

様々なジャンルの表現を支える「仕掛人」をゲストとして招き、東京カルチャーシーンの魅力と問題点を探る連続対談『東京の仕掛人たち』全6回シリーズの最終回。ゲストは、音楽レーベルを主宰し、映画、音楽、文学、演劇、ダンスなど、幅広い領域を対象に鮮やかな批評やレビューを執筆し、さらに媒体を編集発行する気鋭の言論人。多岐にわたる活動から、表現活動と言説の実りある関係性について語ってもらった。
がんばって読まないと読めない雑誌
小崎:様々な顔を持つ佐々木さんですが、編集者としては音楽雑誌『ヒアホン』とカルチャー全般を扱う雑誌『エクス・ポ』を発行しています。『エクス・ポ』は老人いじめのように文字が小さく、物理的にも恐ろしい大きさで、厚すぎて持って来られなかった(笑)。ウェブで多くのものが読める時代ですが、あえて作ろうと思ったのはなぜですか。
佐々木:『エクス・ポ』第1期は隔月刊で1年間、計6冊発行しました。表紙になっている封筒の中に1折り16ページの紙が入っていて、16ページとは思えない分量のテキストが、あり得ないくらい小さい級数でぎっしり詰め込まれている雑誌です。第2期はまったく形を変えて新書サイズ、900ページ以上。これ以上厚いと製本の限界を超えます。読みにくいという意見が多々あり、著者をバカにしているのか、読ませる気がないようなレイアウトじゃんと言われます(笑)。
確信犯的にやってることは確かで、僕がしたいのは、要するに読むことに対する抵抗を仕掛けることで、逆に読むことの能動性を起動したいということなんです。かれこれ20年くらいフリーライターとして生活してきて、いろいろな媒体に原稿を書いてきましたが、全体的に、世の流れは読みやすくするという方向になっている。デザインリニューアルがあると文字数が減るというのがパターン。ビジュアルをどーんと使って余白を大きくして、内容的にも取っつきが良く、開口部がいくつもあって、よくわからない人にも興味を持ってもらえるような、いろいろな引きがあるべきだと。そういう考え方は読者のためを思っているようだけど、一方では軽視しているんじゃないか。読むことの欲望とか好奇心を軽んじているから、読みやすくしとけば読むよねというふうになってしまっているんじゃないか。自力で自腹を切って雑誌を作るなら、むしろいろんな次元で読みやすさへの抵抗があるようなもの、がんばって読まないと読めないけど、読んだら面白いというものを作ってみたいと思ったんです。昨今の雑誌文化のありように対する、自分なりの批判というか批評という意識。それが出発点ですが、やってみたらかなりの外圧があった(笑)。
大仰ですが、内田樹さんによればあえて難しく書いているというジャック・ラカンやエマニュエル・レヴィナスを思い出しました。受け身じゃなくて、能動的にとことん取り組むことによって初めて深くわかる言葉がある。『エクス・ポ』はいわばそれを物理的にやってるわけですね。
第1期は連載エッセイやコラムが多かったんですが、第2期はほぼインタビューマガジンなんです。語り言葉で書いてあるから読みやすいんだけど、読むのにけっこう気合いが要る。キャッチフレーズが「読んでも読んでも終わらない」(笑)。単純にこういうトンデモないことが面白いっていう感覚もあるんです。みんなこうなったらヤバいですけど、こういうのもあっていいんじゃない? っていう。

専門家が嫌いでオタクも嫌い
佐々木さんがイメージする『エクス・ポ』の読者像は? 自分のように広く興味を持っている人を相手にしたいのか、どこかに引っかかればいいと思っているのか。
専門家が嫌いでオタクも嫌いなんです。僕もオタクみたいに思われてるかもしれないけど(笑)。僕はいろんなジャンルに関心がありますが、どのジャンルにも自分にとって意味があると思えるもの、面白いと思えるものがあり、そうじゃないものもある。例えば映画が好きという人でも、あらゆる映画を観て面白いと思う人わけじゃないですよね。映画というジャンルの中に、自分が好きだと思えるものが多いということですよね。でも映画が好きと言うことによって、映画以外のジャンルに比べて映画というジャンルが好きなんだよね、という言外の意味が入ってきてしまう。それが好きじゃないんです。
こういう雑誌を作ると、何かに興味を持って手に取っても、それとは違うものが載ってるじゃないですか。ついほかも見て「へー、こんなのあるんだ、面白そう」ってなるといい。イベントなんかでもわざと異ジャンルのものを入れたりして、何かを観たいと思って来た人が、不可避的にほかのものと出会ってしまうことをトラップ的に仕掛けるわけです。刺激されて、その人自身も気付いていなかった好奇心のマップが広がっていくといいなぁと思っています。
