
「造形」の限界
名和:「少年の膜」から派生して、少年像と前述した獣のオブジェを並べた「少年と神獣」という作品を学部の卒業制作で作りました。そのころは「造形すること」を意識していたんですけど、造形物で何かを見せたり、物語を作るということに限界があるというか、何か違うと思い出したんですね。もっと違うところで人の感覚や意識を同期したり、接続したりする入口を作れないか。

1998, water clay, resin, wood, hemp fiber
Courtesy of SCAI THE BATHHOUSE
小崎:なぜ違うと思ったんですか。
名和:「自分」という物語の袋小路に入っていくというか、狭い方向に向かっていると思ったんです。「私」の世界や物語を作りこんで、そこに感情を閉じ込めることに違和感を感じて、自己の意識と他人の意識のギャップの埋め方、自分が見てるものと人が見ているものを同じにする方法がないか、ということを探りたかった。それで、造形の一歩手前で止めるというか、形や表情で何かを伝達するという意味での造形をせずに、素材をそのまま開いて見せること、マテリアルやテクスチャーそのものが既になんらかのムードやメッセージ性を帯びているというような作品を目指すようになりました。
小崎:もの派的ですね。
名和:そうですね。大学1年生のころから、毎年夏に山梨県の白州で開かれていた『アートキャンプ白州』に通ってて、木幡和枝さんや田中泯さんにお世話になりながら、農作業したり、アヒル小屋とか作りながら、もの派の作家さんと飲んだりしてて。だから、もの派の世代からもすごい影響を受けたと思います。大学の彫刻科にも野村仁さんや小清水漸さんがいらしたし。
とにかく、それをやり出して、結局素材だけが独立し出して、そこから「素材を開く」と言うようになりました。素材の持つ物質性や感覚に訴える質感を目の前に開いてみせる。観た瞬間、接続されて、ロックされるような状態。そこからやっと彫刻が始まるというか、観る人の頭の中で彫刻が出来上がっていくような作り方をしていこうと思ったんです。目の前にある形態としての造形物を作りこむという考え方ではなくて、接続した相手の頭の中で立ち上がってくるような彫刻。その考え方だと、彫刻がソリッドな物体であるという前提がまったく必要なくなります。液体も映像もドローイングも全部使えるんですね。方法論として、作るときの意識のポジションとか距離感がそこで完全に変わりました。造形を自分の手で触れてフィニッシュする場合でも、意識が通うのが指先より少し先だったり、内だったりします。それがビーズやプリズムのエフェクトに関係してくるし、手で描くドローイングであってもそうなんです。フィジカルを入れ込めたり、入れ込めなかったりするせめぎ合いを、観る人が共感したり追体験できるように持っていけないかと。
小崎:小谷さんの「痛覚」に対して、名和さんには「ある種の聖性や神聖さを感じさせる」という究極のテーマがあって、そのためにそういう方法を取るということですか。
名和:神聖さですか? うーん、全部ではないですね。もっとからっとしたものも多いですし、感覚やイメージの純度が大事っていう作品もあるし。完全に神聖にするっていうのは難しいと思うんですよ。神聖とかスピリチュアルなものを演出してやってしまうとどこか胡散臭くなってしまうから、結局はシンプルでドライに仕上げることが多いですね。
小崎:なるほど。でも、直接相手に訴えかけるために、あえて間接的な何かを挟み込むっていう発想は面白いですね。小谷さんはそれと逆と捉えていいんですか。
小谷:僕の場合、間接的なもの、直接的なものも複雑に取り込み、手段に多様性があるので、単純に逆で捉えているとは言い切れないですね。あえて、造形化することで他者へ接続できる結果もありますから。
