
横浜在住の私が見聞きした(ときに食べ飲んだ※)、主なものをピックアップしてコメント。※飲食店に関しては、イベント前後に寄った会場近くのお気に入りの店を紹介しています。
9/8 ART『70’s 原風景 原宿』展 Vol.2@バツアートギャラリー(東京・原宿)
1972年から79年までのちょうど70年代、高校生~大学生だった私は、住んでた家が近かったこともあり連日原宿に入り浸ってた。その根城は「レオン」という名の喫茶店。
明治通りと表参道の交差点、現在「東急プラザ表参道原宿」のある場所には当時、原宿セントラルアパートという事務所やら住居やら店舗やらが混在する建物があった。原宿セントラルアパートには、カメラマンやデザイナー、コピーライターやらモデルやらなど新進気鋭の面々が大勢入居し、さながら時代の発信地の感があった。その原宿セントラルアパートの1階、表参道に面した一角にあったのが「レオン」。
学校帰り(時にサボって)や休日に「レオン」に行けば、いつでも時代の寵児たるクリエイターたちが打合せや息抜きに珈琲テーブルを囲んでいて、そこにいるだけでなんだか自分も仲間入りしたような……まあ、あくまで気のせいだったけど、そんな空気が楽しかった。でも実際に、顔見知りになったカメラマンと言葉を交わすようになったり、モデルやタレントのタマゴたちと知り合いになったりもできた。
そういえば、舘ひろしや岩城滉一らが居たクールスの前身、マカオというバイクチームも原宿を拠点としていて、リーゼントに革ジャンといういでたちで大型バイクに跨る姿はカッコ良かったっけ。もちろん、そんなコワモテ兄さんたちには、声をかける勇気はなかったけど……。
あの頃は原宿といっても、お店はポツリポツリとしか無く(ラフォーレ原宿も78年に開業するまで、あの場所には教会があった)、人通りだってずっと少なくて、そう松本隆の"風街"(松本隆は青山と渋谷と麻布を赤鉛筆で結び、囲まれた三角形を風街と名付けた)そのものの風情だった。いまの原宿しか知らない人には信じられないだろうけど。
この写真展は、そんな思い出の中の"原宿"をよみがえらせてくれた。有名写真家が捉えていた70年代の原宿の街並みや人物、風俗など、参加カメラマンは、横木安良夫、広川泰士、染吾郎、野上眞宏、ハービー山口、達川清、ガリバー、石川武志、沢渡朔、鋤田正義、藤井英男、井出情児、三浦憲治、小暮徹、伊島薫、坂野豊、横須賀功光、ZIGENとそうそうたる顔ぶれ。あの頃、よく見かけたモデルの若かりし頃があったり、レオンの店内、並びにあった革物のゴローやミルク……私の中の記憶に焼き付いていた光景も、そこに現像されて映し出されたような、ちょっと甘酸っぱいような錯覚を届けてくれた。


9/12 CINEMA『ギターマダガスカル』@シネマ・ジャック&ベティ(横浜・若葉町)
アフリカ大陸の南東部はインド洋に浮かぶ島、マダガスカル。その地理的要因もあって、マダガスカルの音楽は、アフリカはもちろん、アジアや、アラブ、ヨーロッパなど周囲からの影響を受けながら独自に発展。その独特の音楽を伝えるミュージシャンたちに取材したロードムービーが、本作『ギターマダガスカル』。
島の各地からギター片手に、村々を演奏しながら巡る数組のミュージシャンたちを捉えているのだけれど、まずそのギターにびっくり。完全手作りの、木をくりぬいただけのような3本弦楽器や素朴そのもののようなものがあるかと思えば、GODIN(カナダ製の高級ギター)なんかを平然と奏でてたりする。そして歌いだせばその歌詞が「きょうは一匹も魚が獲れなかったよう、生活をどうしたらいいんだよう!」みたいだったり……初っ端から思いっきりその世界観にひきこまれてしまう。
彼らはどの村でも大歓迎を受け、まるで神様扱い。でも、どこの国だろうとミュージシャン気質ってやつは一緒みたいで、撮影クルーを置き去りにして水浴びしてみたり、気の向くままに明日は明日な感じ満載で飄々と旅は続く。
で、彼らが奏でる音楽は「マンガリバ」と呼ばれていて、8分の6拍子、いわゆる12ビートが基本。思わず体が動いてしまうノリのいいリズムなのだが、それだけではなく、そこへ裏拍、さらにまたその裏の裏拍というようにリズムが重なっていき、独特で複雑なグルーブが生まれてゆく。時に変拍子っぽくなったり、その拍子を正確にとらえるのは私たちにはかなり難しい。けれど村の子供たちは普通に太鼓で参加したり、マダガスカルの人たちには、そのリズムやグルーブが体に染み込んでいるようだ。
観終わってから、劇場に挨拶に訪れていた亀井岳監督をつかまえて、その辺りの話を聞いてみたら、リズムもさることながら、ハーモニーに舌を巻いたといっていた。確かに、村の観客の女性たちなどが、演奏に合わせて平気でハーモニーで参加してくる。しかも、それがとても即興とは思えぬぐらい美しく神々しい。よくカラオケで、人の歌にハーモニーを付けたがるウザイおっさんとはエライ違い! リズムといい、ハーモニーといい、音楽が暮らしの一部、いや、というより、音楽の中に生きている、そんな島の暮らしが偲ばれて、とてもいい気分になれる映画だった。