非常に共感するところです。『REALTOKYO』は僕の中ではあくまで情報媒体ですが、クロスジャンルを意識しています。佐々木さんの言葉で言うと、1本の串で串刺しにする「貫通」ということになるのかな。一方で「ジャンルの蛸壺化」が言われていて、なかなか難しいという気もしています。
そうですね。例えば『エクス・ポ』に連動させて『エクス・ポ・ナイト』っていうイベントをときどき渋谷でやっていて、トークとライブを合体させてるんです。集客力のあるゲストを招くと、それだけで人がわーっと集まるけど、そういう人たちはその人にしか興味がなかったり、ライブでもお目当てのバンドが終わったら帰っちゃう客はいる。もったいないなと思うんだけど、そういう関心の持ち方をしている人だってお客さんだし、痛し痒しなところがありますが、それが悪いわけじゃないからしょうがない。
そういうことってあらゆる規模で起きていると思うんです。野外フェスが盛り上がって、もうフェスじゃないと人が入らないよと言われていたら、フェスでも入らなくなってきた中でどんどんメジャー化していて、ついにはミスチルとかになっちゃう。そうするとミスチルのファンだけで満員になってしまって、ほかのものが観たい人が来れなくなってしまう。メジャーなものすら蛸壺化しているんです。そういう状況を客観視したうえで、小さなカウンターとしてこういうことをやっているという意識もあります。それによって何かが変わっていくという大それた欲望を持っているわけでも、ここから変えていこうよと希望を語っているわけでもなく、僕は割とリアリストだと思うんだけど、そういうことくらいしかやれないんじゃないのかな、という。
いくつかの大学で授業をしてるんですけど、わけのわからない音楽をばんばん聴かせちゃう。生まれて初めて出会う音楽を拒絶する人もいるけど、面白いと思う人もいて、それが未知との遭遇なんです。受け手側に、なかなか前のめりにならないようなバイアスが働いてるんだったら、そっと後ろに回って背中を押すということをどれくらい繰り返せるか。好奇心や多様なものへの感受性を、大方の人は生まれながらに備えています。それを狭い焦点に収斂させたほうがいいっていうのが資本主義の魔力で、そうじゃないオルタナティブを、ミクロなレベルでもいいから入れていくことを僕はやっているつもりです。
僕も大学で、1回生にダムタイプの『S/N』のビデオを見せてます。反応がいろいろで、面白いですね。
自分の趣味嗜好や価値判断の基準を押し付けるわけじゃなくて、幅を広げ、選択肢を提示するということ。僕はいまでもまだまだどっかに面白いことがあるんじゃないかなと思っているような人間ですが、そういう感覚は、若ければ当然、驚きの可能性もぐっと高いわけじゃないですか。僕らはいろんなものを観たり聴いたりしちゃったから、たいていのものには既視感、既聴感があるけど、若い人のそういうところを掘り起こしていくのはやりがいがある。自分が提示する価値観や考え方は、どっちかっていうと多数決をすると負けるものだと思ってるので、1人ずつ増やすようなことをしたい。すごい結果が得られているわけじゃないけど、まあやれているという感じですね。

人はなぜ芸術を必要とするのか
僕は3331 Arts Chiyodaでの「批評家・レビュワー養成講座」で、「連想ゲーム批評」というのを提案しています。映画の批評に、映画だけじゃなくて音楽の話を持ってくるとか、何かを観て連想した他ジャンルのものを持ってきて、それとつなげて書くという方法です。普通、批評やレビューは、書き手が専門家だからそのジャンルのことだけを書いている場合が多い。佐々木さんの音楽批評には、好奇心が背景にあるからだと思うんだけど、文学や映画の話がよく出てきますね。
専門家嫌いとも関係があると思うんですが、ある閉域で自足している論理や文章、批評みたいなものがあり、それを人は専門的と呼びます。そういうものの中にいいものと悪いものがあるわけですが、それ以外の方法というのもあるはずで、連想というのは面白いなと思います。そこには本当にその人が出るんですよね。その人のセンスも教養も出る。好奇心が広いほうがいい、ものはたくさん知っていたほうがいい、知らないより知っていたほうがいい。その人自身にとって得だよね、人生、楽しいよねっていう気持ちがあるから、そういうことは意識しています。
レビュワー、批評家としての佐々木さんは、映画に始まり、音楽に移行し、いまでは文学、演劇、ダンスに対象を広げていますね。
