
横浜在住の私が見聞きした(ときに食べ飲んだ※)、主なものをピックアップしてコメント。※飲食店に関しては、イベント前後に寄った会場近くのお気に入りの店を紹介しています。
10/3 ART:鈴木愛弓『反転トリップ』@CRISPY EGG Gallery(相模原市・淵野辺)
鈴木愛弓の作品は、未視感への扉を開いてくれる。通いなれた道を気まぐれに、一つ手前の角で折れたりして、別の角度から眺めてみると、見慣れたはずの街がなんだかよそよそしく見えたりする、きっと見知っているはずなのに、初めて見るようなあの感覚への。鈴木愛弓の描く少女に誘われて、その作品世界に踏み込むと、どこか懐かし気だったその街並みや景色は、相貌を突如変え、異次元や未知の物語を紡いでゆく。
鈴木愛弓の作品はまた、既視感への入口でもある。そんなはずは無いのに、前にも一度経験したことがあるかのような、確かとも不確かとも言い切れぬような手触り。鈴木愛弓の描く少女たちはきっと、そんな既視感の源である集合無意識や夢へと延ばされた地下茎から汲み上げられた、反質量の世界を生きている。
今年3月の「東京アートフェア」で、彼女の作品に初めて出合いためらわずに購入を決めて以来(「YT NOTES 002」参照)、その『夜の散歩』の少女と一緒に、帳の中へと散策を幾度となく楽しんできた。
その鈴木愛弓の作品展が、開かれた。都心からちょっと離れた淵野辺という、降りたことは無いはずなのに、見慣れたような駅前の寂れた商店街を少しだけ歩いた先、心細くなるような細い路地(というより、民家の隙間)を抜けた突き当りにある小さな建物にオープンしたギャラリーの杮落とし企画として。その畳敷きの小さな一間のギャラリーも、『反転トリップ』というタイトルも、これ以上ないほど似合っていないか。「いま」、「ここ」を、くるっとパラレルワールドへと反転させてしまう、鏡像のようなその作品たちに。
そして、今回も迷うことなく購入を決めた『ピンホール』と題された一枚の絵。宇宙に浮かぶ少女は、まさに未視感と既視感を浮遊する反質量の世界の住人に違いない。"ピンホール"を潜り抜けた光が結ぶ、逆立したもうひとつの世界へと、またひとつ新しい散歩道を見つけた。

10/3 ART『EKKO BOOK LAUNCH PARTY EKKO "UN DIA / Show me the way to go home"リリースパーティ』@AL(東京・恵比寿)
そしてもうひとり、やはり最近魅入られてしまった作家の作品集出版パーティが、恵比寿のスタジオで、鈴木愛弓の個展初日と偶然にも同じ日にあった。
作家、EKKOの紡ぐ世界は観るものをみな"旅人"にする。寓話に出てくるようなお天道様に見守られて、荒野へ続く一本道。行き着く果てはどこなのか、その孤独の旅を試したことのあるものにしか分からないのだろう。それは、作家と彼女の世界を共有できたものだけが知る、何処にもない独立国に違いない。私もその国へと渡航するためのパスポートを手に入れたくて、その作品を求めてしまった。鈴木愛弓の"散歩"とEKKOの"旅"、今宵はどこへ誘われよう。
EKKO作品集『UN DIA / Show me the way to go home』は、2015年5月にTRAUMARIS|SPACEにて開催した『EKKO UN DIA』展の展示作品を中心に、近年の代表的なペインティング作品を収録したもの(ちなみに我が家収蔵の「Show Me The Way To Go Home-heavy rain」)も載ってます!)。さらにアーティスト伊藤桂司とEKKOのコラボレーションによるコラージュも掲載、『UN DIA』展会期中のイベントに参加した音楽家たちの楽曲を集めたMIX CDも付いています。※下記TRAUMARISのHPから購入できます。

