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Interview

019:ロウ・イエさん(『スプリング・フィーバー』監督)
聞き手:松丸亜希子
Date: November 05, 2010
ロウ・イエさん(『スプリング・フィーバー』監督) | REALTOKYO

2000年に製作した『ふたりの人魚』が、記念すべき第1回のTOKYO FILMeXでグランプリを受賞し、日本でも多くのファンを獲得。しかし2006年、天安門事件に関わる主題を扱った『天安門、恋人たち』によって、中国の政府機関である電影局から5年間の映画製作及び上映の禁止処分を言い渡される。それを待たずに作り上げた『スプリング・フィーバー』は、水に浮かぶ睡蓮のように現代の南京をたゆたう人々のラブストーリー。表現の自由を求める監督の意思表明でもある本作に込めた思いとは? 公開前に来日した監督に聞いた。

 

圧力の中で生きる普通の人々を描く

 

5年間の禁令下で、今回あえて男女の愛情でも友情でもなく、同性愛を扱ったのはなぜでしょう。

 

現在の中国で同性愛の人たちが置かれている状況は、自由だけど目に見えない圧力に直面しているという点では、一般の人たちが置かれている状況と同じだと思っています。中国のマスコミからのインタビューに、今日の中国においては、私たちは同性愛者と同じなのだと応えたこともあるんです。

 

同性愛者が特に差別されているわけでないということですか。

 

やはり差別されたり理解されなかったりというような状況は大いにあるけれど、以前に比べるとものすごく良くなっていると思います。しかし、依然として問題はあり、その状況は異性愛の人であっても同じこと。彼らが直面しているのは日常生活における社会的な差別であり、それは私たちと変わりはないんです。本作では、誰もが社会的な圧力を感じているということ、その中で生きる普通の人々の姿を描きたかったんです。

 

その圧力から脱したいと願う人たちが、自由を求め、今まさに中国の各地で反政府デモを展開していますね。

 

映画の中の人物たちは、それぞれ自分の肩に担えるような重さしか担えない。今の中国の人たちもそれとまったく同じ状況で、担いきれなくなると、ほかの方法でプレッシャーを解放しようとして、あのような行動に出るわけです。個人を尊重し、異なる観点が存在することを許容するような社会であってほしいと思います。民主とか自由とか人権といったものは、中国社会にとって恐れるべきものではない。脅威だと考えるのではなく、それを容認し、友人のように迎えるべきものだと思います。

 

スプリング・フィーバー | REALTOKYO

電影局による5年間の禁令のおかげで

 

主演のチン・ハオさんとチェン・スーチョンさんによれば、「自分のやりたいことをやりぬくために、ほかのことを犠牲にしてもいいという信念を持った監督」とのこと。信頼関係が築かれていたようですね。

 

私は2人がとても好きなんです。現場では彼らの意見をどんどん取り入れ、楽しく撮影が進められました。役者からしか発想できないような考え方や即興の演技を取り入れるのが好きで、なるべく即興でやってみてほしいとお願いしたので、思いもよらないことが毎日のようにありましたよ。のびのびと自由にやってもらって、特に今回は小型のデジタルカメラを使ったので、撮影していること自体を彼らも忘れてしまうような感じで。例えばルオ役のチェン・スーチョンが部屋の中で自転車を漕ぐシーンがありますが、まさかああいう演技をするとは思ってなくて(笑)。まったくカットをかけずに好きなようにやってもらって、おかげでとてもいいシーンが撮れたと思います。あれは彼が演じているルオなのか、それともスーチョン自身なのか、両方がミックスされていて、そういう状況での撮影は、私が最も理想的だと思う状態なんです。撮影後には、2人とすっかりいい友人になりました。

 

デジタルカメラを使ったのは、禁令を受けてゲリラ的に撮影しようという意図があったのでしょうか。

 

以前は35ミリのフィルムで撮っていたので、これがデジタルカメラを使った初作品になりましたが、以前からデジタルで撮ってみたいと思っていたんです。低予算でしたし、脚本のストーリー自体がデジタルカメラにふさわしいものでしたし、ちょうどそういう時期が来たのだと。電影局が5年間の禁令を与えてくれたおかげで、いい機会になりましたよ(笑)。今後どういう機材で撮っていくかは企画によりますね。例えば『天安門、恋人たち』は80年代の物語だったので、35ミリで撮るのがふさわしいと思いましたし、脚本のストーリー次第。次回作はすでにパリで撮り終えていますが、「レッド・ワン」という新しいデジタルカメラを使っています。

 

手持ちカメラのせいか、親密な空気が生まれていました。薄暗い室内と華やかなショーパブなど、映像のコントラストも美しかったです。

 

今回、映像に関して最も気を配ったのは、ドキュメンタリーのような雰囲気を作ることでした。暗いシーン、華やかなシーン、いろいろなシーンで様々な映像が出てきますが、光線もそれぞれのシーンでかなり違います。私たちの日常生活における光がまさにそうなのですから、日常と同じようになるようドキュメンタリータッチの効果を狙っています。通常の映画だと照明の仕込みがたいへんですが、そういう撮り方によって日常の光線の在り方、実際の光の効果を忘れがちになってしまうので、作り物のように見えないように気をつけました。

 

スプリング・フィーバー | REALTOKYO

来年完成予定の新作も花がモチーフに?