内輪っぽさと権威性が苦手で、それが強いのが文学と映画だと思います。権威性というのは「この人はとにかくエラい」みたいなものですが、その人に対するアンチみたいなものも含めて、ある回路の中で敵味方含めて内輪ですというような感じが文学と映画はかなり強いと思っていて、どっちで仕事をしていても外様感があるんです。映画から音楽に行ったのは、音楽って、メジャーなものからマイナーなものまであまりにも幅が広いので、権威性や内輪性が成立し難いから。自由な風が吹いてきたという感じでした。
でも、アートについてはあまり書いていない。
演劇とか現代詩とかだと、シーンが小さ過ぎてそういう権威性が成立しない。それはそれで気持ちいいものがあるんです。美術の場合は、権威性はたぶんいまはもうあまり機能してないと思うんだけど、ある種のインナーサークル的な感じはやっぱりすごくある。『ART iT』が紙媒体じゃなくなったいま『美術手帖』しかなくなって、その影響力と寡占状態が続いていますよね。アートにも好きなものはありますが、僕みたいにどんなジャンルでも興味の持つ部分がはっきりしている、全体を論じない、全体を見ることができていないという自己認識を持っている人間は、美術について書くのはけっこう難しいという気がするんですよ。
でも、そろそろやってみるつもりです。人はなぜ芸術を必要とするのか、なぜ芸術があるのかということにすごく興味があって、昨年末から『新潮』で「批評時空間」っていう連載をやってるんですけど、そこで問いたいことは最終的には一種の芸術論なんです。ある種の原理論でも状況論でもあることを書きたい。そして、連載の第5回では美術を扱いたいと思っているんです。ファインアートとそれ以外のアートの関係性とか、僕みたいに外側からしかものを見られない人が見ても、日本の現代美術の世界の中である変質が起きつつある、現実が進んできたものが顕在化してきたということがあるんじゃないか。そういうことについて書いてみたい(佐々木追記:「批評時空間」第五回は事情により別の内容になりました。美術についてはまた機会を改めて書いてみたいと思っています)。
批評と実践の共生関係

東浩紀さんの雑誌『思想地図β』の、東さんと渋谷慶一郎さんとの鼎談で、佐々木さんは「批評したいと思う音楽がないから、あまり書かない」って発言してますね。その前に東さんが「音楽にとって批評は必要か」ではなく「批評にとって音楽は必要か」という問いが立てられるんじゃないかと述べている。これはどうなんでしょう。
そういう美学的なものって、音楽がいちばん端的にそうかもしれないですが、以前、東さんが言っていたことは、音楽には究極的には2つしか受容のベクトルがない。1つは知的な意味でのリファレンス。歴史的な、あるいは参照系の中で、どう機能するか。もう1つは身も蓋もない身体性。メロディアスな音楽だとやっぱアガるよねとか、そういうようなことです。この2つに対して批評的言説、分析はいったい何の意味があるんですかと。彼はそういう観点で音楽批評をしないわけです。僕もその通りだと思うから、その2つじゃない音楽に対する言語のあり方を探って今までやってきたところがある。結果として、ほかのジャンルとの関係性ということになったりしてるのかもしれません。
東さんではない別の批評家が別の媒体で「論証したいことが先にあって、そのためにある言説を捏造することがある」という趣旨のことを言っています。ある持論を主張するために批評対象を利用するというわけですが、これは強引すぎますよね。
個人的でしかない価値判断や自己意識や趣味判断というものを、他者に対して、それがあたかも客観的に存在し得る価値判断であるかのように錯覚させるというのが批評の技術の1つだったりもするわけです。結局は批評家=書き手の自己表現の範疇になってくると思うんですね。僕はそれが好きじゃないというのがまずあるんです。
自分と意見が違う人、自分の好きなものをけなす人に対して僕は超寛容です。それはそれでしょうがないと思ってるし。でも優秀な批評家や物書きは価値観を読者に転移させると思うんですよ。僕は自分の価値観を転移させるという欲望が性格的に希薄なんです。「これいいよ」じゃなくて「ここにこれがあるよ。とりあえず見てみて」って言ってるだけ。いいと思ってくれないかもしれない可能性に対して常におびえているので(笑)、先回りしてそれでもいいんだと思っているというか。多くの人にとって未知なものは、これはすごいよと言いますけど、「オレがすごいと思ってるんだ」って、一応いつもクォーテーションとともに言ってるつもりです。はっきりとした形で価値判断をくだすという立場に追い込まれると、いつもちょっとごまかして逃げるパターンになっているかもしれない。佐々木敦は批評家と名乗ってるけど、批評してないじゃないかとよく言われます(笑)。クリティックというのは何か判断しているはずで、僕は確かにそういう意味でのクリティックはしてないんです。