10/9 STAGE:川村美紀子 新作ダンス『まぼろしの夜明け』@シアタートラム(東京・三軒茶屋)
オールスタンディング用に設営されたホール内へと案内されて階段を降りてゆくと、暗闇の中に白く浮かぶ、中央に組まれた舞台が目に入ってくる。取り囲んだ観客の胸の高さぐらいのその台の上には、薄く白く透き通ったベールにくるまれた出演者たちが横たわっている。それは、繭の中で眠る幼虫を想像させる。
場内は静かに、天井から降ってくるような波の音に満たされてゆく。やがてその音は、少しずつ変化し自然音に電子音やノイズが混じり、ときに音調を変え激しいリズムを奏でたりするのだが、舞台上のダンサーたちは、ほとんど動かず、横たわった姿勢から上演時間の1時間20分あまりをかけて、ゆっくりと体を起こし、そして立ち上がりそのまま終演を迎える。その間、音の調子が高まったりするたびに、大きな転換が訪れるだろう、あの暴力的ともいえる強烈な川村ダンスが始まるのではないか、という観客の期待は終始裏切られ続けることになる。繭や幼虫といった最初の印象は、あながち間違いではなく、羽化し成虫へと巣立つ夜明け、とも読み解くこともできよう。
確かに、焦らされながらも終盤、悠を望むような姿勢へと立ち上がる身体は、神々しくもあり、いくばくかの感興を覚えもした。そして、電子音や自然音、環境音などにごく最近焦点のニュースアナウンスをサンプリングした堤田祐史の音響は、様々な状況というコクーンに閉塞する私たちを告発するようで効果的だった。しかし、特に二つの点で指摘したいことがある。
まず、極めてゆっくりと立ち上がるというその動きは、能の運びや舞踏の所作を容易に連想させた。しかし、そういった動いたか動かないかわからぬような、微分に微分を重ねた動きのためには、それなりの強度が必要となる。指一本の先までにも緊張を漲らせることができる、特別な鍛錬を積んだものだけに許される所作といえよう。そうでなければ、ただ"緩慢"な退屈な動きにしか見えない。その点で、今回選ばれたダンサーたちは、この舞台構成に適しているとは言えなかった。
そしてもう一点、これが、川村のデビュー作であったなら、果たしてその評価はどうであったろうか。いつも激しく踊るダンサーが、まったく踊らないことで、観客を裏切るというこの仕掛けは、川村だからこそ成立したわけだが、この手は二度とは使えない。これが新たな彼女の世界観の"夜明け"とならないことは明白だ。 "まぼろしの夜明け"というタイトルが、何やら逆説めいて見えてくる。

10/9 TOWN「采(サイ)」(東京・三軒茶屋)
三軒茶屋には、行きたいお店が無数にあっていつも迷ってしまう。しかも、通称"三角地帯"と呼ばれるエリアに踏み込もうものなら、店選びに迷うどころか、その入り組んだ路地に、名目通り迷ってしまう。でも、これも酒飲みの楽しみのひとつ。で、今宵迷い込んだ先は「采」、日本酒メインの立呑み店である。
ここの特徴が、メニューに並ぶ数十種の日本酒、北から南からそろった酒がどれでも一律一杯500円! しかもここ、三軒茶屋で焼鳥の名店として知られる「床島」が運営しているとあって、"アテ"も不味いわけは無い。これで飲みすぎるなというのが、無理な話。ということで、『まぼろしの夜明け』で、たまたま一緒になった知人と一緒に、それぞれが選んだ酒を互いに味見しつつ、すっかり出来上がってしまうのでした(^^;)。
采(サイ)
東京都世田谷区三軒茶屋2-13-19


