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Interview

023:加藤直輝さん(『アブラクサスの祭』監督)
聞き手:福嶋真砂代
Date: December 22, 2010
加藤直輝さん(『アブラクサスの祭』監督) | REALTOKYO

「なにかがシンクロするようじゃなきゃライブなんてやっても意味がない」。主人公浄念のセリフがそのまま現実になるように、様々な“シンクロ”に震撼しながら映画が出来ていく。その過程は並大抵の道のりではなかったはず。藝大大学院時代のどこか飄々とした感じを残す若い加藤直輝監督は「内心はまな板の鯉」と言いつつ、プロのスタッフに囲まれ、初めての長編作品を作り上げた自信が垣間見える。以前インタビューをしたときより、さらなる熱い映画への“熱”を感じながら、原作から啓示のようなひとつのイメージを受け、信念を持って完成させた会心作について話を聞いた。

学生時代と比べて急に大所帯での撮影になりましたが、心境はどうでしたか。

 

実は内心「まな板の鯉」という心境でした……けど、周りのひとに聞くと「マイペースだね」って(笑)。でもまあ、如何ともしがたいので、自分のやり方で、半ば開き直ってやってました。

 

では、あまりやり方は変えないでいままで通りに?

 

僕はそれで通しましたけど、スタッフはやっぱり大変だったと思います。

 

どこらへんが大変でした? コミュニケーション?

 

結局はそこに行き着くんですけどね。それとは別に、これは学生のときから変わってないんですけど、僕自身この映画がどうなっていくのか、どうあるべきかというのが、撮りながらじゃないと見つかっていかないというタイプで。普通だったら監督が「ここはこうなんだ」とビシッと言って進んでいくんでしょうけど、僕は、今回もそうですが、探り探りやっていくので、プロデューサーもスタッフも俳優も、「監督はこういう人なんだ」って、途中から諦めてやってくれたんです。現場もツライ思い出しかないんですけど、出来たものはすごく気に入ってるというか、作ってよかったなと思います。

 

加藤直輝『アブラクサスの祭』 | REALTOKYO
(c)『アブラクサスの祭』パートナーズ

“浄念”はスネオへアーさんしか考えられない

 

アブラクサスの祭』の難しさは、心象風景を映像化することなのではと思いました。例えば海でエレキギターを弾くシーンや、何枚もの鏡像の自分と向き合うという抽象的なシーンも興味深い。鏡のシーンは原作にもありますね。

 

それこそ海のシーンも鏡のシーンも、現場は大変でした。鏡のシーンはCGなど一切使わずに、全部アナログ的に鏡を使って撮りました。あれだけ鏡像が出るとスタッフもわけがわからなくなってきて(笑)。ほんとに微妙な角度と位置で全然(映像が)変わっちゃうので、1カット撮るのに3時間くらいかかりました。あのシーンを撮って帰ってくると、みんななんだか“鏡の国のワンダーランド”に行ってたみたいにわけがわからなくなったり。

 

でも監督は、もちろんすべてをわかってないといけないですね。

 

ここは学生のときといちばん違うなと感じたシーンでもあったんですけど、監督が自分の手で何をする必要もないんですね。カメラマンだったり、美術さんだったり、全部スタッフがやってくれましたから。そういう意味で、技術的なこと、もちろん演出に関わること、具体的なカット割り、カメラポジション、セリフの抑揚だったり、とりあえず、みんなの意見を一度聞いてから、僕は選んでいきました。逆に言うと、それだけつっこみも学生のときより厳しくなるということなんですけど(笑)。本当にガチンコの方たちと仕事ができて、すごくいいチームだったと思います。

 

スネオヘアーさんをキャスティングされたということが、この作品の本当に大きな“幹”になったと思いますが、いま原作を読んでも“浄念さん”はスネオさんしか考えられないくらいぴったりでした。

 

実は原作の浄念さんにはモデル的な人がいるそうなんですが、作者の玄侑さん自身も「浄念はスネオへアーさん抜きでは考えられない」っておっしゃってて。映画の準備で脚本書いたり、キャスティングしてる段階では、誰が思い浮かんでも、役者によってまったく違う映画になることがわかってたので、最終的にスネオへアーさんになって、この人以上の“浄念”は本当にいないと感じました。

 

原作にもある印象的なセリフですが「何かがシンクロしてくるようじゃなきゃ…」そのものみたいですね、スネオへアーさんとの出逢いは。ほかにもシンクロを感じたことありますか。

 

「ちょうど住職さんが亡くなって空いてるお寺があるよ」と玄侑さんに紹介されたロケ地のお寺との出逢いも、ナム(犬)も、子役の山口拓くんも、ほっしゃん。も、みんなそうだと思います。あとライブメンバーも…。

 

加藤直輝『アブラクサスの祭』 | REALTOKYO
(c)『アブラクサスの祭』パートナーズ

最初に浮かんだのは海ではなくて、恐山だった…。

 

そうですね、ライブシーン震えました。バンドメンバーは、スネオヘアーさんのいつものメンバーですか。

 

冒頭に出てくるバンドは普段のスネオさんのバンドメンバーの方々ですけど、お寺のライブシーンのときは全然別です。スネオさんと一緒に仕事したことがあるのは、ギターの會田(茂一)さんぐらいで、ドラムの小松(正宏)さん、ベースの中尾(憲太郎)さんは初めて一緒にやるって言ってくれて。

 

誰が声をかけたんですか。加藤さん?