9/12 TOWN「おでん旬彩 野毛八」(横浜・野毛)
さて、シネマ・ジャックでの映画鑑賞の後といえば、お馴染み野毛へ。9月になってだいぶ秋めいて来たので、そろそろおでんもいいかなと、「野毛八」へ。1年ほど前にオープンしたんだけど、もうすでにそこそこ評判。野毛といっても、桜木町に近いコアな方ではなく、日の出町に近い落着いた場所で、初めてでもとっても入りやすく、雰囲気もアットホーム。
もちろん、看板通り「おでん」がメインだけど、それ以外のメニュー(例えば「ふっくらジャンボ鯵フライ」とか「ハラミステーキ」とか)も豊富で美味しい。串焼きや鍋まで揃ってる。とはいえ、今日は「おでん」目当てで来たので、たまご、ちくわぶ、がんもなどなど注文、試しにシュウマイのおでんというのも頼んでみたらこれまた美味。写真の枝豆も普通の茹でたモノではなく、焼き枝豆! これが茹でたものより味がしっかりして美味しい!! などと言いながら、今宵もお酒がすすんでしまうのでした。
おでん旬彩 野毛八
神奈川県横浜市中区宮川町2-35

9/21 STAGE『SEPTEMBER SESSIONS』@横浜赤レンガ倉庫1号館3Fホール(横浜・新港)
新進振付家の発掘と育成を目的に1996年にスタートした横浜ダンスコレクションが、なんと今年で20周年を迎えた。この間輩出した振付家は305組にも上るとか。初期はランドマークホールで行われ、「バニョレ国際振付コンクール・ジャパン・プラットフォーム」の審査も兼ねていた。04年から今の赤レンガ倉庫へと会場を移すが、日本のダンス界を支えるその意義に変わりはない。
私もランドマークホールの頃から、いまや名だたる振付家やダンサーたちがここから巣立つのを観てきたので、もう20年も経ったのかといろんな思いが交差するが、今回過去に受賞し国内外でさらなる活躍を期待される4組の振付家が、最新作を発表した。
その4組は、
梅田 宏明/中村 蓉/森下 真樹/ロサム・プルデンシャド・ジュニア
どの作品も安定した出来栄えで、横浜ダンスコレクションの受賞者だけある、さすがの顔ぶれと思わせたが、反面、枠をはみ出るような冒険や発見がなかったのが少し物足りなかった。ただ1点、森下作品に出演した若手のダンサー歌川翔太が独特の存在感を放っていて、今後を期待させてくれた。