10/10 CINEMA『岸辺の旅』@テアトル新宿(東京・新宿)
これはホント、黒沢清監督のトーンやテイストにぴったりの作品だな。生の世界と死の世界が地続きで未分化、境目も無くオーバーラップしたような世界。それは、彼岸と此岸を対等に描き続けてきた、黒沢清の真骨頂といえよう。
この映画で黒沢監督自身は、「メロドラマの巨匠、ダグラス・サークの作品を意識した」と語っている。その通り、大友良英の音楽とあいまって、切迫した緊張感ややるせなさ、やり場のない気持ちや名づけようのない気味悪さといった、前言語的な感情のほとばしりを豊かに表現するのに成功している。それにしても、ここのところ、ちょっと伸び悩んでいると思われる蒼井優(あくまで私個人の感想です)が、旦那の浮気相手として正妻役の深津絵里と対面するシーンで見せる凄みがヤバい! 改めて蒼井を見直したが(というか、もともと恋多き小悪魔たる彼女の地か)、ここにも監督の目指した"ドラマ"の本領が垣間見えた。
けれど、それ以上に私は映像そのものに、黒沢らしさを看取した。かつて私がCMの仕事をしていた時に、ある企業のCMに、若手の新進映画監督を起用するという企画を立ち上げたことがある。CMを本職とする作り手たちの手垢に染まった表現ではなく、CMを撮ったことのない映画監督によって、別の文脈を持ち込みたいという意図があってのことだ。数名の監督をリストアップした中に、『地獄の警備員』で一躍評判になったばかりの黒沢監督がいた。彼には、クライアント企業が関わっている高原地を舞台に、演出とCM監督をお願いしたのだが、ステディカムを駆使して完成したその映像は、とてもただの高原の森林風景とは思えない危機感を孕んでいた。CMの枠を破りたいと企画した当人の私は内心、してやったりだったのだが、当時のTVCMの空気に慣れた他の関係者のほとんどは否定的だった(それでも無事オンエアーはされた)、という思い出がある。きっと今見返してみれば、時代に求められるインパクトを持ったCMとして、もっと認められることだろう。
で、それ以来、何を撮っても物の本質の持つ異様さを暴いてしまう黒沢節というものを意識しないではいられない私にとって、『岸辺の旅』は此岸と彼岸の混然とした彼ならではの世界観を描き切った作品として記したい。

10/10 STAGE:工藤丈輝・若林淳 舞踏公演『敗北の傘 2015』@座・高円寺(東京・高円寺)
みごとにディオニソスの美学を現出して魅せてくれた。批評家連による大方の評判は、それほど高くなかったようだが、それは昔ながらのあまりに典型的な"舞踏"が繰り広げられたために、新しさが感じられないといった理由によるものだろうか。しかしそれは、極めて表層的な見方であって、紋切型を敢えて演じるその意味をここでは問うべきであろう。
しかも彼らは決して、大時代的な"舞踏"そのものを掛けたかったわけではなく、闇の深さを顕現させる手段としてその形を用いていたのだ。舞踏の持つ前近代的なスペクタクル性、わかりやすく言えば、夜祭の雑多さ、いかがわしさ、怪しさなどといったものを借り受けて、彼らの"祭り"にディオニソスを呼び込もうとしたのだ。それはある意味"舞踏"を通り越して、舞踏成立以前の混沌とした"見世物"の世界でもあり、それを昇華させた形として今回の舞台があった。
例えば、風神、雷神よろしく舞台の左右に分かれ、ブリキ板や鍋釜をパーカッションに見立て打ち合うシーンでは、上質な現代音楽にも勝る興奮を覚えさせてくれたが、それは同時に、心底深く潜む根源的な何かに共鳴もしたからだ。ときに剽軽に、ときにおぞましく、跋扈する魑魅魍魎の姿に、スペクタクルの原点を見る思いがした。泥臭くなりがちな試みに、決して野暮に陥ることなくセンスいい見世物に仕立てた手腕に心から拍手を贈りたい。

10/10 TOWN「野方屋」(東京・高円寺)
高円寺にあるのになぜ「野方」? ヤキトン好きの間では有名な、西武新宿線野方駅の近くにある「秋元屋」、その流れを汲んで「野方屋」と命名したとか。あるいは、単にリスペクトして名付けただけという説もあるが、どちらにしたって美味くて安いんだから文句はない。
高円寺に来ると必ずと言っていいほど寄ってしまう(駅を挟んだ反対側、あづま通り商店街にも、おすすめのお店がありますが、それはまた次の機会に)。この日は、ぬる燗に串数本、酔っちゃうとここから横浜の自宅まで帰るの億劫になっちゃうな、などと思いつつもお銚子のお代わりを頼んでしまうのでした。
野方屋
東京都杉並区高円寺南4-49-1


