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Y⇆T Notes ─ 横浜/東京カルチャーレポート

010:2015年11月
ふかさわ・めぐみ
Date: December 20, 2015

横浜在住の私が見聞きした(ときに食べ飲んだ※)、主なものをピックアップしてコメント。※飲食店に関しては、イベント前後に寄った会場近くのお気に入りの店を紹介しています。

10/31 STAGE:Companhia de dança DEBORAH COLKER "Belle" デボラ・コルカー・カンパニー『ベル』@KAAT 神奈川芸術劇場(横浜・山下町)

本作は、ブニュエルの『昼顔』、そのセヴィリーヌ役を演じたカトリーヌ・ドヌーブにインスパイヤーされ創作されたとのこと。けれど、官能だとか耽美だとかありがちな表層的な記号と戯れてみせるだけでは、他者の享楽に自らを差し出すというあの『昼顔』の強烈で眩むようなファンタスム、人間という症候の根源には、残念ながら到底及ばなかった。

 

ダンスにしても、ポワントのコール・ドで幕を開け、美術や照明はそれなりにスタイリッシュな妖しさをかもしながらも、振り付けは一貫してクラシックの“パ”をはみ出すことは無く、発見や斬新さといったものは皆無。よく言えば、しっかりしたバレエテクニックを保持するダンサーたちの粒がそろっているからこそ成立する作品というわけなのだろうけど、それはとっくにかのジェローム・ロビンスが極めつくしているわけで、その域には届くべくもなかった。

 

ブラジルのコンテンポラリーということで、Grupo Corpo(グルーポ・コルポ)やIsmael Ivo(イズマイル・イヴォ)、ブルーノ・ベルトラオのGrupo de Rua(グルーポ・ヂ・フーア)などに見られるような、欧米のコンテクストからはみ出した目新しいアプローチを期待し過ぎたのかも知れない。ミュージカル『キャバレー』やフィリップ・ジャンティを真似たような演出もどうなんだろう……。

 

Web: Companhia de dança DEBORAH COLKER "Belle"

 

デボラ・コルカー・カンパニー『ベル』 | REALTOKYO

 

10/31 TOWN『Trick on sTreet ~吉田まちじゅうカクテルガーデン~』@吉田町本通り(横浜・関内)

不発だった気分を抱え、ハロウィーンに沸く吉田町へ。伊勢佐木町と野毛に挟まれた、ここ吉田町は、画材屋や写真店、ダンススタジオなどが集まる街として戦後に発展、数年前からは廃業した問屋や倉庫跡などを改装したバーが軒を連ねるようになった、ディープな界隈には珍しくちょっぴりおしゃれなバーストリート。

 

で、夜な夜な出没しちゃっているわけですが、ハロウィーンのこの夜は、メーンストリートを封鎖し、周辺の飲食店38店舗がオリジナルカクテルと和洋折衷の料理を屋台で提供。エスニックありバーベキューあり、ハロウィーン限定のクラフトビールやカクテルなどもあり、その匂いと賑わいに早くも酔っ払い気分。

 

まずはモヒートとガンボ(ニューオリンズ名物のオクラを煮込んだシチューのような料理)をそれぞれの屋台で頼んで、普段は車道になっているところに並べられたテーブルに空席を見つけ、ちょっと一息。さて次は野毛か伊勢佐木町か、どちらへ繰り出そうか……。

 

Web: ヨコハマ関外 吉田町名店街会

 

Web:「吉田まちじゅうカクテルガーデン」路上初開催 野毛ハロウィンと連携(ヨコハマ経済新聞)

 

Trick on sTreet ~吉田まちじゅうカクテルガーデン~ | REALTOKYO

 

11/1 STAGE『人形の家+紙田昇』@中野サンプラザ(東京・中野)

“人形振り”は、古今東西を通じて踊られてきた。日本では、文楽の人形をまねて演じる歌舞伎の演目などがポピュラーだし、西欧においては、『コッペリア』や『ペトルーシュカ』、『くるみ割り人形』なんかをすぐに思い出す。さらには、パントマイムや大道芸なんかでも御馴染みだし、ストリートダンスのポッピングやロボットダンスなんかもこの仲間だ。

