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東京の仕掛人たち

第1回:相馬千秋さん(『フェスティバル/トーキョー』プログラム・ディレクター)
聞き手:小崎哲哉
Date: October 23, 2010
相馬千秋さん(『フェスティバル/トーキョー』プログラム・ディレクター) | REALTOKYO
相馬千秋さん

様々なジャンルの表現を支える「仕掛人」をゲストとして招き、東京カルチャーシーンの魅力と問題点を探る連続対談『東京の仕掛人たち』がリスタートした(かつてのタイトルは『TOKYOの仕掛人たち』)。第1回のゲストは、10/30(土)から11/28(日)にかけて開催される『フェスティバル/トーキョー』のプログラム・ディレクター。国内最大にして最先端の、舞台芸術の祭典の舞台裏を語ってもらった。

小崎:欧米のカルチャーフェスティバルや、劇場、美術館などは、比較的若いディレクターが多いですね。でも、日本を含めた非欧米圏、特にアジアでは、年功序列という感覚がまだ残っているのか、依然として年配の方が多い。その中にあって相馬さんは、30代の若さで『フェスティバル/トーキョー』(F/T)のプログラム・ディレクターに就任され、1回目から非常に意欲的なことをやってきています。F/Tをどんな意図で始め、これからどのようなことをやろうとしているかなど、お話ししてもらえればと思います。

 

相馬:よろしくお願いします。F/Tは去年誕生したフェスティバルです。「日本最大の国際舞台芸術祭」と言うとエラそうなんですけど、パフォーミングアーツでは、そんなに大きなフェスティバルはなくてF/Tが最大です。予算規模は3億5千万円で、内2億円が東京都のお金。残りが文化庁の助成とチケット収入です。関連イベントを含めて、だいたい6万人くらいのお客様にご来場いただいています。

 

東京都からのお金が2億円という話ですが、いわゆるオリンピック招致に関連して予算が下りたんですよね。

 

その通りです。この数年、東京都も文化政策を再考し、いままでは美術館や劇場という「箱物」中心だったのを、コンテンツ重視というか、プロジェクト型の活動に重きを置き始めた。そのひとつの大きな流れが「東京文化発信プロジェクト」で、F/Tもその枠組の中で支援されています。

 

東京の仕掛人たち 第1回:相馬千秋さん(『フェスティバル/トーキョー』プログラム・ディレクター) | REALTOKYO

演劇における「リアル」とは?

 

基本方針について聞かせて下さい。F/Tの方向性や特徴を整理すると、第1に「世界の同時代・最先端の作品を時差なく日本やアジアなどに紹介する」。2つ目が「東京・日本・世界の現実を反映した作品を作り手とともに制作・発表する」。3つ目が「ドキュメンタリーの手法を取り入れた、演劇ならではのリアリティやアクチュアリティを探求する」。この3つということでいいんでしょうか。

 

問題意識をプログラムとして立ち上げるに当たっては、「新しい価値を創造する場としてのフェスティバル」ということを意識しています。「新しい価値」というのも漠然とした表現ですが、価値を創るということがアートの本質であり、いままでの価値観を打ち破るような先鋭的なものをプログラムするというのが大きな方針です。

最初の「世界の同時代の最先端」の紹介は「当たり前のことじゃん」と思われるかもしれませんが、これをしっかりやるのは相当たいへんなことです。美術の場合は作品を持ってくれば成立することもあるかもしれませんが、パフォーミングアーツは生ものであり、プロダクションが大きい場合は何十人という人が関わって予算もかかります。それを時差なくやるためには、2つ目の「共同制作」という手法を使う。作品を作る過程にF/T自体がコミットして、お金や人的な貢献を入れて制作するわけです。ロメオ・カステルッチの『神曲』「地獄篇」や、クリストフ・マルターラーの『巨大なるブッツバッハ村』などですね。

