたテクスチャーなど、細部までリアルに伝わる映像に魅了されました。撮影監督を始め、編集、音楽監督など、主なスタッフはヘルツォーク組の面々ですね。

 

カメラマンに限らず、私は今回の撮影で全スタッフと非常に念入りに話し合い、意識の共有をいちばん大切にして進めました。今回は様々な制限があり、その中で芸術を作り出さなくてはいけなかったからです。プロフェッショナルな仕事をすることに徹していた私たちは、お互い大きな信頼で結ばれていました。

 

実際に撮影する前、一度だけ洞窟内を観察させてもらったときは、これほど洞窟の中が美しいとは思っていませんでした。描かれている馬やライオンたちがまるで私を見つめているような感じがして、洞窟を出た後も、しばらくその夢のような感覚がずっと残っていたくらいです。洞窟の内部はまさに神秘の世界。壁画はもちろん、数多く残っていた古代の動物たちの骨は、私たちにはるか彼方の世界でのストーリーを語ってくれました。

 

美しい夢からリアルな現実に引き戻されるようなポストスクリプト、特に原子力発電所のカットにギョッとしました。日本の観客に向けてメッセージがあればお願いします。

 

このポストスクリプトは日本の大地震の前に撮影していますが、日本の原発事故には私も心が痛みます。この映画の大きなテーマは“時空”。私たちははるか彼方の世界へ旅立ちます。そこは宇宙ともいえるイマジネーションの世界ですが、私たちはそこに留まるわけにはいかず、また現実へ戻らなければならないのです。この洞窟には、観光客など一般の人たちは入ることを許可されていないので、私たちが味わった臨場感をこの映画で追体験してほしいですね。

 

ヴェルナー・ヘルツォーク『世界最古の洞窟壁画3D 忘れられた夢の記憶』 | REALTOKYO
(C) MMX CREATIVE DIFFERENCES PRODUCTIONS, INC.

監督は今年70歳ですが、お元気であることがわかってうれしく思います。これから撮ってみたいテーマはありますか。

 

事実はノンフィクションにとって最も大切なファクターですが、事実だけを見せるのがノンフィクションだとは思っていません。事実の先にある想像の世界を感じさせるのが私のシネマ。私はそんな映画を作り続けたい。それが私の使命だからね。

 

(※このインタビューは2012年2月14日に行われました。)

 

プロフィール

Werner Herzog/1942年9月5日、西ドイツのミュンヘン生まれ。15歳で初めてシナリオを書き、ミュンヘン大学で歴史、文学、演劇を学ぶ。その後、奨学金を得てアメリカに渡り、ピッツバーグのデュケイン大学で映画とテレビの勉強をする。62年に初の短編映画『Herakles』を完成させ、63年には自らのプロダクションを設立。66年にドイツの映画推進理事会により30万マルクを援助され、初の長編映画『生の証明』(68)を撮る。以後は、ライナー・ヴェルダー・ファスビンダー、ヴィム・ヴェンダースらと共にニュー・ジャーマン・シネマの旗手として躍進し、『蜃気楼』(68)、『小人の饗宴』(70)など異色作を発表、『カスパー・ハウザーの謎』(74)ではカンヌ国際映画祭審査員グランプリを受賞。70年代に入って、個性派俳優クラウス・キンスキーと組んだコンビ作『アギーレ/神の怒り』(72)、『ノスフェラトゥ』(79)、『ヴォイツェック』(79)で話題を呼び、『フィツカラルド』(82)がカンヌ国際映画祭最優秀監督賞を受賞し、『コブラ・ヴェルデ』(88)まで5本でコラボレーションし、キンスキーの死後にはドキュメンタリー映画『キンスキー、我が最愛の敵』(99)を制作した。その他、ドイツ映画賞作品賞を受賞した『緑のアリが夢見るところ』(84)、ティム・ロス主演作『神に選ばれし無敵の男』(01)、ニコラス・ケイジ主演作『バッド・ルーテナント』(09)、デイヴィッド・リンチ製作による『狂気の行方』(09)など、チャレンジングな意欲作を発表し続けている。一方、初期より制作を続けているドキュメンタリー映画の分野でも名声と評価を確立し、近年制作した『グリズリーマン』(05)では監督組合や全米批評家組合などのノンフィクション映画賞を受賞、『Encounters at the End of the World』では米アカデミー賞ドキュメンタリー映画賞候補に挙がり、フィクション、ノンフィクション両分野にまたがる、世界の巨匠として精力的な制作活動を見せている。また、ハーモニー・コリン監督作『ジュリアン』(99)、『ミスター・ロンリー』(07)などで俳優としても活躍、出演最新作は、トム・クルーズの敵役で準主演する『One Shot』が2013年公開予定。近年はオペラの演出も多く手掛けており、97年には東京で『忠臣蔵』の演出も担当している。

インフォメーション

世界最古の洞窟壁画3D 忘れられた夢の記憶

3月3日(土)、3週間限定春休み特別ロードショー。日劇、TOHOシネマズ六本木ヒルズほか

公式サイト:http://www.hekiga3d.com/

寄稿家プロフィール

まつまる・あきこ/1996年から2005年までP3 art and environmentに在籍した後、出版社勤務を経てフリーの編集者に。P3在職中にREALTOKYO創設に携わり、副編集長を務める。2014年夏から長岡市在住。