

中国だけでなく、日本を始めとする国外にも信奉者の多い思想家、孔子。紀元前6世紀、いまから2500年前の人物を描くために、研究を重ね何度も改訂を繰り返して練り上げた脚本で、演じられるのはこの人しかいないと白羽の矢を立てたチョウ・ユンファを射止めた。専門家からの横やりにもめげずに映画化を実現したフー・メイさんに、製作の舞台裏について聞いた。
中国最高峰の偉人といってもいい孔子ですが、意外にも本格的な映画化はこの作品が初めてだそうですね。
そうなんです。私は孔子の映画をずっと前から撮りたいと思っていたのですが、これも当初はテレビドラマの企画としてスタートし、そのまま3年くらい進んでいました。なにしろ孔子ですからね。中国政府もこの企画を重視して、6回にわたる討論会を開催してくれたんです。名立たる専門家が集い、シナリオについて、本当にこれでいいかどうかと討議する会だったのですが、私はその6回ですっかり疲れ果ててしまって、孔子を撮るのは止めようかと思ったくらい。とはいえ、膨大な資料を読んで孔子への理解を深め、3年かけてシナリオを用意していたので、せっかくここまで研究したのに完全に止めてしまうというのはね。すでに深まっていた孔子への興味がそうさせなかったんです。
映画にするには、マーケットに送り出すために、出資者をどうやって見つけるかが大きな課題でした。たまたま一緒に食事をしたウさんという人がいて、製作に名を連ねているリウ・ロンさんのボスなのですが、「これからどんなものを作るの?」と聞かれて「孔子なのですが、なかなか出資してくれる人がいなくて……」と話したら、「それは意義深いことですね。やりましょう!」と即座に言ってくれて、それで映画が撮れることになったんです。
ウさんからは、こんな映画にしてほしいといったリクエストはあったのでしょうか。
彼は作品のことをよく理解してくれていました。もちろん孔子への敬愛や崇拝の念が強くあったはずですが、内容についての注文はまったくなかった。私がそれまでに歴史物のドラマを撮っていたことで信頼してくれて、任せても大丈夫だと思ってくれたのでしょう。私は、マーケット的にどうなのか、出資してくれてもそれに見合うだけの興行収入が得られず回収できないのではないかと思って、そうなったら彼に申し訳が立たないので、「出資は少なめでいいです。3000万元から5000万元くらいでいいですよ」と言ったら、「そんなに少ない金額だったら私に言ってこないで下さいよ。1億元以上出すから、それでぜひ撮って下さい」と言ってくれたんです。

みじめなヒーローとしての孔子像
監督にとって、孔子のいちばんの魅力とは?
孔子に関する一次資料というものは非常に少ないんです。『論語』は弟子たちが孔子の名言などを集めた本ですし、唯一の資料といっていいのは司馬遷の『史記』の中にある「孔子世家」という記述くらい。そういうものを読んで私の頭の中に浮かんだ孔子像は強烈なイメージでした。戦乱が頻繁に起きている暗黒の時代に、とても背の高い偉人がボロをまとって、みじめな様子で、3000人の弟子を引き連れて祖国を周遊するというような。何のためにそんなことをしているかというと、自分の政治理念を実現するため、各国を遊説しているんです。そういう生活を十数年も続けている。いわば失敗したみじめなヒーローなのに、そんな姿が私の中にずっと焼き付いて離れないんです。
神様みたいに立派な偉人に惹かれたということではないんですね。
そうです。なぜそんなみじめなヒーローが3000人の弟子を引き連れていたのか。しかもその中には、「72人の賢人」といわれる各国から集った精鋭たち、後の孟子や荘子もいて、なぜ彼らが孔子をずっと崇拝し続けていられたのか。孔子のカリスマ性はどこから来たのだろうか。私はその「なぜ?」という部分にずっと引っかかっていました。それで、この人を映画にしてみたいという思いがますます強くなっていったんです。
その秘密が映画に描かれていますね。監督がいちばん好きな孔子の言葉は?
「道同じからざれば、相為に謀らず」(志が異なる人と相談できない)とか、「義を見て為ざるは、勇なきなり」(為すべきことをしないのは臆病者)とか、いろいろあります。「仁、即ち人を愛す」(仁とは人を愛すること)、これも非常に心に残りますね。孔子が理想とした国とは、人々がみな温かい家庭で和をもって暮らす、そういう世界なんです。彼が唱えた人類愛に私は共感しています。