3点目は基本方針と言うよりひとつの傾向だと思いますが、演劇の今日的な可能性とは何かと考えるために、あえてドキュメンタリー性を重視した手法を取り入れた作品を多く紹介しようと努めています。ドキュメンタリーやリアルなものを扱うことによって演劇が従来的に持っているはずの虚構性、あるいは逆にリアリティをドキュメンタリーの方向性から問い直す。「同時代の日本、世界の社会の現実を演劇はいかに表象しうるのか」「演劇というメディアを使うことでしか表象できない、描くことができない現実とはいったい何なんだ?」ということが大きなテーマとしてあります。

2009年の春は「あたらしいリアルへ」、秋は「リアルは進化する」というキーワードでテーマをくくりました。今回のF/T10では「演劇を脱ぐ」という挑発的なテーマを出しました。演劇的なものを一度脱していくことによって、演劇の本質を取り戻したいということです。

 

クリストフ・マルターラー『巨大なるブッツバッハ村―ある永続のコロニー』(c) Dorothea Wimmer | REALTOKYO
クリストフ・マルターラー『巨大なるブッツバッハ村―ある永続のコロニー』
(c) Dorothea Wimmer

僕は『REALTOKYO』というウェブサイトをやっているので、ぜひ「リアル」について伺いたい(笑)。相馬さんはなぜ「リアル」というキーワードを思いついて、フェスティバルに導入しようと思ったんですか。

 

私は、ものを考えるときにどうしてもパーソナルな部分に引きつけてしまいます。例えば飴屋法水さんと仕事をしていると、動物的な観点から捉える見方をすることが多くなるとか(笑)。そこで、それぞれの表現者にとってリアルなものは何なのか、それを描く手法を含めて知りたかったということがありますね。演劇に置けるリアリズムって言うと、単純に自然主義的というか、そのまんまを生き写しにしたものを舞台に上げるということになりがちですが、そういうことではもはやない。また、大きなものから小さなものまで、これだけ様々な物語がある中で、自分にとってのリアルという感覚しか信用できないという時代がやってきているのではないか。客観的に、科学的に見てどうということではもうリアリティを得られない。だから、現実以外の「リアルさ」というものを、演劇というメディアを通じて追求していきたいと思ったんです。

 

日本の演劇では、太田省吾さんや平田オリザさん、ある意味ではチェルフィッチュとかも、リアルなものを静かな形で、物語性は希薄だけれどリアリティが感じられるものを作ろうとしています。こうした「静かな演劇」が追求する「リアル」と相馬さんが言う「リアル」は同じものですか。

 

同じだと思います。かっこ付きの、それを知覚する主体にとっての「リアルさ」ということだと思うんです。

 

飴屋法水『わたしのすがた』 (c) Ameya Norimizu | REALTOKYO
飴屋法水『わたしのすがた』 (c) Ameya Norimizu

Port Bやリミニ・プロトコルの「リアル」は、舞台で行われている演劇を街に引きずり出そうというような意図もあって、「静かな演劇」の流れとは全然違いますよね。クリス・コンデックの『デッド・キャット・バウンス』も、ネットを通じてロンドンの株式市場と会場をリンクして、チケット代の一部を使って上演時間内に実際に株の売買をするという作品で、まさしくリアルな体験でした。それが演劇かどうかというのはまた別の議論ですけど。

 

ある現実をそのまま見せる。それって社会科見学と何が違うの? っていう話になりがちですね。例えばリミニ・プロトコルも、虚構性のある旅なんだけど、実際に訪問するところはひたすらリアルなところ。それをあえて演劇と呼ぶかどうかは、結局は作品の枠組の力によるでしょう。古くは寺山修司がそういうことをやっていて、現実に介入する手段としての演劇を標榜していたということがありますが、リミニやPort Bの高山明さんがやろうとしていることも、もちろんその流れの中にあると思います。ただ、介入の仕方がまったく違う。寺山は許可を取らずに勝手にやって騒ぎになりましたが、リミニはもうちょっとエンタテインメント性があるというか、お客さんが楽しめるような物語を作って、現実に演劇に介入させていく。高山さんの場合は観客の体験を軸に、いろんな場所を訪問したり、誰かと話したりする中で、その人の身体感覚の中に何かしら演劇的なものを立ち上がらせるというような仕掛けを作っていますね。