9/23 BOOK『映画は絵画のように』『テロルと映画』
ここのところ映画に関する興味深い本が立て続けに発刊された。最初の一冊は、岡田温司著 『映画は絵画のように ―静止・運動・時間―』(岩波書店)。メディアというのは、それに先行するメディアに影響を受けながらそれを含有するように発展するものだが、19世紀末に発明された映画と劫初以来の歴史を持つ絵画が、はたしていかなる影響関係にあるのか、広範な資料と考察によって解き明かしている。
以前同じ著者の『黙示録―イメージの源泉』を読んだことがあるが、その豊富な知識とイメージ論を駆使した論考に感心させられたが、ここでも芸術から映画、神話などにわたる造詣の深さ、さらには取り上げられる事例の多さに圧倒されるばかり。
例えば、抽象芸術との関わりを述べた章では、「以下では、抽象芸術の存在が映像中できわめて大きな意味をもついくつかの作品に登場願って、本章を閉じることにしよう。最初に予告しておくなら、ヒッチコックの『ハリーの災難』、カサヴェテスの『アメリカの影』、クルーゾーの『囚われの女』、スコセッシの『ライフ・レッスン』、そしてジャームッシュの『リミッツ・オブ・コントロール』である。」という具合だ。
また、カール・ドライヤーが、同じくデンマークの偉大な先達たるアーティストたち、トルヴァルセンやハンマースホイを意識していると喝破するところなど、思わず膝を打った。あのハンマースホイの不穏さを含んだ静謐さは、まさにドライヤーの映画そのものではないか!
シネフィルにもアートファンにもオススメします。
そしてもう一冊、四方田犬彦著『テロルと映画 スペクタクルとしての暴力』(中公新書)。『ダイ・ハード』に代表されるように、これまで(とくに9.11以降)ハリウッドはテロリスムを材料にした映画を数多く製作してきた。しかし、ここでは、そうしたテロル=悪を退治する正義といったハリウッド的なモノにも目を配りつつも、より根底的な映画とテロルの関係性に迫ってみせる。
元来、テロルとはスペクタクルな効果を持ってして成功を収めることができる。大勢の集まるところに爆弾を仕掛けたりするのも、多数を殺傷できるからばかりでなく、スペクタクル効果、つまりメディアで取り上げられるなどした際に、それだけ恐怖をより大きく演出して見せることができるからだ。要するに、スペクタクルを旨とするテロルと映画は、高い親和性を持っているといえる。
こうした点から、ブニュエルの『欲望のあいまいな対象』や若松孝二の『天使の恍惚』、ファスビンダーの『秋のドイツ』やベロッキオの『夜よ、こんにちは』などを主な手がかりに、映画とテロルとの関係、距離などを掘り下げていて、単なる勧善懲悪ではない、映画の社会的な意味が浮かび上がってくる。

9/25 ART『百年の愚行展』トークイベント@3331 Arts Chiyoda(東京・末広町)
『続・百年の愚行』出版をきっかけに、読者一人一人の行動が生まれることを願い、「愚行を少しでも拡大しないための」対話の場をつくり出す活動を続けていきたい、その一環として開催された「百年の愚行展」。トークイベントもいくつか開催され、これはその最終回。
登壇者は、REALTOKYO編集長小崎哲哉、そして「一水会」の元代表・鈴木邦男!! かたや権力の理不尽や横暴許すまじの体制批判派、かたや民族運動にも関わった新右翼の重鎮。いったいどういう展開になることやら、楽しみというよりも恐々拝聴に訪れた。
でも、予想に反し始まってみれば、トークは終始和やか。だって鈴木さん、実に真っ当な見識の持ち主。もちろん、浩瀚な著作やメディアでの発言などで承知はしていたけれど、右も左も関係なく様々な問題を切って見せる語り口は、むしろ清清しいほど。
例えば、最近の人があまり本を読まないことについて、「みんな本を読むにしても、自分の好きな本しか読んでいない。アマゾンも似たような本をオススメするのではなく、たまにはこんな本を読んでみろとかって出てくればいいのに」とか、「朝まで生テレビなどで、意見の対立で議論がかみ合わないのは、かみ合いそうになると司会者がわざと壊し、面白く仕立てようとするから。決して相容れないのではなく、マスコミが煽っているからだ」などなど、会場も笑いに包まれながらも程よい緊張感。
考えてみれば、好きな本しか読まないということは、自分の耳目に心地よい思考や意見にしか関心を示さないということ。時には自分の価値観とは違うモノを読むことで、自分と違う意見と対話したり想像力を養うことがなければ、他者と議論がかみ合わなくなるのは必至。主張や意見の開陳だけで、人の話を聞かないという、極端な例としてヘイトスピーチに見られるような今の風潮にもつながっているわけだ。
ほかにも、もっと突っ込んだ話も出たのだけれど、ここで私なんかの拙い文章では誤解を生じかねないのでひとつだけ、会の最後にやはり鈴木さんが言った言葉、「ただ排外主義だけで、他を攻撃する右翼は愛国者ではない。一般の日本人として全力で生きている人こそが愛国者だと思う」。右左に関係なく、良識から意見する鈴木さんの健全さが際立った。

寄稿家プロフィール
ふかさわ・めぐみ/CMクリエイター、アート映画ディストリビューター、舞台公演企画、雑誌へのコラム執筆、社会学講師等を経歴。その間、子供時代から続く劇場や美術館通いは止んだことが無い。著書『思想としての「無印良品」』千倉書房