

トルコ系ドイツ人としてハンブルクに生まれ、ルーツに根ざした作品を作り続けてきたファティ・アキン監督。『愛より強く』でベルリン国際映画祭金熊賞、『そして、私たちは愛に帰る』でカンヌ国際映画祭脚本賞、そして本作『ソウル・キッチン』でヴェネツィア国際映画祭審査員特別賞とヤングシネマ賞をダブル受賞。36歳で世界3大映画祭を制した、ヨーロッパ映画界を牽引する若き旗手が本作公開を前に初来日を果たし、記者会見を行った。
「作りたいものを作ればいい」という亡き友の言葉で決心
前の2つの作品『愛より強く』と『そして、私たちは愛に帰る』は深刻な内容でしたが、今回は明るい作品ですね。次回作が3部作の最後の作品と聞いていますが、その間にこの息抜きのような作品を作った理由を教えて下さい。
僕はマシーンではなく、自分自身を人間的な映画作家だと思っています。機械的にポンとボタンを押して、計画通りに作れるタイプじゃないんです。3部作の1作目と2作目を撮り終え、間髪入れずに撮りたいと思っていたのですが、人生はそういうふうにはいかないものですよね。いま3作目の脚本を執筆中ですが、実はその間に心情的な危機がありました。友人でもありプロデューサーでもあり、映画のことをよく知っている師匠でもあったアンドレアス・ティールさんが『そして、私たちは愛に帰る』を作っているときに亡くなったんです。コラソンという製作会社を一緒に立ち上げた仲間でもありましたが、とても辛くて、続けて製作することを断念しました。実は『愛より強く』のすぐ後に『ソウル・キッチン』の脚本を書き、新しい会社を立ち上げたばかりだったので、多くの人に楽しんでもらえる作品で景気づけをしようとしたのですが、まだ脚本に自信がなくて。それ以前の評価されている作品とは違う軽めの作品なので不安でした。彼が亡くなる前、「人が言っていることなど気にしないで、心から作りたいと思うなら作ればいい」と言ってくれて、その言葉で決心できました。亡くなってから1年は、悲嘆に暮れた苦しい時間でしたが、そこから脱出するためにも、この作品を形にすることは僕にとって必要でした。ですから、確かにブレイク(息抜き)です。キャリアとしても重要なブレイクだったと思います。成功したとしてもその奴隷になるべきではない、作りたいものを作るべきなんだという、アンドレアスからの最後の教えですね。それでこんなに時間が経ってしまったんです。
ブレイク的な本作がヴェネツィア国際映画祭でダブル受賞しました。人生はちょろいなと思われたでしょうか(笑)。それとも、違う世界が開けたでしょうか。
正直驚きました。賞を期待していませんでしたし、『ソウル・キッチン』での受賞はまったく考えていませんでした。ヴェネツィアへの招待がこの作品にとっては受賞も同然だと思っていましたから。一般の方々がどう思われるかわからなかったので、一般の観客のための上映に立ち会って、反応をこわごわとうかがってみました。そこに審査委員長のアン・リー監督もいらっしゃって、みなさんから熱意のある反応が返ってきてうれしかったです。映画監督として、1つのジャンルをどこまでやりこなせるかという、挑戦でもありました。どういうスキルを使って作り上げることができるか。エンターテインメントを届けることができるのか。アート系の作品を撮る映像作家であっても、どんなタイプの作品でも作れるスキルが必要だと僕は思っています。受賞後のパーティで次々に審査員をつかまえて「どうして賞を下さったのですか」と聞いてみましたが、ある人が「今までシリアスな作品を撮ってきたのに、こういう作品を作り上げた度胸や勇気に賞を上げたかった」と言ってくれました。受賞させてくれた方々の言葉があってこそ、本当に受賞した気持ちになれますし、そこから学び取ることもあります。いつかは僕も死にますが、そのときにたくさんの作品があればいいですね。この作品も僕の作品の1つのしずくとして残っていくでしょう。まだまだこれからたくさん作るつもりです。

親友アダム・ボウスドウコスと奇妙な友人ウド・キアー
主役ジノスを演じたアダム・ボウスドウコスさんは長年のご友人だそうですね。彼はギリシャ系移民で監督はトルコ系移民。ギリシャとトルコは歴史的に宿敵ですが、そのことについて語り合ったことはありますか。同じ移民2世として共通点を感じることはあるでしょうか。
母国の軋轢について言葉を交わしたことはないです。2人ともアーティストで、メンタリティが自由。こういうことで友情にひびが入ることはないですね。2人とも両親から話を聞かされて育っていますが、お互いの両親から教えられた軋轢に関することは間違いだと認識しています。アダムは1984年からの友人で、校庭で将来の夢を語り合ったときに、「君が監督で僕が俳優で、一緒に映画を作ろうね」と彼が言ったら周りは笑っていたのですが、ちゃんと夢を形にすることができました。夢は叶うもので、僕たちはそれを分かち合っています。アダムは僕より賢くて強くて、『サムソンとデリラ』の怪力サムソンのような男です。
『悪魔のはらわた』などに出演しているウド・キアーさんを起用されたのは?