ただ彫刻は、造形化する時点で欲望の達成につながってしまうという問題が常にあると思うんです。完全にコントロールしてしまうことによって、ある欲望の達成につながって、造形物として終わってしまうこともある。それが、日本近代彫刻史の行き詰まりの結果にもなっています。同時に、近代彫刻では本流扱いされなかったストレンジな彫刻が周辺部にあり、近代の達成ともなっている。ここでの達成はまだまだ再評価されるべきものが多く、非常に重要だし、根源が違うフィギュアなどに水面下でトランスフォームして結びついていると思います。造形化ということでは、エロティックな欲望の達成と完成度が純度高く結びつき、2.5D的な解釈を含め、独自ルールのもとに発展していったのがフィギュアですね。そこに村上隆さんの彫刻があるのでは。もはや表も裏もない日本の彫刻史を踏まえれば、すごく正統な系譜の彫刻へのアプローチ方法だと思います。

Odani Motohiko: Hollow: Duplex
2009, FRP, urethane paint, mixed media
c. 204 x 69 x 64 cm (Left), c. 206 x 75 x 63 cm (Right)
Work created with the support of Fondation d'entreprise Hermès
Photo: Kioku Keizo, Photo Courtesy: Mori Art Museum
実体とアルゴリズム
名和:小谷さんのメゾンエルメスでの個展の話に戻りますけど、白い造形で、ソリッドではないけど細いラインの集積で形を作ってたじゃないですか。あれはどっちかっていうと間接的ですよね。2人の少女が空中に浮いている作品も、少女自体はそこにはない。輪郭だけで中身はなく、そこにないものをあるものとして感じさせるという意味では、近いやり方なのかなと思ったんですけど。
小谷:そうですね。僕の場合は、コントロールを掛ける率をある程度自分で変えることがある。それで、エルメスで見せた『Hollow』のシリーズでも「コントロールしてるんじゃないか」って思われがちなんですけれども、実は全然してないんですよ。あんないい加減でランダムにやってることってない。自分で「この形違うな」と思っても、わざとそれを使ったり、これ貼り付けてみようとかしたし。例えば、髪の毛がバッと振り乱れてる写真を撮りたいと思っても、何回やっても自分の思い通りには撮れないでしょ。そういうものと同じで、このシリーズでは思い通りにコントロールしないほうがいい、むしろ皮膚感覚で空間全体の雰囲気をつかむことのほうが重要だと考えたんです。樹脂っていう素材はソリッドな造形物を作るようなイメージがありますが、僕は樹脂を液体に近い存在、メディウムとして捉えてます。そのマテリアル自体をそのまま使ってもいいんじゃないかというふうに考えました。
小崎:『Hollow』シリーズは、小谷さんのもう1つのテーマである彫刻の不自由性、とりわけ重力に対する不自由性に対する1つの回答だったんじゃないんですか。
小谷:重力ってのは彫刻作業では当たり前のことなので、その先が重要だと思います。
不自由性っていうのはあるかもしれません。先ほど言ったように、立体物で何かを作るという行為が、どうしても矛盾してる気がしてならないんですよ。彫刻で存在を作るっていうこと自体腑に落ちない。作れても実体が作れるわけじゃない、実体がない不可能性を明示しつつやってしまおうみたいな考え方に近い。そもそもいまって、実体化されているものがほとんど存在してないじゃないですか。例えばインターネットでもの買ったりとか、情報化されるにつれて、実体はどんどんなくなってきているような気がする。ただ、半面では人間って当然、身体の束縛も受けてるし、そこからは逃れることもできないし。その脳化と身体の間にある揺らぎ合い、それをどう自分の中で解決していくか、いまも考えているんです。
小崎:それは、作品制作をどこで止めるかということに関係していますか。画家は最後にどこに筆を置くのか、彫刻家は形をこれで終わりっていつ決めるのかという問題ですけど。
名和:造形物でフィニッシュの瞬間って、やっぱりありますか?