 

F/Tの枠内で上演された作品ではありませんが、「はとバス」を用いたPort Bの『東京/オリンピック』では、数時間のツアーを終えてみると、東京という街の空間的・時間的な歴史の記憶が掘り起こされる。その仕掛けは実によく練られていて、おそらくほかのやり方では体験できないものですよね。戦後史などを知ろうとする場合、本を読んだり、年配の方に話を聞いたり、映画でもいいし、いろんな方法がありますが、それよりもはるかにインパクトのある、ある意味で演劇の極北と言える作品でした。

 

高山さんは、演劇論や演劇史の中で自分が何をやれば演劇の概念を拡張することになるかということに極めて自覚的な方なので、毎回F/Tでも、演劇とは何かという問いを一緒に考えていただいています。

 

高山明『完全避難マニュアル 東京版』 | REALTOKYO
高山明『完全避難マニュアル 東京版』

「劇評コンペ」とジャンルの横断

 

F/Tで素晴らしいことのひとつは、確か第2回から始まった「劇評コンペ」だと思います。一般の観客に個々の作品のレビューを寄せてもらう。優秀作を書いた人には、次回のF/Tのチケットが贈られる。

 

そうですね。ご招待という、お金に換算すると5万円くらいのプレゼントです。

 

舞台芸術に限らず、どのジャンルでも批評が衰退していますよね。何よりメディアが減ってきているから、書こうと思った人がいたとしても、発表する場がなかなかない。そんなこともあり、僕も今年から3331で批評家やレビュワーを育成する講座をやっています。書こうという意欲がある人たちに、なるべく場を与えたい。『REALTOKYO』を使うのはもちろん、いずれはアンソロジーを作りたいとか、いろいろなことを考えているんです。「劇評コンペ」は相馬さんのアイディアなんですか。

 

私がやりたいと言いました。1回目のF/Tが打ち上げ花火的に成功して、そういうときに限ってある種の虚しさが残るわけで、「こんなにやったのにまともな劇評が出ない……」という感じがありました。お金を払ってドキュメント用に批評家に書いてもらうという方法もありますけれど、一方で潜在的に書きたい人はたくさんいるわけで、そういう人たちの文章を公募して、優秀なものに賞を上げようという企画だったんです。字数が3000字から5000字と多かったり、観終わって10日間くらいで締め切りだったりするんで、どれくらい来るかなと思ったんだけど、意外とたくさん来まして、延べ30人くらい。後半になればなるほど、レベルの高い劇評が集まりました。

 

そういう形で観客を巻き込むことは重要ですよね。同時に、「ジャンルの蛸壺」状態から脱却するためには、他ジャンルのファンへの訴求も大切だと思います。カステルッチの『神曲』3部作なども、美術史への引用が多数あって、あれだけ素晴らしい作品でありながら、アート界でカステルッチが話題になることはほとんどないというのが個人的な印象です。「カステルッチの名は聞いたことあるけど観てない」ということが多い。

 

うーん、広報の工夫は当然ですけど、後は作家ですね。例えばやなぎみわさんに演劇を作っていただくとか、逆に演劇の作家に美術作品を作ってもらうという、あからさまなキュレーションをする手もあり得るでしょう。

 

