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Y⇆T Notes ─ 横浜/東京カルチャーレポート

005:2015年6月
ふかさわ・めぐみ
Date: July 10, 2015

横浜在住の私が見聞きした(ときに食べ飲んだ※)、主なものをピックアップしてコメント。※飲食店に関しては、イベント前後に寄った会場近くのお気に入りの店を紹介しています。

6/1 BOOK:新潮文庫創刊100年記念出版「日本文学100年の名作」

第一次世界大戦の始まった1914年(大正3年)に、刊行が開始された新潮文庫。その創刊100年を記念して、1914年からの100年間を10年ごとに区切り、その時代ごとに発表された中短篇の中から"名作"を厳選し10巻のアンソロジーとして編まれた全集『日本文学100年の名作』。これまで毎月1巻ずつ刊行され、この日ついに、全10巻が完結。編集委員がドイツ文学者の池内紀氏、評論家の川本三郎氏、編集者の松田哲夫氏の3氏とあっては、選ばれた作品は珠玉ぞろい。毎月、一日の刊行日が待ち遠しく、10ヶ月間すっかり楽しませてもらった。だから、完結は喜ばしい反面、一抹の寂しさも。

 

例えば井伏鱒二『遥拝隊長』のように、これまで幾度と無く折に触れ読み返した、おなじみの作品も少なからず収録されてる。だが、こうしてその時代の他の作品の中に置かれてみると、また新鮮な趣がある。有名作家の未読の作品も数多く載っている。まるでよく知っているつもりの恋人の、思わぬ一面を垣間見たような不思議な感覚に誘われる。そして、恥ずかしながら寡聞にして知らなかった作家には、これを機に知遇を得たよき友人として、末永くお付き合いを願いたいと思わせられる。

 

それもこれも、希代の読み巧者の3人が選者ならばこそ。巻末でそれぞれが担当した作品の"読みどころ"を解説しているのだが、みごとに読者の興味の的を射てこれさえ作品と呼びたいほど。例えば第1巻(1914年―1923年)に収録されている、谷崎の『小さな王国』などは、まだヒットラーの影さえ無い時代に、独裁者を産み落としてしまう社会の構造を小学校を舞台に予見していて背筋が寒くなるし、最近でいえば第9巻(1994年―2003年)に、堀江敏幸『ピラニア』を選んでくれていることなど、単に過去の傑作というだけでなく、現在の問題にまで射程を持ち尚且つ文学としても珠玉の輝きを持つものを、よくぞこれだけ発掘してきてくれた、さすが読み巧者と喝采したくなる。

 

しばらく間をおいて、もう一度第1巻から、あるいは今度は第10巻から時代をさかのぼるように、じっくりと再読するのも楽しみだ。

 

Web:「日本文学100年の名作」

 

日本文学100年の名作 | REALTOKYO

6/6 CINEMA『私の少女』@シネマ・ジャック&ベティ(横浜・若葉町)

キム・セロン、大きくなったなぁ。『冬の小鳥』のときは、あんなにちっちゃかったのに。でもあの眼、眼差し、裏切られて捨てられた子犬のような、容易に心を開かない拗ねて疑う眼差しはあのときのまま。今回は(というより今回も?)、家族の仕打ちやいじめに苛まれる少女役。そこに、救いの女神として現れる女性警官。しかし、彼女も実は問題を抱え、都会の警察署から片田舎の駐在所へと左遷された身。その2人の距離や関係性の中で、微妙に色や表情を変えるセロンのその眼差しは素晴らしい。天才子役の面目躍如。

 

そして、女性監督ならではのナイーブさや美しさも全編に溢れている。けれども、良いのはそこまで。なかなか難しい題材だし、同情の余地はあるのだけれど、いかんせん説明しすぎのきらいが。例えば、件の女性警官は同性愛がらみで都会の警察署を追われるのだが、そのことを巡っての展開などもっと削ったり整理したりできる余地が多分にあって、そうしたほうが仕上がりももっと良くなったはず。

 

そしてストーリーはといえば、虐待を受ける少女と差別を受ける女性という、疎外された者同士が互いに承認を求め合う物語といえるが、ラストに垣間見える微かな希望や救いも、実は閉じた関係性でしかないことに思い至ってしまえば、たぶん監督の意図したところに反して、あまりに脆い。