 

アッバス・キアロスタミ監督作品も手掛けているペイマン・ヤズダニアンさんの音楽がエキゾチックで、中国のポップスが混ざったサウンドトラックがユニークでした。

 

ペイマンは『天安門、恋人たち』でも音楽を担当してくれたのですが、今回は特別なリクエストを出しました。映画の中にトウ・ウェイという歌手の曲が出てきますが、彼の曲とうまく合わせた作曲をしてほしいと。たくさん使われているポップスのセレクションは私がやり、それを全部聴いてもらって、その雰囲気に合うようなものを作ってもらったんです。作曲家にとっては難しいオーダーだったかなと思います。

 

『スプリング・フィーバー』では、睡蓮の花が象徴的に使われていました。新作『Hua(Flower/仮題)』にも、やっぱり花が出てくるのでしょうか。

 

偶然なのですが、「花」は主人公の名前なんです。中国から渡仏した女子学生がパリの労働者と恋に落ちるというラブストーリーで、彼女の花という名前がとても気に入っています。原作は小説なのですが、原作者の女性作家リウ・ジエが好きな名前なのかも。そんなに珍しい姓ではなくて、『天安門、恋人たち』のカメラマンも花清(ホァ・チン)さんといいます。最近パリで撮り終えたばかりで、全編フランス語という、私にとって初めての外国語映画となります。来年には完成する予定ですが、来年はやっと禁令が解けますし、もう電影局に干渉されないといいなと願っています。

 

スプリング・フィーバー | REALTOKYO

プロフィール

Lou Ye/1965年、劇団員の両親のもと上海に生まれる。1985年、北京電影学院映画学科監督科入学。80年代から90年代初期にかけての上海の満たされない若者たちを撮った卒業製作映画『デッド・エンド 最後の恋人』(94)は、中国の伝統と典型的な中国文化に重きをおいた第5世代の監督たちの作品とは一線を画した作品で、中国映画史上、最年少の作家が集まって製作した点でも話題となり、1996年のマンハイム・ハイデルバーグ映画祭で監督賞受賞。1995年、ほかの第6世代の監督らと共にテレビ映画のプロジェクト「スーパーシティ・プロジェクト」を企画。プロデューサーとして、若手監督に心ゆくまま自分の撮りたい作品を撮るチャンスを与えた。彼自身が手掛けたサイコミステリードラマ『DON'T BE YOUNG』(危情少女)(95)はテレビ用の長編映画だが、ナレーションなしに作られ、その演出は中国のテレビ映画界に衝撃を与えた。1998年、自らの会社ドリーム・ファクトリーを設立。中国初のインディーズ映画製作会社となる。第2作目、上海の通りで密かに撮られた『ふたりの人魚』(00)は中国国内で上映を禁止されながらも、2000年のロッテルダム国際映画祭とTOKYO FILMeXでグランプリを獲得。続く『パープル・バタフライ』ではチャン・ツィイーや仲村トオルらを起用し、カンヌ国際映画祭のコンペティション部門に正式出品された。1989年の天安門事件にまつわる出来事を扱った『天安門、恋人たち』(06)は、2006年のカンヌ国際映画祭で上映された結果、5年間の映画製作・上映禁止処分となる。禁止処分の最中に、中国では未だタブー視されている同性愛を描いた本作『スプリング・フィーバー』は、第62回カンヌ国際映画祭で脚本賞を受賞。現在、パリ郊外を舞台にした新作『Hua(Flower/仮題)』を製作中。プロデューサーは09年カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した『アンプロフェット』のローランヌ・ブラショ、主演に同作品でアラブ青年を演じたタヒール・マサムが起用されている。

インフォメーション

スプリング・フィーバー

11月6日(土)からシネマライズほか全国でロードショー

公式サイト:http://www.uplink.co.jp/springfever/

寄稿家プロフィール

まつまる・あきこ/1996年から2005年までP3 art and environmentに在籍した後、出版社勤務を経てフリーの編集者に。P3在職中にREALTOKYO創設に携わり、副編集長を務める。2014年夏から長岡市在住。