彼は奇妙な友人なんです(笑)。初めて出会ったのはおそらく、『愛より強く』の宣伝でロサンゼルスに行ったときだと思います。俳優として大好きで、特にライナー・ヴェルナー・ファスビンダー監督、そしてラース・フォン・トリアー監督とのコラボレーション作品がとても好きで、元々僕は彼のファンだったんです。会ったときに、人によっては電気が走るようにピンと来る感じがありますけど、彼にもまさにそういうものがありました。いつか何かをやっていただきたいなと思っている中、今回は当て書きではなかったのですが、「悪徳不動産屋ならウド・キアーだ! ほかにはいない」と思ってすぐ電話したら、「いいよ」と言って撮影に参加してくれました。心がとても広い人で、本を2冊プレゼントしてくれました。詩集とクレーンでないと運べないくらい巨大な世界地図。旅が好きだと彼に言ったことはないのですが、人と会話をしなくても相手を理解してしまう力を持っているという特別な人で、たぶん前世は魔法使いかな(笑)。

旅が好き、人間が好き
ヨーロッパの中を移動しながら撮るのが得意な監督だと感じています。ヨーロッパ以外の場所で撮ることは考えていますか。
いま書いている脚本は、世界の半分くらいの場所を舞台に撮影したいと考えたりもしています。旅をするのが大好きで、いろいろなものを見るのも大好き。映画を作ることで、自分の知らないことを理解できる。そのために映画を作っているというところもあるかもしれません。もっといろいろ学びたいし、僕の作品すべてに共通しているものに「自由」があります。人間に共通しているもの、異なっているものに興味があり、映画作りが僕にその手立てを与えてくれているんだと思います。もし映画を作っていなければ、人類学者か、旅行会社の社員になっていたかもしれません。
監督の作品は、音楽を聴くだけで世界を旅している感じがします。今回の使用楽曲について心掛けた点は?
この作品は、僕のかつてのライフスタイルについて描いたパーソナルな映画。12歳くらいからクラブに出入りしていて、夜行性の人たちの音楽やファッションに魅了されていました。音楽は僕にとって重要なものですし、祝福の1つの形としての音楽にも興味があります。ある意味、これはそういうライフスタイルへの決別かもしれません。ターンテーブルを盗むシーンでかかっていたのが、エレクトロニック系の楽曲。リサーチのためにそういう曲がかかっているクラブに行くと、どこでも自分がいちばん年上で、そろそろ止めないといけないのかなと(笑)。いまはクラブじゃなくて家で音楽を聴いています。ライフスタイルを見せるためには音楽が欠かせなかったのですが、僕が好きな音楽ばかりを詰め込んだわけではないです。僕はテクノ以外何でも聴きますが、映画に音楽を付けるときには、そのシーンにぴったりくる曲は何だろう、ストーリーを進めるためにどの楽曲がいちばんいいだろうと、まずは音楽を探します。今回の場合、その答えはアフロアメリカン系、R&Bやソウルでした。なぜかわかりませんが、ハンブルクという街はソウルタウンなんです。ベルリンの壁が壊れるまで、ドイツは文化的に英米の影響がとても強くて。(R&Bに影響された)ビートルズも「スタークラブ」というハンブルクのクラブで有名になりましたし。この街の音を探していたときに、いちばんしっくりきたのが、こういったタイプの音楽だったんです。登場人物には移民系が多いのですが、それぞれに異なるバックグラウンドがあります。ドイツは移民が多い国で、彼らはアフロアメリカンの音楽に共感することができるんです。奴隷や虐げられた人々の音楽であり、マイノリティの音楽であり、ルーツにブルースがある。僕もR&Bやソウルにはすんなりと共感できます。ジェームス・ブラウンやカーティス・メイフィールドが自己防衛のために歌うというのがよくわかります。
この作品は郷土映画であり、故郷ハンブルグへの愛の告白だと書いていますね。ハンブルクの街にとって、ファティ・アキンはどんな存在でしょうか。
