

2005年の東京フィルメックスで俳優、西島秀俊と運命の出会いをしたアミール・ナデリ監督。映画愛が炸裂する『CUT』を西島と共に作り、2011年のフィルメックスにて日本プレミア上映を果たした。「僕の魂がこもった作品。観た人の中で我こそは“秀二”だと思う人は、映画の可能性を拓いてほしい」と舞台挨拶をする西島の隣で、感激もひとしおの表情を見せていた。映画に対しても、人に対しても、生半可な気持ちを許さない真摯さ、一瞬で心を掴んでしまう魔法のような人懐っこさ、そして自他ともに認める“執着心”が力強い作品を生んでいく。いまの映画界が抱える問題の核心へ誠実な一撃を投じる話題作への熱い思いを聞いた。続編の予定もあるとか……?
『CUT』では強いメッセージがストレートに響きます。大きく分けると3つあるような気がします。1つは過去のすばらしい作品に対してのオマージュ、2つ目は拝金主義に陥っている映画をとりまく状況への異議、そして3つ目は若い映画監督へ向けての応援歌のようでもあると思いました。
そのとおりですね。若いフィルムメーカーに限らず、どんなアーティストに対しても「ネバーギブアップ」の精神、自分の限界を越えてどこまで行けるのか、背中を押し続けながら、本当に欲しいものを手に入れるまでがんばり続けてほしいというメッセージが込められています。そのためには、その代償がメンタルなものであろうが、秀二のようにフィジカルなものであろうが、負けないでとにかく邁進してほしい。特にいま映画の置かれている状態は決して健康的ではないので、純粋なアーティストたちはギブアップしがちな状況ですが、その中でもがんばってほしいという応援メッセージなんです。

主演の西島秀俊さんは、秀二と一体化していくように見えるほど迫力ある演技でした。そんな「秀二」はナデリ監督ご自身だとほかのインタビューで答えていらっしゃいましたが、秀二の中に見る"ご自身"とは?
“決心”です。そして限界を拡げ続けるところ。打たれれば打たれるほど強くなるところ。肉体的には傷ついていきますが、その分内側が強くなっていく、そういうところです。もちろん、オブセッション(執着心)です!(笑)
そうですね(笑)。“執着心”については、ナデリ監督ファンもよく言及するところですね。
私のどの作品にも執着するキャラクターが出てきますし、それは自分の体験から来ているからです。あるいは自分とは異なる文化や言語のもとでも、多くの執着するキャラクターが登場します。つまり自分の映画は、言い換えると、監督としての自分のサバイバルであり、キャラクターがいかにサバイブできるかということであり、それを見る側も共にいかにサバイブしていけるかというストーリーになっているのです。

「秀二」は、日本人でなければならなかった
それは秀二のセリフにも表れていました、「生き残りたい」と。秀二は気持ちだけではなく、実際に壁をどんどん越えようとするわけですが、いまの社会のことを考えると、その壁自体が見えないというか、あるいは壁を見ると避けてしまう、壁にぶつかろうとしない傾向があるようにも感じます。しかし、壁に向かって突進することが大事だと監督は言っていますね。
どんな人間でも自分を見つめて、自分が本当に求めているものは何かを考えなければならない瞬間はあるべきだと思うんです。それはアーティストに限らず、会社勤めの人でもみんな同じで、自分を試し、自分をより知り、自分の求めるものは何か、そのためにはどうすればいいかを考えなければならない。サバイバルが大切なのではなく、欲しいものを手に入れようとトライすることが重要なのです。みんながヒーローになれるわけではないし、全員がマラソンでゴールできるわけでもない。でも、トライすることが大事なのではないか。人とは、自分のことを知りたいと思うのではないだろうか。そのことから逃げたいと思う人もいるかもしれないけど、そういう人に対しては悲しく思うし、心配になりますね。秀二はどんなに打たれて傷ついたとしても、自分の信じたことのためにやり通した、そういう強いものがあるのだと思います。日本は3.11の大震災を経験し、そこからサバイブしました。経済的な問題や健康上の問題も続いているとは思いますが、そこから逃げることなく、問題を解決しようとチャレンジし続けている。そういう資質は、僕からするととても日本人的であり、だからこそ秀二は日本人でなくてはならなかった。つまり、自分の信じるもののために自分を犠牲にする男です。もしほかの国だったら、簡単に成功する道を探したりするのではないか、でも日本人には秀二のような人が多いのではないかと思っています。彼は過去の映画を救うために立ち上がった「ラストサムライ」であり、言い換えると「現代のキリスト」、つまり過去の映画という十字架を抱え、それを新しい世代に渡そうとしている、そんな役どころだと言えます。

