
『六本木クロッシング2010』に出品されたインスタレーション「ベイビー・インサドン」や、様々な形でのコラボレーションを通じて浮かび上がる独自のスタンス。そこから垣間見えるのは「性」や「マイノリティ」といったテーマに自らの身体ごと飛び込むかのようなアーティストの姿勢だ。その創作のコアへと迫るインタビュー後編。
<前編からの続き>

ベイビー・インサドン
ダムタイプでの経験は当然、後に高嶺さんが発表するパフォーマンスなどの作られ方にも影響しているかと思います。それはまた後で聞くとして、次に「ベイビー・インサドン」について伺います。今回の『六本木クロッシング2010』に出品されていますが、最初に発表されたのは2004年の釜山ビエンナーレでした。感動した僕は、その場で高嶺さんに「僕の雑誌に載せさせてもらえないか」と申し込んで快諾していただいた。釜山では背景が真っ赤でしたよね。
釜山のときは、なんと手持ちで搬入したんです。発注したパネルを空港へ向かう途中で受け取ってそのまま釜山へ。パネル自体も森美術館のとは違うもので、釜山バージョンは背景が白。テキストに関しても英語はなしで、日本語とハングルだけ。あの作品は、当時釜山ビエンナーレのコーディネータだったタイラー・ラッセルと一緒に作ったようなものです。「壁の色をどうする?」と聞かれて、ちょっとピンクがかった赤という指定をしたら、最初業者が面倒くさがって「韓国には赤のペンキはない」って言ったという。
あの年の釜山には中村政人さんも参加していて、巨大なテトラポッドのレプリカを出展していました。中村さんが指定していたのは白だったんですが、美術館が手配したおばちゃんが黄色を塗っている。中村さんが「おばちゃん、黄色じゃないよ」と言っても「いやこの色だって言われています」と譲らない。「だって俺がアーティストだから」「知りません」って。で、初日はテトラポッドは黄色でした(笑)。
展覧会初日には信じられないことが起こりますよね。
ともあれ、赤を選んだのは純粋にビジュアル的な理由なんですね。
ビジュアル的な理由です。パネルがちゃんと見えるように。
今回の『六本木クロッシング2010』ではパネルを2段掛けにしていましたね。
2段掛けというのは初めてだった。1段掛けだと壁の長さが足りなくて、追加で壁をリクエストすることもできたけど、基本的に壁を造って廃材を出すのが嫌なんです。歩きながら横にゆっくり読んでいくという肉体的な動きにリンクして内容が進んでいくのがこの作品のポイントなので、2段掛けにして、進んでは戻るという動きが起こったときにどういうふうに感じられるのか、ちょっと心配はあったのですが。
写真やビデオの画面が比較的小さいですね。
写真とパネルの大きさは、単純に作りやすさと、グラフィックとして見やすいサイズということで制作しました。文字サイズを決めるときには、老眼の人にも楽に読めるサイズは何ポイントかを考えて決めた覚えがあります。でも、離れると読みにくい。近づかないと読めないから、おのずと観客の目と作品との距離が近くなります。
その辺を計算しているんですね。非常に面白いと思います。

性的なテーマと共同作業
さっき、ストリーキングの話が出ましたが、高嶺さんのエロスへのこだわりについて伺いたいんですが。
え? そんなこだわりありましたっけ?