チョウ・ユンファしかいない!
孔子役のチョウ・ユンファさんには、どう演じてほしいと伝えたのでしょう。
具体的には特に言ってないんですよ。なるべく自由に、彼なりの理解で演じてほしかったから。最初に撮ったのは、弟子の顔回が死んで、彼を抱えて泣いているという、あの難しいシーンだったんです。そしたらチョウさんが「監督、私をテストしたんですね。こんな難しいシーンから撮り始めるなんて」って(笑)。まだキャストもスタッフも、この映画がどういうふうに進んでいくのかわからない、まるで見えていない状態だったんです。しかし、さすがはハリウッドで活躍する国際的な俳優ですね。あんなに難しい、クライマックスともいえるシーンから撮り始めたのに、素晴らしい演技を見せてくれました。ほかの人では出来ない演技でしたよ。孔子とほんのひとこと交わすくらいの役の俳優たちは、「チョウ・ユンファさんと共演できるなんて!」と舞い上がってしまい、セリフを忘れてぼぉーっとなってしまったくらい。彼の出演はこの作品に大きな影響を与えてくれました。
一度断られて再度アタックしたとうかがいましたが、その甲斐がありましたね。
最初に断られたのはテレビドラマの企画のときだったんです。3歳で父を亡くし、17歳で母を亡くすというシナリオで、孔子役の俳優が3回変わることになっていて。チョウさんは最後の部分にしか出ないことになるので、それではなぁということで最初は断られてしまったんです。その後1年間に33回もシナリオを書き直して、私は29回目のシナリオから関わってクランクインに至ったのですが、25回目くらいの決定稿をチョウさんに見てもらいました。そのシナリオの孔子は51歳で魯(ろ)の国を出て、そしてまた帰ってくる、そのあたりの年齢がちょうど彼にぴったりだったんです。
この作品は、チョウ・ユンファさんにとっても代表作になるでしょうね。
そうでしょうね。そうなることを願っています。

問題の南子とのシーン
孔子が南子に誘惑されるシーンが印象的でしたね。このエピソードには様々な解釈があるようですが。
南子は淫乱といわれ、よくない評判の女性ですが、このシーンを盛り込むに当たって、各方面からいろいろと抗議の圧力がかかりました。ただ、南子と孔子の会談は『史書』にも記載されているんですよね。それがあるから入れたんです。
専門家はカットしてほしかったのでしょうか。
そうです。このシーンを入れてほしくないと言われました。完成してから、北京大学、清華大学、天津の南開大学など、いろいろな大学で上映会を開いてもらって。秦の時代、漢の時代、古代中国史の専門家など、20人から30人の学者が観て、いちばんよかったのは南子とのシーンだったと口々に言ってくれたんです。私は、「みなさんが抗議してくれたおかげでこのシーンに力を入れ、一寸たりともおろそかにしないという気持ちで、気合いを入れて撮ることができました」と応えました。「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」をどこに入れるのがいいかとか、セリフも1つずつ吟味して調整しましたからね。この作品は言葉がとても難しいですから、各国で上映されるときにセリフがどれだけ正確に訳されるか非常に気になっています。うれしいことに、日本語の字幕はとてもよく出来ているようですよ。

(※このインタビューは2011年7月28日に行われました。)
プロフィール
Hu Mei/1958年、北京出身。父は指揮者、母は音楽家という音楽一家に生まれる。第5世代と呼ばれる中国を代表する女性監督の1人。73年に高校を卒業し、人民解放軍総政治部話劇団の俳優として活動した後、78年に北京電影学院監督科に入学。82年に解放軍の八一映画制作所に配属され、84年、李暁軍(リー・シャオジン)と共同で軍隊生活をする女性たちを描いた『女児楼』を監督し、注目される。86年、退役した老兵士の生活を描いた『戦争を遠く離れて』で監督デビュー。その後、『無槍槍手』(88)、『江湖八面風』『情帰鷺島』(91)、『都市槍手』(92)を監督したほか、『漢武大帝』『喬家大院』など歴史物のテレビドラマを手掛け、多くのテレビ賞を受賞。また、2002年に監督したオーストリアとの合作『愛にかける橋』では、オーストリアから恋人を追って中国へ渡ったワグナー夫人の激動の人生を描き、ベルリン国際映画祭やモントリオール国際映画祭などに出品された。
寄稿家プロフィール
まつまる・あきこ/1996年から2005年までP3 art and environmentに在籍した後、出版社勤務を経てフリーの編集者に。P3在職中にREALTOKYO創設に携わり、副編集長を務める。2014年夏から長岡市在住。