 

それにしても、なぜいまこれほどまでに承認を巡る物語や言説が溢れかえっているのだろう。おそらくそれだけ人間の価値や関係性が希薄になっているからだろう。ご存知のようにアメリカの心理学者マズローは、人間の基本的な欲求を5段階にわけ、「承認の欲求」を高次に位置付けた。人間は「承認」されてこそ、自尊心を持って生きていける。だから、Facebookが流行ったのも、擬似的に承認を得たような気にさせてくれる「いいね」ボタンのおかげだろう。反面、LINEなどでは、「既読」になっているのになかなか返信が返ってこない……スルーされたらどうしよう……などと余計な心配事やスマホ依存を生じさせている。いじめや虐待、差別など、もちろん大問題だが、ありふれた日常にも、人間の基本的欲求を脅かす根が蔓延っていることなども考えさせられた。ところで私自身は、どちらかと言えば褒められて伸びるタイプなので、もっと"承認"してください(^^;)

 

Web:『私の少女』公式サイト

 

映画『私の少女』 | REALTOKYO

 

6/11 CINEMA『イニシエーション・ラブ』@ヒューマントラストシネマ渋谷(東京・渋谷)

うーん、なんと言ったらいいのか……

『もらとりあむタマ子』を観て以来、女優・前田敦子のファンである私。AKB時代とかほとんど興味が無かったので、あまり良く知らなかったのだけど、山下監督の演出もさることながら、女優としての逸材にびっくり。以来、彼女の出演している映画を追いかけるように観ている。だから期待が大きかったんだけど……映画としてはどうなのか……。いや、でも、前田敦子にがっかりしたのでは決してない。

 

ラスト数分間の大どんでん返し、角を取られたオセロのコマがパタパタとひっくり返るようにこれまでの場面が意味をがらりと反転させるのは、まあ面白い。けど、たぶんそのためのギャップを大きく見せる必要からだと思うが、そこへ至るまでがあまりに退屈。あまりにベタで陳腐。舞台にしている80年代ネタ(音楽とか小物とか)は、懐かしくもあり多少楽しめたのだけどねぇ……。

 

でも、そのどんでん返しによって、前田敦子の演技への見方もひっくり返るのである。それまで他の役者の演技やストーリー同様、純な女の子のステレオタイプ的な、あまりにベタに見えた前田敦子の演技が、俄然凄みを増す。ピュアな微笑が、意味ありげなほくそ笑みへと印象ががらりと変わってしまう。さすが前田敦子……ってちょっと待てよ。観客はもしかしたら二重に騙されているのではないか? 彼女はたださらりとベタに"かわいい"女の子を演っていただけで、その裏には秘められた深い演技があったわけではなく、観る側の意識が変わることでそう思い込まされているのではないか……? うーん、「あなたは必ず2回観る」という宣伝文句もが、俄然深く思えてきた。

 

Web:『イニシエーション・ラブ』公式サイト

 

映画『イニシエーション・ラブ』 | REALTOKYO

 

6/13 ART『愛される民藝のかたち―館長 深澤直人がえらぶ』@日本民藝館(東京・駒場)

日常で長く使われるために、虚飾を排して、ゆるく、素朴で飽きのこない日用具に、生活の美や価値を見出す民藝。ならば「かわいい」という視点で編集してもありなんじゃないかと、民藝館館長の深澤直人が蒐集品から厳選した本展示。そう言われて見れば、確かにかわいい。陶器も、染織も、人形も、その他様々な日用品いずれもが、どこかほっこりとして、愛らしい。眺めていると、現代とは違う時間の流れに引き込まれる。

 

そしてこの日は、月に4日ほどしか公開されない西館(旧柳宗悦邸)の公開日にあたっていたため、道路を隔てたこちらにもお邪魔した。柳宗悦自身が設計し、72歳で没するまで実際に彼が住まっていた建物。質素でいながらおしゃれで、こちらも独特の時間が佇み、ほっこりとする。ちなみに奥様の声楽家・柳兼子の歌声を聴ける部屋などもあり、なかなか公開日にぶつかるのは難しいが、ぜひ再訪してみたくなる。