全部の作品にではないけれども、例えば、出産直前の奥さんの表情をずっと捉えたビデオ「海へ」がありますよね。あれはエロスとは言わないかもしれませんが、ストレートに「性」や「生」に関わっている。「木村さん」には障碍者である木村さんに高嶺さんが性的介護を行う場面があるし、「ゴッド・ブレス・アメリカ」にもセックスシーンがある。『もっとダーウィン』などの舞台作品にも性的なエピソードが多いように思います。こういうテーマは、どこから来ているのですか。
でも、「性」を中心に据えた作品はほとんどないですよ。「木村さん」くらいかな、言葉としても出てくるのは。
直接そういう作品でなくても、先日大阪で開催された『裸のワークショップ』写真展も関連すると思います。高嶺さんが作品を出しているわけではなく、ワークショップをやり、アーティストではない普通の人にテーマを与えて、写真や映像作品を作ってもらうというものでした。写真展のチラシではOLが普通に自転車に乗っている。展示室に入ると、その女性が同じポーズで自転車に乗っているんですが、洋服を着ていない。ゴヤの「着衣のマハ」「裸のマハ」を連想しました。
あの企画はそもそも、「プライベートとパブリックの境界線上」で何かワークショップができませんかと依頼されたことから始まっています。それで、裸になって屋外で写真を撮ってきて下さい、プライベートとパブリックでこれ以上の課題はありませんと言ってやってみたら、これが非常に面白かったんです。こんなに効率よく場が変わるのかという。裸になって外に出てみるという体験がいかに人を変えるか。それは1度捕まっている僕自身が味わったことですが。これは絶対やるべきだってずっと言っているんですよ。性にまつわる関心は自然と出てくる、しかしこれにしたって、性は目につきやすいけれどもそこで本当に起こっているのは性的なことを超えたものなんです。
性は誰にでも共通するものでありながら、さらに「その先」があると。
作品制作というのは、自分自身の「奥のまた奥」を追求するような作業で、その過程では「性」というフィルターを必ず通過するはずなんです。だから、それは自ずと入ってくる。それを引きずったまま、もうちょっと下に降りていくような……。作品を作るときにはそういう作業を毎回やっていると思うんですよ。
まあ、生き物なので当然かもしれませんね。高嶺さんの作品をずっと観ていると、バタイユの「エロティシズムについては、それが死にまで至る生の称揚だと言うことができる」という有名な言葉を思い出します。見るたびに、それは感じますね。
「ゴッド・ブレス・アメリカ」のときは、意図的に性的なシーンを入れてます。あれには「日常生活を再現する」というミッションがあったので、生活の一部としてのセックスということと、あとアメリカ、ひいては自己批判、赤い部屋の中で目にも止まらず過ぎてゆく日常、という構図の中に、セックスは必然的な要素として最初からありました。
わかりました。ところで、ダムタイプも集団作業だったし、自ら学生を率いて舞台を作ったりもしているし、最近だと大友良英さんと作品を作ったり、ダンサーの寺田みさこさんの舞台美術を担当したり、金森穣さんやオハッド・ナハリンと一緒にやったりもしてますよね。コラボレーションとは、高嶺さんにとってどういうものですか。
聞こえはいいんですけどね。難しいんですよね、コラボレーションって。結局大事なのは、その人と気が合うか合わないかってことじゃないでしょうか。もっと言うと、目的が同じかどうか。
大勢で作る舞台作品の場合、高嶺さんはダムタイプでの共同作業と同じようなメソッドを使っているんですか。
メソッドはあるよなないよなです。あるとすれば、方法がないこと自体が方法かもしれない。集まってきたメンツによって、なんとかシーンになるものを捻り上げてそれを編集するという作り方しかできない。シナリオを書こうとしても書けないし、あらかじめプランニングされたものを作っていく能力がないのかもしれません。美術の場合には、たまにアイデア一発勝負でいけるときもあるんですが、舞台の場合にはアイデアが無数に必要で、それをあらかじめプランできたことは1度もない。

質疑応答
まだまだ聞きたいことはいっぱいあるんですが、せっかくだから、ここからは質疑応答にしたいと思います。どなたかいかがでしょうか。
質問者1:高嶺さんは女性、男性、トランスジェンダーの人といった、性差を意識して作品を作られていますか。私は女性ですが、「こう話すと男の人にはこう取られるから」とか、戦略的に話すことがあるんですね。高嶺さんは作品を通じて他人と接するときに戦略的に対峙されるのか、計算なしなのか、どちらですか。
そういう計算はみんな日常的にやっていることじゃないですか? 女性のほうが計算上手だと思いますけど。