小谷:フィニッシュの瞬間というよりも、むしろ「まだ動かせるなあ」って思うときはありますよね。「カチ!」って終わってしまったときは、ちょっとやばいって思う。
名和:わかる。
小谷:むしろその一歩手前。まだ動かせるなとか、まだ流動性があるとか、まだ可塑的な状態だな、とか。ここから手を加えたら、もちろんもうひとつ違う風景が見えるかもしれないけれども、それをやってしまうと違うところに行ってしまうんじゃないかっていう危険性はすごく感じるときがありますね。
名和:やっぱり造形としてのフィニッシュって、感覚としてあると思うんですよ。日本の美大の彫刻科や造形科の教育の仕方って、基礎から習っていくとそういう教え方が多いんですけど、結局「これが彫刻、造形のフィニッシュだ」ってなってる時点で、もうカタいと思うんですね。いまは、形が生まれてくるプログラムだとか、アルゴリズムだとか、造形の裏にある何かがたまたまこういう形になりましたっていうことのほうが主流になっていて、「これが唯一の、聖なる一回性の彫刻」という作り方をする人は減ってきているんじゃないかと思うんです。
小谷:裏を返せばプログラムとかは現代メディアとの親和性が高いとも言えるし、「聖なる」という態度は別にして、「一回性」が上手く起動すれば、強い体験を引き起こす可能性もあり、今後カウンターになるとも考えられる。
小崎:さっき名和さんが言っていた「共感」のための作品作りという話は、「フィニッシュしない」ということとつながるんですか。
名和:完成形をイメージさせる、あるいは無数の完成形が想定できる、という段階で留めることがそれに当たると思います。「感覚の場」への接続度合いとか、質感やイメージの純度というのもそこに含まれる問題です。
小崎:背後にあるアルゴリズムを感じさせるとか?
名和:パッと見た時に造形を愛でるだけのものなのか、そうじゃないのかという反応、見方の違いはありますよね。形態の読み方や見え方の順番、コンテクストの絶妙な外し方も大事だし、どこにどのような入り口を設けるのかっていうことになりますけど。

フィギュアを作る? 作らない?
名和:小谷さんと似た部分もあるし、全然違う立場でやってる部分もあると思うんですよ。フィギュア、人の姿っていうのを小谷さんは結構使うじゃないですか。僕はできるだけ意識して排除するんです。そこが違うなと思う。
小谷:何か理由があるの?
名和:それは僕、こだわってるんです。たぶんトラウマもあって。ロンドンに留学していたときに、さっき話した水粘土で少年像を作って、樹脂をかぶせるっていう手法が気に入っていて。留学先のRCAでも、上半身のトルソーを作って、それに樹脂をかぶせて磨いた作品を展示したんです。そしたら彫刻のリー先生っていう人に「何でわざわざフィギュアを作るのか? 人に何かを伝えるのに、必ずしも人の姿を作る必要はないんじゃないか」みたいなことを言われて。「この像が感じてることを直接相手に伝えたらいいじゃないか」と。そこからフィギュアを持ち出さずに、「観に来る人がフィギュア」という状態にできないかと思い出したんです。だけど、彫刻史の中で人物像ってすごく重要じゃないですか。古代美術からずっとあって、そのときの人間の見方とか世界観や価値観が全部含まれてるから、いつかフィギュアを作ってみたいとは思うんですけど。
小谷:実は僕も、芸大時代からしばらくの間、「絶対フィギュアを作らない」と決めていたんですよ。そこに行き詰まりをずっと感じていて。彫刻で作れるものの究極は「人形(ひとがた)」であって、極端なことを言えば「彫刻って何だ」って言われたら「人を現すもの」としか答えようがないと思ってた。だから初期の作品には、人体は抜けてるはずなんです。ドレスを作ったとしても、その中に体はない。フィギュアを作ってしまうと、「何かこれ違う」みたいな感じがどこかに残ることもある。だからいまでも、人体を作るときにはいろいろ考えてしまう。けど、コンテクスト上、作らざるを得ないようなときが出てくるんです(笑)。