あり得ますね。ただ僕が言うジャンルの横断というのは、作り手のジャンルというよりも観る側のことなんです。2004年にアーティストの小沢剛さんが森美術館で個展をやったとき、同じタイミングで、「日本におけるドイツ年」のキックオフパーティが同じ森タワーの中で開かれました。そこで、ある演劇関係者にばったり会って、「上(森美術館)でやってる小沢展、観た?」と聞いたら、「まだ森美術館に行ったことがないんです」って言われて、ちょっとびっくりして。美術館ができて10ヶ月くらい経っていて、世間ではすでに大きな話題だったわけですよ。その人も興味は持っているんだけど、忙しくて行けないって言う。こういう人たちに、無理矢理にでも来てもらう方法って、なくはないと思うんですが。

 

ただ、特に美術ってアートイベント的なものが乱立しているじゃないですか。やっぱり私たちとしては、F/Tという枠だからこそできることをやりたいんですよ。その問いかけに、いわゆる美術作品を並べることが有効であればそうするでしょうが、いまのところそうしていない。むしろ体験型のインスタレーションとかをやっているということは、そのほうが有効だからだと思うんです。だからジャンルを混交させましょう、音楽プロダクションをいくつか並べて、美術もやって、ちょっと映画的なものもやりましょうというのは当然できるんですけれど、そういう話でもないだろうと。

 

やなぎみわ『カフェ・ロッテンマイヤー』 | REALTOKYO
やなぎみわ『カフェ・ロッテンマイヤー』

それは違うでしょうね。そうではなく、各ジャンルの専門家が最善を尽くし、その上で観客をシェアする方法が、何かあるんじゃないかと思います。広報活動を協力して行うことは最も簡単な方法だろうし、異ジャンルイベントの開催期間を同時期にするだけでも、ずいぶん変わってくると思う。

話は飛ぶようですが、現代アートとは何なのかを考えさせる作品が現代アートであると僕は思っているんです。マルセル・デュシャンが便器にサインした1917年以来、現代美術は「何でもあり」状態になった。何でもありとはどういうことか、それを考えさせるようになったのがデュシャン最大の功績です。同じことはどのジャンルにも言えるわけで、演劇という名のもとにいろんなものがある中で、相馬さんは現代アートが持っている問題意識とまったく同じ、あらゆる現代芸術が持つべき問題意識を持っている。演劇の限界って何だろう、演劇って何だろうって。

 

自分がやっている表現を相対化する視点が持てるかということだと思うんですよ。現代美術もそう。おっしゃったように、現代美術とは何か。演劇とは何か。それを自ら問うことによって、自らの本質を探究していく、そういう相対化する視点を持ち得ないと。アーティストがすべきかということは、また議論が分かれるところであって、自覚的にやっていらっしゃる方もたくさんいますし、F/Tはどちらかというとそういう方のほうが活躍できるようなフィールドだと思いますけれど、一方で我々のようにキュレーションする側がそういう文脈を作っていくことも大事だし、批評家がそういう切り口から生産された様々な作品から文脈を作ることも大事だと思います。

 

(※2010年9月23日、3331 Arts Chiyodaで開講中の『ARTS FIELD TOKYO』にて収録)

 

ゲストプロフィール

そうま・ちあき/1975年生まれ。1998年早稲田大学第一文学部卒業後、フランスのリヨン第二大学院にてアートマネジメントおよび文化政策を専攻。現地のアートセンター等で経験を積んだ後、2002年よりアートネットワーク・ジャパン勤務。F/Tの前身である東京国際芸術祭『中東シリーズ04-07』を始め、国際共同製作による舞台作品や関連プロジェクトを多数企画・制作。06年には横浜市との協働のもとに新しい舞台芸術創造拠点「急な坂スタジオ」を設立、09年までディレクターを務める。07-09年、早稲田大学演劇博物館グローバルCOE客員講師。東京国際芸術祭2008プログラム・ディレクターを経て、フェスティバル/トーキョーのプログラム・ディレクターに就任。

インフォメーション

フェスティバル/トーキョー10

10月30日(土)〜11月28日(日)。東京芸術劇場、にしすがも創造舎などを会場に開催される。

公式サイト:http://festival-tokyo.jp/

寄稿家プロフィール

おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。