 

Web:『愛される民藝のかたち―館長 深澤直人がえらぶ』

 

Web: 日本民藝館 西館

 

日本民藝館 西館 | REALTOKYO

 

6/13 TOWN「ルヴェソンヴェール駒場」(東京・駒場)

民藝でほっこりした後、駒場でお昼といったらここ。「ルヴェソンヴェール駒場」は、東京大学駒場構内にある昭和初期の建物"旧制一高"の同窓会館を改修したレストラン。アールデコの雰囲気がなかなかいい感じ。東京大学のゲストハウスということなんだけど、部外者、一般人も利用可能。でも、大学構内にあることから、知る人ぞ知る的な、隠れ家的な……と言いたいとこだけど、お昼どきは近隣マダムたちの御用達になっていて、けっこうな賑わい。

 

この日も、すぐには入れずしばらく待たされたけど、待った甲斐あって、本日の日替わり肉料理飲み物付きで1000円(他に魚料理と、ランチコース1800円もあり)、おいしくいただきました。

 

Web: ルヴェソンヴェール駒場

 

ルヴェソンヴェール駒場 | REALTOKYO
ルヴェソンヴェール駒場 | REALTOKYO

 

6/14 ART『山口小夜子:未来を着る人』@東京都現代美術館(東京・清澄白河)

私にとっての山口小夜子は、「月の駅」で初めて勅使川原三郎と踊った彼女だ。1987年、旧汐留駅、今のように高層ビルの立ち並ぶ再開発後の汐留ではなく、まだ駅舎や線路が残る廃駅然とした駅跡で、ホームを舞台に繰り広げられた、あの一夜の幻想はいまだ記憶に鮮明だ。その後、『夜の思想』『石の花』『ノイジェクト』と立て続けに勅使河原と競演を続ける彼女を、追っかけのように観て回った。凛としつつもたおやかな山口と、しなやかでいながら強度を持った勅使河原の対比は、まるで奇跡のようだった。図らずも「幻想はいまだ記憶に鮮明」と言ったが、まさに「鮮明な幻想」などというものがありうるとしたら、勅使河原の舞台に立った山口小夜子に他ならない。

 

今回の展示で、その『月の駅』の記録映像がプロジェクションされていたが、昔のビデオ撮影のため、その決して鮮明とは呼びがたい(^^;)映像に、在りし日の彼女がよみがえり眩しかった。興味深かったのは、「プレイルーム」と名付けられたコーナーで、彼女の子供のころからのクレクションが年表とともに展示されていたのだが、中原淳一の画集や着せ替え人形がいつの頃か突然、寺山修司や澁澤龍彦に変異し、彼女の生きた世界観や思いが瞬間垣間見えたような気がした。

 

Web:『山口小夜子:未来を着る人』

 

石田尚志 渦まく光 Billowing Light | REALTOKYO

 

6/14  TOWN「だるま」(東京・清澄白河)

都現美のある清澄白河周辺は、最近サンフランシスコから「ブルーボトルコーヒー」が上陸し、新しいカフェが次々オープンするなど、おしゃれな街へと変貌しつつある。そんな中、下町の雰囲気を強烈に残している大衆居酒屋が「だるま」。

 

もちろんご近所の常連さんたちの聖地である。落語家さんなんかも、ときおり見かける。でも実は、都現美やすぐ近くのイベントスペースSNAKの関係者も多く利用し、おしゃれな人たちが集まることに掛けては、新しいカフェたちに引けを取らない。「美術館ができてから、若い人たちも来てくれるようになってウレシイ」とご亭主、その奥さんや娘さん(最近は海外からのスタッフも増えたけど)のなんとも居心地のいいアットホームな接客がいい。

 

そして何より、居酒屋の基本、安くて美味しい。この日も、山口小夜子展を見終わって知人と2人でお邪魔して、サラダに中トロ(700円で絶品!)ほか刺身3~4品、うなぎの肝、ししゃも、焼き鳥数種、手羽先などなどたらふく食って、酒もビールから冷酒(高清水の生貯蔵)などいいかげん飲んで、1人3000円弱。ここ、土曜日が定休日なのがネックで、今回もここに寄りたいばっかりに、ワザワザ小夜子展鑑賞も日曜日に(つぎの日、早朝から仕事だってのに)したのでした。