ただ、名和君の作品のビーズはフィギュラティブなるもの、具象彫刻ではないのかとも思いますね。あれは具象的な何かを支持体にしなければ成立しないシリーズでしょう。表面上はビーズで覆われているけれど、視覚的な原理を踏まえても具象彫刻の見方ではないのかな。仮に抽象的な何かを支持体にしていたら、別の結果を導くんじゃないでしょうか。
![Nawa Kohei: PixCell[Deer] | REALTOKYO](/docs/files/image/interview026_04.jpg)
2008, mixed media
h.99.9 x w.97.1 x d.54.45 cm
photo by Ikeda Masanori
名和:ビーズ、プリズムというシリーズはものの見え方、捉え方を現代的なビジョンとして提示したものです。人はものをものとしてだけではなく、イメージや情報として扱う傾向があります。イメージとして共有したり、情報化して固定しようとする。そうすることで流動的で不確かなものが確実に所有できたような気になるんですね。だから、目の前のものや頭の中に浮かんだものを絵にしたり、記号化したり、言語化する。例えば、現実にあるものをその姿のまま固定する、という意味では写真というフォーマットも剥製というフォーマットも質は違えど似ていると思うんです。インターネットに漂うイメージもそう。それらは誰かがどこかでフォーマット化してアップロードされたもの。それをそのまま彫刻にしたかったんです。具象イメージの固定の仕方、という意味で言うと、デッサンや写真に変わる新しい固定(あるいは保存)の仕方とも言えると思います。写真の場合は、オブジェ→レンズ→フィルム→印画紙→目という順番でイメージが伝達しますが、ビーズやプリズムは、オブジェ→レンズ→目となり、そこにあるけどそこにないというジレンマ、その距離感やズレがいまのリアリティなのかなと思うんです。
だから、具象と言えば具象。世界の表皮を選択し続けるメディウムとしての「セル」を主ととると、何がモチーフになっても抽象であり続けると思います。
小崎:小谷さんが2009年の山本現代での個展『SP4 "the specter" in modern sculpture』で発表した騎馬像は、プレスリリースによれば「『人の脳のなかに存在するゾンビ』を彫刻化させるというコンセプトのもとに制作」したということでしたが、「脳のなかに存在」という点ではいまの話につながりそうですね。一方、先ほどの『Phantom-Limb』の話で言えば、ダ・ヴィンチ以来の解剖図の系譜に連なる作品でもあるのでは?
小谷:あのときはどちらかというと、復元模型とか仏像彫刻などの保存修復技術が先端的メディアと関係している現状や歴史的な考察を踏まえても、ああいう作品を作ることは避けては通れないかも、と思っていたんですよ。仏像の表面が剥落していくのを見て、あれが仏像だと思っている人がいますが、考えてみたら経年劣化してぼろぼろじゃないですか。でも、あれを保存修復で直す作業を見ていると、再生されたものとして見えてくる。新しいものじゃなくて、常に数百年前の古いものをもう1回ナチュラルに再生して、というサイクルを繰り返し見ていると「これ、ゾンビ作ってるみたいだなあ」という感じがしてきて。極端なことを言えば、仏像自体がもうゾンビになっていくっていう考え方もできるんじゃないかなって思って。また「降霊術的」な復元や模刻を行う保存を「ゾンビ」というフレーズで括った仮説を立てれば、日本近代彫刻をも透視できるのでは、と考えたことがきっかけです。
小崎:無茶苦茶なこと言いますね。会場に仏教関係者がいないことを祈ります(笑)。

Odani Motohiko: SP4: The Specter - What wanders around in every mind
2009, FRP, cloth, horsehair, et al.