10/16 STAGE『Crackers boat presents夜にクジラ』@渋谷underbar(東京・渋谷)
ダンサー横山彰乃が、自身踊るだけではなく、プロデューサー役も担って、一緒に観たい演りたいアーティストなどをラインアップして開催する不定期イベント。この日のラインアップは、SSWの古宮夏希、バンドの毛玉によるライブ、そして横山本人によるソロ・ダンスが披露された。
この企画の面白いところは、横山彰乃を本人の作品を通してだけでなく、ジャンルを超えて彼女が選んできた音楽家やらアーティストを通して、その世界観が立体的に感じ取れるところ。例えば、古宮の朴訥としたフォークの調べに乗せて歌われる独特の詩の世界は、横山のホンワカとしながらも毒を孕んだ踊りを彷彿とさせる。これからも彼女に注目していかねば。
Web: 『Crackers boat presents夜にクジラ』

10/24 STAGE:COMPAGNIE MARIE CHOUINARD(カンパニー マリー・シュイナール)@KAAT神奈川芸術劇場(横浜・山下町)
6年ぶりの来日公演、『春の祭典』と『アンリ・ミショーのムーヴマン』の2作品を上演してくれた。マリー・シュイナールはその変態的とさえも形容される、変則的で奇抜な振り付けやヴィジュアルでいつも驚かせてくれる。
『春の祭典』でも、刺をまとった衣装や体をくねらす独特な動きなどが目を奪う。深海の生物の戯れのようにも見えるし、古代の壁画に描かれた生贄の踊り、あるいは原生生物の生成や結合のようにも見える。もちろん生と性の奔出をテーマとするストラヴィンスキーの音楽が基調にあるのだから、そうした生物的な表現になるのは当然のこと。
しかし、その放埓とも見える振りの中に、どこかバレエリュスのあのニジンスキー版に通じるものを私は感じた。もちろん、ニジンスキーからして、当時のバレエを書き換える斬新な振り付けとして『春の祭典』を作ったのだから、似ていて当たり前なのかもしれない。だが、アヴァンギャルドさなどといった意識や姿勢ばかりではなく、もっと形態的な部分で近似的なものを強く覚えた。たぶん、振り付けのひとつひとつ、ムーブメントのひとつひとつを分解して、それぞれ比較してみたならば、酷似しているところがいくつも見つかるのではないか。おそらくマリー・シュイナールは、ただ自由奔放にゼロから組み立てたのではなく、ニジンスキーの『春の祭典』の脱構築を狙ったのではないか、そんな個人的感想を持った。
そして、二番目の『アンリ・ミショーのムーヴマン』。アンリ・ミショーと聞くと、どうしても土方巽のことを考えてしまう。土方もアンリ・ミショーのインクをこぼしたような絵画のイメージに深く影響されたことで知られている。しかし彼は、それをイメージのまま振りに生かしたのではなく、いちど言葉へと変換してから、再度身体の動きへと展開した。あの土方独特の舞踏譜の言葉へと。
一方マリー・シュイナールは、見たままのイメージをダンサーたちが体でいかに表現するかを試みた。従来の振り付けを覆すようなアンリ・ミショーのイメージは、それだけで面白いムーブメントにつながり、奇想の舞台を作り出してはいたが、見方を変えれば、一発芸的な形態模写と言えなくもない。事実、ネタがばれてしまった後半では、多少食傷ぎみなところも否めなかった。
Web: COMPAGNIE MARIE CHOUINARD

寄稿家プロフィール
ふかさわ・めぐみ/CMクリエイター、アート映画ディストリビューター、舞台公演企画、雑誌へのコラム執筆、社会学講師等を経歴。その間、子供時代から続く劇場や美術館通いは止んだことが無い。著書『思想としての「無印良品」』千倉書房