 

人形とは文字通り人をかたどったものだが、呪術や祭祀に用いられたのがおそらく最初だろう。それがいつしか愛玩物となり、工芸品や美術品としても創作されるようになった。その上マリオネットや文楽のように、操作することにより外見だけでなく動いたり感情を表したり演技をさせたり。こうなると、人形を家族や友人に見立てて興じる子供でなくとも、血の通った生き物として感情移入が生まれたりもする。私も平田オリザのアンドロイド演劇『さようなら』のアンドロイドに生の儚さを教えられ、不覚にも落涙したことがある。

 

こうした、人を真似たものである人形の動きを、今度は人間が真似返して振り付けに取り入れるという、どこか屈折した作業が人形振りにはある。なぜ、“人形振り”が踊られるのか? 端的には、人形のギクシャクとした動きが、踊りに変化や面白さをもたらすから、といえよう。しかし、ここではあまり詳しく述べる余裕は無いが、人形の持つ一種の“不気味さ”に魅入られて、という根源的な理由があるようにも思われる。アンドロイドやロボットが人間らしくなるにつれ、彼等に対し好感や親近感が高まるが、ある限界を超えると突然嫌悪感をもたれるようになる。これをロボット工学では“不気味の谷現象”と呼ぶという。そうでなくとも、憑依や心霊現象などの材料として、人形は畏怖されてもきた。この人形の有する“不気味さ”は、人間が社会的動物として生まれなおしたときに、とりこぼしたもの(ラカンの精神分析で言うところの“現実界”)を、担わされているところから生じているのではないか。つまり“人形振り”とは、現実界からの回帰という、精神的な症候=享楽を孕んだ行為といえるのかもしれない。

 

さて、「サブカルからハイカルチャーまで、中野の魅力が味わえる大人の文化祭」が開催され、ダンスユニット「人形の家」とダンサー紙田昇による作品が披露された。

 

「人形の家」は、人形振りだけで踊るというユニークなダンスチームで、舞踏家の細田麻央、コーポラルマイムの藍木二郎、ダンスメイカーの紙田昇の3人からなる。今回は、初期作品の「人形の夢と目覚め」が踊られた。舞踏、マイム、ストリートと出自の異なる3人が、人形振りというジャンルの下に、1つの作品を創り出す、その独特の世界観が興味深く、また、その「人形の家」にも参加している紙田昇によるソロダンス『白い顔の男』も披露され、幻想的で異次元な世界に魅了されながら、人形振りに関してあれこれ考えた次第。

 

人形の家+紙田昇 | REALTOKYO

 

11/7 TOWN『関内外OPEN!7』(横浜・関内駅周辺)

もうずいぶん前のこと、パリに遊びに行っていたとき、たまたま“Génie de la Bastille(ジェニードラバスティーユ)”というイベントに遭遇した。確か、やはり10月か11月の4、5日間開かれていたと記憶する。この日本語訳すると「バスティーユの天才」という催しは、パリは11区のバスティーユ広場の周辺地区に居を構えるアーティストたちのアトリエや工房、自宅を一般の人々に開放し、人々と芸術が出会い、地域社会と交わるというもの。

 

バスティーユ地区はもともと、家具の町工場や職人が多い庶民的な街だったのが、1989年、新オペラ座が完成してから、周辺は一躍文化的なカルティエに変貌。カフェやレストランが続々出来、町工場跡などにアーティストたちがこぞって移り住みアトリエを構えるようになった。ニューヨークのソーホーのようなところ。

 

ジェニードラバスティーユの期間、パリジャンも観光客も、マップ片手にバスティーユの街を徘徊。各アトリエでは、小展示などが行われ、普段は見ることのできない創作風景を見たり、もし気に入った作品があれば、直接作家と交渉して購入したりも出来る。とても楽しくて、「こういうの日本でもあればいいのに……」などと思ったことを覚えている。