230 x 235 x 105 cm
Photo: Kioku Keizo, Photo Courtesy: Mori Art Museum
名和:保存修復をどうやるかという議論は、まだ答は出ていないですよね。保存の仕方って時代ごとに変えてるから、結構めちゃめちゃな手術をされててつぎはぎだらけだし、結局手を一切加えないというのが究極の答だったりする。無酸素にして、光をまったく当てないでおくのがいちばん保存できるし、鑑賞するために、人間の都合のいいようにいじってきたという歴史もあるし。どんどん議論されて、毎回処置が変わっていったら、本当にゾンビ状態になっていくんじゃないかって思いますね。
小谷:修復は知ると驚くこともありますね。色については、アクリル絵具で修正することもある。「アクリル絵具? 岩絵具使わないの?」と思うじゃないですか。けど、そうしないと何時代に直したのかわからなくなるからアクリル絵具を使うって言うんですけど、そういう「最善の処置」って医療的な感じの印象も受けますね。
小崎:この間、MIHO MUSEUMに中世の焼き物展を観に行ったんですが、割れた壺の修復の仕方がめちゃくちゃで、接着剤がはみ出てたりして「子供がやったの?」っていうようなひどさでした。ただ、それはおそらく修復の時期に問題があって、美術品ではなくて考古学的な博物館の発想だったんでしょうね。
名和:仏像ももともとはやはり美術じゃなくて、仏教の布教のために作られてきたし、方法論として全然発想が違うんですよね。それをいまの博物館や美術館で見せるために直すっていうところで違和感が出るのはしょうがないかな、と思う。本当はもう、朽ちていくのでもいいのかな、とも思いますけど。
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プロフィール
おだに・もとひこ
1972年、京都府生まれ。東京藝術大学大学院美術研究科修士課程彫刻専攻修了。東京芸術大学先端芸術表現科准教授。個展に『Phantom-Limb』(P-HOUSE、東京、1997)、『Modification』(KPOキリンプラザ大阪、2004)、『SP2 "New Born"』(山本現代、東京、07)、『小谷元彦/Hollow』(メゾンエルメス、09-10)など。リヨン現代美術ビエンナーレ(00)、イスタンブール・ビエンナーレ(01)、光州ビエンナーレ(02)など、参加国際展も多数。03年には、日本代表作家のひとりとしてヴェネツィア・ビエンナーレに参加した。『小谷元彦展 幽体の知覚』は、2010年11月27日から11年2月27日まで、東京の森美術館で開催。
http://www.yamamotogendai.org/japanese/artist/odani.html
http://www.mori.art.museum/contents/phantom_limb/
なわ・こうへい
1975年、大阪府生まれ。京都市立芸術大学大学院美術研究科博士(後期)課程彫刻専攻修了。京都造形芸術大学准教授。98年に英国王立美術院(RCA)に交換留学。キリンアートアワード2003にて奨励賞受賞。個展に『GUSH』(SCAI THE BATHHOUSE、2006)、『AIR』(ノマル・プロジェクトスペース、大阪、06)、『L_B_S』(メゾンエルメス、東京、09)など。第3回バレンシア・ビエンナーレ(05)など国際展への参加多数。第14回『アジアン・アート・ビエンナーレ・バングラデシュ』(10)では最優秀賞を受賞した。2011年6月に東京都現代美術館で個展を開催する。
寄稿家プロフィール
おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学客員教授も務める。趣味は料理。
寄稿家プロフィール
ごとう・しげお/1954年、大阪生まれ。編集者、クリエイティブ・ディレクター、京都造形芸術大学教授。広告制作・企画・商品開発・web 開発・展覧会企画など、ジャンルを超えて幅広く活動し、"独特編集"をモットーに、坂本龍一、篠山紀信、蜷川実花らのアートブック、写真集の編集などを数多く制作。また、インタビュアー・ライターとして『high fashion』『エスクァイア日本版』『InterCommunication』などで、数々のアーティストへのインタビューを手がける。東京・恵比寿の写真とグラフィック専門のギャラリー G/Pディレクター。2010年3月、3331 Arts Chiyodaに新しいスペースg³/(トリプルジー)を開設。編集学校「superschool」とコンテンポラリーアートを中心としたギャラリーをスタートさせる。