息子の1人だと思ってくれているといいですね。街というものは僕には女性に思えるんです。イスタンブールは、ときどき恋愛感情を持つけど、しばらく顔を見たくなくなることもある、好き嫌いが両方ある相手。ハンブルクはどちらかと言えば母に近い存在で、僕を守ってくれて、とてもよくしてくれた場所。サイズもちょうどよくて、隠れようと思えば隠れられるし、バイクで回ることもできる。病院や子供が通う幼稚園、僕が通っていた幼稚園だって、すべてがあります。そんなハンブルクに対して映画を1本作らなければと、何か借りがあるような気がしていました。街育ちということもあるのか、映画の中の街や大都市が大好き。街が1人のキャラクターのように描かれている映画がとても好きなんです。もしかしたらそれは、人間が好きだからなのかもしれません。トルコでの撮影が続いたときは、自分のベッドで寝られない辛さを感じました。5歳の息子と一緒にいたいと思ったし、ハンブルクで撮影したいという気持ちになって。そういったこともあったから、『ソウル・キッチン』はちょうどいいタイミングだったんです。

(※2010年11月19日、東京ドイツ文化センターでの来日ミニ記者会見で収録)
プロフィール
Fatih Akin/1973年、工場労働者の父と教師の母のもとハンブルクに生まれる。俳優を志し、93年から舞台やテレビドラマに出演していたが、在ドイツのトルコ移民役などステレオタイプの役柄ばかりであることに嫌気がさし、ハンブルク造形芸術大学へ進学。95年、監督デビュー作となる短編『SENSIN… YOU’RE THE ONE!』を発表し、ハンブルク国際短編映画祭で観客賞を受賞。初の長編映画『SHORT SHARP SHOCK』(98)はマスコミ・観客双方から熱狂的に受け入れられ、ロカルノ国際映画祭の銅豹賞、アドルフ・グリメ賞、バヴァリア映画賞など9つの賞を獲得した。ユーモアあふれるロードムービー『太陽に恋して』(00)、ドキュメンタリー『WIR HABEN VERGESSSEN ZURUCKZUKEHREN』(00)、『SOLINO』(02)を発表した後、偽装結婚から生まれる愛を情熱的に描いた『愛より強く』で、04年ベルリン国際映画祭金熊賞(グランプリ)を始め、04年ヨーロッパ映画賞最優秀作品賞など数々の賞に輝き、一躍その名を世界に轟かせた。長編6作目の『クロッシング・ザ・ブリッジ~サウンド・オブ・イスタンブール~』(05)では、トルコ版『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』とも言うべき音楽ドキュメンタリーに挑み、高い評価を得た。『そして、私たちは愛に帰る』では、07年のカンヌ国際映画祭で最優秀脚本賞と全キリスト協会賞を受賞。そして、最新作『ソウル・キッチン』で、09年ヴェネツィア国際映画祭審査員特別賞とヤングシネマ賞をダブル受賞し、36歳にして、ベルリン、カンヌ、ヴェネツィアの世界3大映画祭で受賞を果たす。まだ30代にして2作がアカデミー賞外国語映画賞のドイツ代表作に選ばれるなど、その才能が世界中に注目され、2010年に参加したオムニバス映画『ニューヨーク、アイラブユー』は日本でも公開されている。
インフォメーション
『ソウル・キッチン』
2011年1月22日(土)から、シネマライズほかで全国順次ロードショー
配給:ビターズ・エンド
寄稿家プロフィール
ふくしま・まさよ/航空会社勤務の後、『ほぼ日刊イトイ新聞』の『ご近所のOLさんは、先端に腰掛けていた。』コラムを執筆(1998-2008)。桑沢デザイン塾「映画のミクロ、マクロ、ミライ」コーディネーター。産業技術総合研究所のウェブサイトに、IT科学者インタビューシリーズ『よこがお』を連載中。
寄稿家プロフィール
まつまる・あきこ/1996年から2005年までP3 art and environmentに在籍した後、出版社勤務を経てフリーの編集者に。P3在職中にREALTOKYO創設に携わり、副編集長を務める。2014年夏から長岡市在住。