 

それからしばらくして、日本各地でも似たようなイベントが開催されるようになった。そしてこの『関内外OPEN』も、そんなひとつ。アーツコミッション・ヨコハマ(ACY)がとりまとめ、横浜は関内周辺のアトリエやアートや建築関連のオフィスを開放、普段は入れない「ものづくり」の創作現場を訪ね、作品を見たり、ワークショップやトークイベントに参加したりして楽しむ、体験型のイベント。

 

例えば、元ストリップ小屋の「黄金劇場」をセルフリノベーションしたスタジオ「旧劇場」。現在スタジオを利用しているアーティストや大工、建築家らが、劇場時代の建物の痕跡、セルフリノベーションしたときの話、今のスタジオメンバーの仕事までを、ご案内してくれるツアー。横浜を代表する建築家チーム「みかんぐみ」の代表4名の話が一度に聞けるレアイベント。国内外の公園や広場の設計をしているランドスケープデザイナー・チームstgkによる、オリジナルミニプランターをつくるワークショップなどなど。土日の2日間にわたって、アートに興味のある人も無い人も、大人も子供も楽しめるイベントが開催された。普段入れないところに入れ、アーティストたちの秘密がちょっとだけ覗き見られるって、それだけでなんかワクワクするよね。

 

ところで、テロ以降、本家パリでのこうしたイベントも影響を受けたりしているのだろうか、とても気がかり……。

 

Web: 『関内外OPEN!7』

 

関内外OPEN! 7 | REALTOKYO

 

11/9 STAGE:アジア・トライ・ジャパン2015『回向と花』@シアターX(東京・両国)

インドネシアを拠点に日本、韓国で開催されてきたシアターフェスティバルの10周年記念公演が、5日間をかけてシアターΧ(カイ)にて行われ、日替わりで作品が発表された。

 

私が出かけた9日は、インドネシアの仮面舞踏の至宝・NANI TOPENG LOSARIと故・大野一雄の高弟、日本が誇る舞踏家・秀島実と研究生の中村早紀の舞台。この日のタイトル『回向と花』はもちろん、シアターXが両国回向院に隣接しているところからの洒落だろう。けれど、舞台もタイトルに相応しく鎮魂と妖艶が綯い交ぜになった、魅惑的なものだった。

 

インドネシアというとバリのトランス状態なダンスがすぐに思い浮かぶが、NANIさんの舞踏はトランスとは対極の、抑制されしっかりコントロールされた身体で表現されるもので、片足を蹴上げたり身体を反らしたりのバランスが素晴らしく、その厳しい訓練のほどが偲ばれる。神を祀ったような台を前にしての踊りは、もちろん宗教的な意味合いを帯びたものだろうが、単なる儀礼というよりも芸術としての舞踊の完成度も素晴らしい。

 

ちなみに、手を振り払うような所作など、同じ動作を数回ずつ繰り返すのが随所で見られたが、これは明らかに宗教儀礼からくる身ぶりで、宗教を生み出す人間の心性である神経症的な兆候の名残が垣間見られて面白かった。

 

そして、当コラムの005号(6月)でも紹介したことのある、秀島実と中村早紀の作品。怪人然とした秀島が、マヌカンあるいは彫像と化した中村早紀に忍び寄るような様子は、ドイツ表現主義の映画、はたまたホフマンの『砂男』を思い起こさせた。『砂男』は、人形振りの項でも触れた、バレエ『コッペリア』のもととなった小説で、『コッペリア』が明るく滑稽に翻案されているのに対し、『砂男』は人形に恋した男の狂気を前面に描いていて、かのフロイトは論文「不気味なもの」の中で、去勢不安を表していると分析している。

 

しかし、中村早紀のマヌカンに恋の生命を吹き込もうとしているかのごとく振舞う秀島はここで、『コッペリア』でも『砂男』でもない、“滑稽”と“不気味”のどちらへも傾くことのない難しい綱渡りで、崇高な世界を顕現して見せてくれた。

 