 

僕が希望を出して、スネオさんのやりやすい人と、僕が見てみたい人というので。この映画じゃなかったら絶対ないだろうという組み合せです。もともとそれを見たかったんです。

 

加藤さんの大好きなミュージシャンが一緒に演奏するという夢が叶った!

 

僕が高校生くらいのときハマってた世代のバンドで、いまも続けてる方々なんですけど、実際、今年の夏、『ROCK IN JAPAN FES.2010』にアブラクサスのバンドで出演したときもすごく話題になりました。「なんでこの人たちが一緒にやるの!?」って。

 

加藤さんも音楽をやるんですか。

 

自分ではまったくやりません(笑)。

 

でもこの『アブラクサスの祭』の原作に出逢って、心に引っかかって、映画にしたいと思った理由って、やはり音楽? それともほかに何か?

 

あー、これ、もう脚本書いてるときからいつも考えてるんですけど、いまだに…(笑)。文庫本を買ったその日の内に読み終わって、読んでる内からなんとなく、映画にしたいというのはありました。そのときに実は浮かんできたシーンがあって、それは海でギターを弾いてるシーンなんですけど、そういうイメージが原作を読んでるときに勝手に頭の中に浮かんできて、それに引きずられるように、映画にしたい、映画にするにはどうしよう…って。

 

しかも小説には無いシーンですね。

 

初めてだったんです。小説とかを読んで映画にしたいと思ったのは。不思議ですね。でも本当は最初は海でもなくて、恐山だったんです。恐山でエレキギターをガーって弾いて叫んでるお坊さんの画が頭の中に住み着いちゃって。いま質問してもらって、ああ、そういうことかなって思ったんですけど、あの原作に書いてある浄念の内面というか、彼の抱える「ノイズ」というものと向き合う生き方というのは、彼は自分で音楽のライブをやることで出口を見つけるんですけど、僕自身は音楽を聴くだけですけど、それはすごく僕もよくわかることで、そういう根っこのところで僕もまさにシンクロできたんじゃないかなって。

 

スネオへアーさんが出たことで音楽の面もしっかり背負ってくれて、大友良英さんの音楽と融合して、映画と音楽が乖離していないのがうれしいです。

 

すごくうれしい感想ですね。映画の中で浄念が歌う曲は、普段のスネオヘアーの曲とはまた違うものだし、逆に映画の中の浄念がスネオヘアーをやってもダメなわけで、そういう意味では本当に浄念としてやってくれたし、劇伴の大友さんも編集の初めから具体的に音楽作りを始めてくれたんですけど、満足いくものにしてくれました。

最終的に尺が決まって、オールラッシュという整音前の映像をスタッフと初めて見たときに、全体がけっこうゆったりしてるリズムなので「大丈夫か」という心配の声もあったりして。おもしろかったのが、前半浄念が高校から帰ってきて、ナム(犬)と向き合って、玄宗(小林薫)さんが来て話すというシーンで、あそこはけっこう長い長回しのワンカットでずっと話してるんですが、音が付く前の段階で「長いから途中で切れ」という意見もあって、僕自身もそれは当然と思ったんですが、でも「音が付けば絶対大丈夫」と自信もあって。実際、後で音が付いた映像を見た人が「あれ途中で切ったよね」と言ったんですけど…。

 

「切ってないよ」って…(笑)。

 

はい。体感時間が全然違いますよね。

 

加藤直輝『アブラクサスの祭』 | REALTOKYO
(c)『アブラクサスの祭』パートナーズ

この映画には「ないがまま」というちょっと耳慣れない言葉が出てくるんですが、普段よく聞くのは「あるがまま」というほうですよね。

 

そうなんです。原作の中で玄侑さんが作った言葉でもあるんですが、その言葉を体感しに映画を見ていただけるとうれしいです。ちょっとだけ明かすと。もともと仏教では、自ずからあるものを「自然」と呼んでたんですが、それは、自分ではコントロールできないもの、つまり、確固とした自己が最初にあってそれが崩れて病気になったりするというのではなく、そんな確固とした自己なんて無いという、それが「ないがまま」ということなんです。

 

そう考えると、ちょっと生きるのが楽になるという気がしてきます。

 

映画の冒頭で「人にはいろんな役目がありまして…」と浄念が言うんですけど、ほんとにその通りなんですよね。仕事場で、家庭で、その場その場でいろんな役をして生きてるのが人間で、「あるべき自分」なんてもともと無いんじゃないか。僕もそういう考え方とかセリフに救われたし、そこに共感してますし、何か観る人に響くものがあるはずだと信じています。

 

プロフィール

かとう・なおき/1980年東京都生まれ。立教大学文学部フランス文学科卒業、05年に東京藝術大学大学院映像研究科の監督領域第1期生(6名)となり黒沢清、北野武らに学ぶ。修了作である『A Bao A Qu』(07)は、第12回釜山国際映画祭のコンペ部門“New Currents”に出品されたのを始め、ドイツやオーストラリアなど世界各国の映画祭で上映された。

インフォメーション

アブラクサスの祭

10月9日(土)より福島県先行ロードショー

12月25日(土)からテアトル新宿ほかで全国順次ロードショー

配給:ビターズ・エンド

公式サイト:http://www.aburakusasu.com/

寄稿家プロフィール

ふくしま・まさよ/航空会社勤務の後、『ほぼ日刊イトイ新聞』の『ご近所のOLさんは、先端に腰掛けていた。』コラム執筆。桑沢デザイン塾「映画のミクロ、マクロ、ミライ」コーディネーター。産業技術総合研究所IT科学者インタビューシリーズ『よこがお』など。