コミュニケーションに関して言うと、「在日の恋人」という作品の一部として提示されていたものに、マンガン記念館の館長を口説く手紙がありますよね。高嶺さんの著書『在日の恋人』に収録されていますが、あれは素晴らしい文章です。相手を立て、礼儀正しく、でも関心を引くためにあの手この手でいろんなことを、しかもやりたいことはきちんと書いている。それは当然、戦略であるわけです。
僕はまったく戦略的なタイプではないと思うけど、戦略は持つべきだし、いい戦略を持つべきなんですよね。物事を上手く進めるにはどうしたらいいかについて考えるのが戦略を立てるということだし。やりたいことがあったら、それを実現するために、いい戦略を立てなければならない。語り口をどうするか、リズムをどうするか、それは必死に細かい調整をやるわけです。僕の場合、それは戦略というよりむしろ内的必然に駆られてやっているわけですが。
質問者2:特に「ベイビー・インサドン」や「木村さん」に関して、在日韓国人・朝鮮人や障碍者の方など、ふだん自分とは違う条件や考え方で生きている「他者」と関わるときの摩擦などをテーマにされているという印象を受けたんですが。
他者は、なるべくいてほしくない。それをどうすればよいかというと、自分も他者になればいいんですよね。自分が自分にとっての他者であるという状況、これは論理的に飛躍しているかもしれないけれど、そういったことを現象として起こせないか。さっきの舞台の作り方にも共通している部分があるかもしれないけれど、自分が自分の中を空っぽにすると、他人が自分の中に入ってきてくれる。イメージとしてはそんな感じです。こっちが主体としてガツンとあって、その主体が別の主体を見ているとかいう論理的な関係ではない。だから「ベイビー・インサドン」なんかを観ても、ちょっと拍子抜けするところがあるかもしれません。
視点をわかりやすくするために、あえて、日本人として彼らがこういう風に見えるんだっていうテキストを入れているところもありますけど、実生活で嫁のアボジ(父)としゃべっているときも、俺は日本人としてこう思うんだ、なんていうことは一切ない。そんなことは信じてないしあり得ない。そんな中で浮かび出てくる現象みたいなことのほうを優先してしまう。それはなんというか癖ですね。あの作品では、テキストを書くのにいちばんエネルギーを使ったんですけど、結婚式を人前に晒すわけですから、親族が観て納得することを最優先に書いています。パーソナルな関係を話にしているから扱えた。それが「在日全般」とかになるとこっちは個人でいれなくなる。「日本人」として発言することは本当に可能なのかなって思うんですよ。それでは何も前に進まない気がする。
「木村さん」の場合もそうで、障碍者全般として語り始めた時点で、もうまったく誠実になれない。そうなると僕は「健常者」ということになってしまうから。あの作品の中では自分が「健常者」だって一言も言ってなくて、自分もむしろ障碍者なのだと思って書いています。
いわゆるマジョリティ対マイノリティって対立は単純かもしれないけれども、でも少なくとも高嶺さんは木村さんの側にいる人ですよね。
そうなりえると思うんですよ。その可能性を作品を通じて示したかった。
高嶺さんの活動全体を考える上で、非常に示唆的なお話を伺えたと思います。長時間おつきあい下さって、どうもありがとうございました。
※このインタビューは2010年7月21日、3331 Arts Chiyodaにおいて、東京アートポイント計画「批評家・レビュワー養成講座『見巧者になるために』」の講義として行われました。
プロフィール
たかみね・ただす/1968年鹿児島県生まれ。1990年代初頭よりパフォーマンス活動を行い、「ダムタイプ」のメンバーとしても活躍。現在はインスタレーションや映像、舞台作品など多彩な活動を展開し、また音楽家や振付家などとのコラボレーションも数多く手がける。2008年には初の著書『在日の恋人』(河出書房新社)を発表した。『反応連鎖ーツナガルシクミ』展(国際芸術センター青森)は9/5で終了したが、このときに制作したツリーハウスは少なくともしばらくは残される予定。金沢21世紀美術館での家と体に関するプロジェクト『Good House, Nice Body 〜いい家、よい体』は2011/3/21まで開催中。あいちトリエンナーレでは10/8から10/17まで、名古屋の小劇場「七ツ寺共同スタジオ」で新作を発表する。横浜美術館での個展は2011/1/21から3/20まで開催される予定。
寄稿家プロフィール
おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。