Web: アジア・トライ・ジャパン2015『回向と花』

 

アジア・トライ・ジャパン2015『回向と花』 | REALTOKYO

 

11/13 ART『鈴木信太郎展』@そごう美術館(横浜駅)

鈴木信太郎の絵画は、観るものに染み入るような優しさや安心感を与えてくれる。色彩家(コロリスト)とも称され、補色も同系色もひとつの画面にてんこ盛りに盛り込むのに、ちっともうるさくなく、カラフルなのに騒がしいどころかシックで落着いた印象さえ受ける。

 

そのほのぼのとして、ある意味無邪気で、画題に対しても確信しきった態度は画面にみなぎり、微塵も影など感じさせないかのように見える。だからこそ、鑑賞者の我々も安らぎを得られる。

 

でも、ひとつ、彼の絵の中にも"対象a"(思いっきり簡単に言うと、ラカンの精神分析において、多かれ少なかれ神経症的である我々人間が、その不安感などを紛らわせたり逸らせたりするために、追い続ける対象。たとえばこだわりのコレクションとか、フェティシズムとか、体のクセなどなど)を発見。と大袈裟にいうほどのことではなく、誰でも観れば分かる通り、それは"人形"。なんだか、"人形"が今月のテーマみたいになってしまったけれど、人形というのは愛着の対象として重要かつポピュラーなアイテム。鈴木信太郎作品の中にも八王子に伝わる車人形やフランス人形が数多く登場するし、実物のフランス人形も彼の遺品として本展には展示されていた。

 

ほっこりとする彼の作品の中にも、心の深層の影が潜んでいることを思って改めて見直してみると、彼の描くサーカスも静物も、長閑な郊外の草木たちも、独特の陰影を帯びて、また違った趣を見せてくれたりもする。

 

Web: 『鈴木信太郎展』

 

鈴木信太郎展 | REALTOKYO

 

11/13 TOWN「串焼 立花」(横浜駅)

横浜そごうの近所で寄るとしたら、第一候補はここ「立花」。横浜の喧騒からちょっと離れた倉庫などが立ち並ぶあまり目立たぬところにあるのだけれど、飲兵衛の浜っ子たちには聖地のように知れ渡っている店。満席で入れぬことも珍しくないのだけれど、この日は時間が早めだったせいもあり、カウンターの一角に陣取ることができた。で、迷わず名物の“タンシチュー”!、それと本日のオススメ“ブリ刺”をオーダー。もちろん、どちらも満足!

 

串焼 立花

横浜市神奈川区金港町5-15

 

串焼 立花 | REALTOKYO

 

11/14 CINEMA『恋人たち』@テアトル新宿(東京・新宿)

人は全て、根底に“喪失”を抱えている。オギャーと生まれ母親に抱かれ全能感の中でヌクヌクと生きていたのに、いつのときか冷たい世間へと引き離されるからだ。それでも、何かで折り合いをつけたり、多少の困難(=生き辛さ)もダマシダマシ生きている。

 

ところが、本作で描かれるように、大切な人を理不尽に亡くすとか、さらに大きな喪失や挫折にさらされると、ダマシダマシ抑えていた"喪失"が現実の痛みとなってよみがえる。それは、人という存在が必ず抱えなくてはならない根源の問題にかかっているゆえに、根本的な処方は無く、本人が受け止め引き受ける決意でしか乗越えようがない(でないと、精神を病むことになってしまう)。

 

そのギリギリ感を、無名の役者たちが完璧に表現している(むしろ、役者を目指しギリギリに生きている彼らだからこそなのかもしれない)。下手な手助けなどしようが無い彼等を見守るだけのカメラもいい。救いが無く痛々しい物語を、淡々と抑制された演出で描ききった監督も凄い。

 

Web: 『恋人たち』公式サイト

 

『恋人たち』橋口監督直筆の絵コンテ | REALTOKYO
ロビーに掲出されていた橋口監督直筆の絵コンテ

 

11/20 CINEMA『起終点駅 ターミナル』@ブルク13(横浜・桜木町)