『夜想』や『Ur』を作った今野裕一さんは、読者像を明確に「作る人」と決めていたそうです。自分の雑誌に登場するアーティストやクリエイターに続く人たちへ向けて作っている。僕が『ART iT』を作ったときはまったく逆で、厳密に鑑賞者と作家は分けられないのですが、観る人に対して作っていたんです。僕自身が観る人だから。
あえてレビューと批評を分けるとしたら、レビューは観る人、聴く人のためにある。批評は作る人のためにある。これも厳密に分けられっこないので図式的な分け方ですが、批評は作った人への叱咤激励で、次の作品が前よりもよくなるために書かれるべきものだと僕は思っています。
その通りだと思います。僕も、ある程度長い文章は批評対象が第一の読者だと思って書いてるところがあるんです。実際には読んでくれなくても。とりわけ音楽をやっている天性のものがあるアーティストは、もちろんいろいろ考えた上でやっているのですが、ほんとにすごいことをやる人は自分が何をやっているか理解していないことがあるんです。すごいことをやれちゃうんだけど、何でやれたかわからないし、それがすごいことなのかどうかも、ときによってはわからない。僕は言葉の専門家なので、そういう人に「あなたのやってることってこういうことなんじゃないですか」という言葉を付与する。それは僕が考えたんじゃなくて、その人が考えたんだけど言語化できていないだけなんです。それを僕が言うことによって「ああ、オレってこう考えてたんだ。ってことは次にこれを作ればいいよね」ということになる。それが批評と実践のいちばん美しい共生関係だと思っていて、僕自身も大切だと思っていることなんです。
一方で、読者にとっても面白いものを書きたい。両方入っててほしいんです。アーティスト信仰というものがやっぱりあって、小崎さんは「自分は観る側の人だから」っておっしゃったけど、僕も同じです。自分では作らない。作る人は別にいて、作る人になりたいともなれるとも思ってない。完全に受け身なんです。ただ、ものすごく強い欲望を持った受け身なんですね。そういう人が考え出すことは、送り手の側にちょっとは寄与することもあるんじゃないか、っていう気持ちがないとやれないから、頭ごなしに作り手がいちばんエラいというのはちょっとね、と思います。自分が作ったものでもないのに、自分も作れるかのようにいい悪いとかこれはこうだよねとか言えるというのが批評家の特性だと思ってるから、「結局作らないとダメだよね」なんて言われると、ドン引きです(笑)。
『ニッポンの思想』は、東浩紀さんを最終的に肯定しているのか否定しているのかわからない、人によって受け取り方が正反対になってしまうという不思議な本なんですが、東さん自身にも、結局オレをほめてんだかけなしてんだかわからないというのがどうやらあったようで、「思想のことを書いたんだから、佐々木さんの思想がどんなものか見せてもらいましょうか」的なことをブログで書かれたんです。その気持ちもわかるけど、それは完全に筋違いだと思います。だったらお前がやってみろだったら、僕は映画も撮らなきゃならない、音楽もやらなきゃならない、小説も書かなきゃならない。でも僕にとって、批評とはそういうもんじゃない。作り手ではありえないということは、自分の中では批評家としての条件だとさえ思っている。そういう意識でやっているんです。

(※2011年2月22日、3331 Arts Chiyodaで開講中の『ARTS FIELD TOKYO』にて収録)
ゲストプロフィール
ささき・あつし/1964年生。批評家。音楽レーベルHEADZを主宰、CD/DVD、雑誌『エクス・ポ(ex-po)』および『ヒアホン(HEAR-PHONE)』を編集発行する傍ら、音楽、映画、小説、舞台表現、美術、哲学、サブカルチャーなど幅広いジャンルで執筆活動を行なう。著書として『即興の解体/懐胎ー演奏と演劇のアポリア』『ニッポンの思想』『文学拡張マニュアル』『批評とは何か?』『絶対安全文芸批評』『ゴダール・レッスンあるいは最後から2番目の映画』『テクノイズ・マテリアリズム』『ex-music』など多数。近刊に『未知との遭遇』『ニッポンの音楽』『90年代論』など。
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寄稿家プロフィール
おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。