西島さんに秀二を演じてほしいと出会ったときに直感したそうですが、それにしても西島さんに「本性をみせろ」とナデリ監督が言ったというのは、100%は本性を見せてないと感じたからですか。
日本の男性は、感情や思いを隠すことが多いかもしれません。でもそれは文化的なことだから、いいとか悪いということではありません。今回は俳優と心と心が通じ合うようなコミュニケーションを、日々ゆっくりと作りあげることができました。西島さんはいい意味での野心とエネルギーと怒りの感情を隠しているように感じたわけですが、同時に隠しているとはいえ自分の欲しいものはちゃんとわかっている。でも、この状況では手に入らないという思いを声高に叫んでいるように、会ったときに感じたんです。それをこのキャラクターに落とし込んでやってもらったところ「パン!」と出てきたんです。エネルギーと野心を内に秘めながら沈黙している、興味深い沈黙のしかたをしているというのが最初のイメージで、何かしたいというエネルギーは強く感じました。日本人ではあるけれど、秀二は一般的な日本人とちょっと異なり、いまの時代に、そのように表現している日本人はいない。かつて三島由紀夫や寺山修司のような人はいたかもしれませんが、いまは違います。映画はインターナショナルな言語だからこそ、映画が大好きな秀二は外国の作品の表現方法も多く見ていた。だから自分自身をこういう形で表現したいとメガホンで叫んでいたのだと思うんです。秀二は僕の性格と、西島さんの隠してる本性のコンビネーションなのではないかなと思います。
音と編集のために映画を作っている
ナデリ監督の音に対するこだわり、『サウンド・バリア』や『べガス』でも音が気になりました。風鈴の音、一瞬の静寂など、とても印象的な使われ方をしていました。『CUT』では風の音がとても印象的でした。
そうです! 僕は、本当に音と編集のために映画を作っているのです! 僕にとってひとつの映画を作り始めるときに重要なこととは、どうやって音を作り、編集をしていくかを考えること。音と編集を通して自分を表現しているのです。音楽ではなく音なんです。もちろん音楽を聴くのは好きですが、それは映画の中のことではないのです。なぜなら音楽は観客に向かって何かを過剰に表現するのに適していると思うからです。『べガス』も『サウンド・バリア』も『CUT』も、またほかの作品でも、間違いなく音がとても重要です。『CUT』では、音は日本の文化から来ています、つまり、沈黙です。それはこの国の大事な「言語」だと僕は思っています。「音」をデザインすることは、「台詞」よりも秀二のキャラクターを作り上げる要素となっています。「台詞」とは情報を与えているに過ぎないのです。これは私の実験でもあるのですが、そのことに気がついてくれて本当にうれしいです。実はこの映画は日本映画の影響を受けていて、例えば、編集と動きは黒澤(明)さん、キャラクターの内面に入り込むカメラの動きは溝口(健二)さん、沈黙についてはほとんど小津(安二郎)さんから来ています。それらのテーマに沿って音を作っています。その中で「風」はとても大切な要素で、僕の後をついてくる「過去」を表しています。失ってしまったこと、去ってしまったこと、アクセスできないもの、あるいは触れられないものから風が来ます。『CUT』の中の「風」は、映画の意味が失われ風と共に去ってしまった、ということを表現しているのです。
西島さんとまた映画を撮る予定はありますか?
あと2回。トリロジーを作りたいと思ってるので、またすぐ日本に帰ってきます。

(※このインタビューは2011年11月17日に行われました。)
プロフィール
Amir Naderi/1945年8月15日、イランのアバダン生まれ。テヘランでスチールカメラマン、映写技師、助監督として活動後、“Deadlock”(73)、『ハーモニカ』(74)などを監督、ナデリ脚本・キアロスタミ監督の“Experience”(74)を発表。『駆ける少年』(86)、『水、風、砂』(89)は両作ともナント三大陸映画祭グランプリを受賞、世界的にも高く評価された。現在はNYを拠点に活躍。TOKYO FILMeXでも上映された『サウンド・バリア』(05)はローマ国際映画祭でロベルト・ロッセリーニ批評家賞、『ベガス』(08)はヴェネツィア国際映画祭コンペティション部門でSIGNIS賞を受賞。2011年のTOKYO FILMeXでは審査委員長を務めた。
寄稿家プロフィール
ふくしま・まさよ/航空会社勤務の後、『ほぼ日刊イトイ新聞』の『ご近所のOLさんは、先端に腰掛けていた。』コラム執筆。桑沢デザイン塾「映画のミクロ、マクロ、ミライ」コーディネーター。産業技術総合研究所IT科学者インタビューシリーズ『よこがお』など。