ここにもまた、“喪失”と“排除”という人間の性がよく描かれていて、全編映像が常に何かに閉じ込められているような感じを抱かせる。その象徴が、最初のほうの主人公が駅に降り立つシーン、ホームと列車、架線などに切り取られた狭い空間に主人公が降り立つ。そしてそこは、雪深い最果ての地で、夏場も空が覆い被さるように重い雲が垂れ込めているという、開放感も行き場も無いところ。狭い部屋も凍てつく高波も橋も路地も……。

 

不倫相手を死なせてしまったことで、自責から牢獄のような生活に閉じこもる主人公。そこへ、やはり問題を抱えながらも無邪気に生きる若い女性が現れ出口を見出す、という極めて定型的な筋書きだが、その映像や細かな演出(手の指のひとつの爪だけのマニキュア、料理など)が、絶対的“欠如”を巡る、“人という症候”をよく暴き立てている。

 

本田翼の曖昧な演技は、あまり評判は良くないようだが、閉じこもる主人公に「“他者”を差し向ける女性」と見なせば、 “他者”性をより際立たせるものとして(いっそマレビトとか)納得できるのではないか(本田翼の箸のもち方がどうのといったレビューも散見されるけど、蓮っ葉さを狙ってのこととも取れるし、ドラマを撮らせてそつのない篠原哲雄監督のことだもの、配慮してないことはないでしょ)。

 

Web: 『起終点駅 ターミナル』

 

起終点駅 ターミナル | REALTOKYO

 

11/20 TOWN「缶詰BAR キンコンカン」(横浜・桜木町)

桜木町駅近くにちょっと前にオープンした缶詰BAR。カウンター上の棚には、全国各地の缶詰が並んでいて、好きなものを選んで頼めば、お店の人が皿などに盛り付け、温めたり薬味を足したり食べやすくして提供してくれる。この日は、生ビールにカレイの中骨煮をいただきました。軽く一杯いきたいときに恰好のお店。

 

缶詰BAR キンコンカン

横浜市中区花咲町2-63

 

缶詰BAR キンコンカン | REALTOKYO

 

11/22 ART:鴻池朋子展『根源的暴力』@神奈川県民ホールギャラリー(横浜・山下町)

鴻池はこのタイトル、『根源的暴力』に、直接的には2011年3月11日の震災以降、自然の驚異といった超絶的なる物への認識の問い直しといった意味を込めているのだろう。しかし、本稿をここまで読んでいただいた方には、なんとなく思い至るかもしれないが、相対する自然と同じように、我々の内なる自然にも"喪失"や"欠如"といった取り返しの付かない傷痕(trauma)を残す"根源的暴力"が宿っている。彼女はもちろん、そのことを十分承知した上で、人間という存在のあり方をも射程に収めている。

 

会場のゾーンごとに小タイトルが設けられているが、例えば「名付けようのないものがばらばらと」であったり、「何者かの皮膚」であったり、あるいは「目のない顔 手のない顔」といった、言葉が並び、虫や粘土の塊のような分節化不可能な作品が並べられている。

 

明らかに、象徴化できない(=名付けようのない)剰余物、不気味なものの表象であり、まさに"モノ"そのもの。"根源的暴力"の証を突きつける。しかしそれらはあくまでも、痕としてしか指し示しようのないものであり、当然のことにそれらを名指す言葉を人は持てない。表象できぬものの表象、自然の暴力に晒されることで、露になった自らの内なる暴力の表象という難題を引き受けること、それは、フクシマの二次災害を引き起こした人災、体制の暴力をも告発している。

 

Web: 鴻池朋子展『根源的暴力』

 

鴻池朋子展『根源的暴力』 | REALTOKYO

寄稿家プロフィール

ふかさわ・めぐみ/CMクリエイター、アート映画ディストリビューター、舞台公演企画、雑誌へのコラム執筆、社会学講師等を経歴。その間、子供時代から続く劇場や美術館通いは止んだことが無い。著書『思想としての「無印良品」』千倉書房