 

だるま

東京都江東区三好2-17-9 TEL: 03-3643-2330

 

だるま | REALTOKYO

 

6/20 STAGE:舞踏 / 文化 '21 アトリエ公演『夜の大陸の果て~other body, other voice~』@鎌倉市立第一小学校(鎌倉)

振付:秀島実

振舞:秀島実、中村早紀、山本かおり

 

前回の公演の感想では、ジャン・ジュネの『女中たち』を引き合いに出したが(本コラム001:2015年1月/2月の2/22『夜の大陸~テラ・インコグニタ~』の項参照)、今回はベラスケスの「ラス・メニーナス(女官たち)」を想起させられた。音楽に「亡き王女のためのパヴァーヌ」の変奏がいくつか取り上げられていて、言うまでも無くモーリス・ラヴェルは、ベラスケスのマルガリータ皇女にインスピレーションを得て、この曲を作曲した。

 

ベラスケスはマルガリータの肖像を数作手掛けているが、その中でも今回の公演では「女官たち」が想起させられた。マルガリータの周りを取り囲む女官たち、キャンバスを前に筆を握るベラスケス本人。フーコーも『言葉と物』で取り上げたように、「ラス・メニーナス」は、視点(観るという行為)や客体を取り巻く"リフレクション"の問題を提起する。誰が観て、誰が観られているのか(キャンバス上の人物たちは、観客側をいっせいに注視している)。

 

「夜の大陸の果て」では、舞台中央に額縁が置かれ、ダンサーの2人の女性は、その前に佇んだり覗き込んだり、あるいは、向こう側=客席側から観られていることを意識するかのような挑発を繰り返す。しかし、彼女たちが相対しているのは、はたして観客の我々だろうか。ベラスケス同様、誰でもあり誰でもない=不在の視線に向けられているのではないか。

 

そう思いなしてみると、2人の存在がウラジミールとエストラゴンとも重なってくる。訪れることの無い不在を巡る振る舞い。2人にちょっかいを出す秀島実は、さながらポッツォ。いや背中に中村早紀を乗せ這う姿は、ラッキーか……などと、「夜の大陸の果て」へと思考の旅を誘ってくれる妖しくも素敵な一夜だった。

 

Web: 舞踏 / 文化 '21 アトリエ公演『夜の大陸の果て~other body, other voice~』Facebook

 

舞踏 / 文化 '21 アトリエ公演『夜の大陸の果て~other body, other voice~』 | REALTOKYO

 

6/21 ART『マグリット展』@国立新美術館(東京・六本木)

マグリットって、私にとってはホント特別。1971年、竹橋の国立近代美術館で日本初の大規模な『ルネ・マグリット展』を観に行った当時中学生だった私にとって、それは衝撃以外の何モノでもなかった。夏休みの美術の課題とかが、すっかりシュールかぶれになってしまのは言うまでもない(^^;)。マグリットばかりでなく、シュルレアリストたちの展覧会に通い、ブルトンやバタイユを読み漁り、ついには大学において経済学部のゼミであるにも関わらず、卒論のテーマに「シュルレアリスム」を選んでしまった(よく卒業させてもらえたものだ)。

 

しかし、1930年代以降のマグリット本人は、正統なシュルレアリストというわけではなかった。パリの運動からは距離を置き、独自の様式を追求する。それはある意味、シュルレアリスムとは正反対の表現志向ともいえる。"デペイズマン"という、シュルレアリスムの作家たちが好んで用いる手法がある。「解剖台の上のミシンとコウモリ傘の偶然の出会いの様に美しい……」、ロートレアモンの詩の一節を金科玉条とする彼らが開発したデペイズマンとは、この詩のように、通常出会うことの無いような異質なもの同士を同じ場面に置くことにより、違和感や驚きを生じさせようとする。初期においてはマグリットもデペイズマンを多用したが、後年彼が試みたのは、異質なものを出会わせるのではなく、日常の中にすでに潜んでいる違和をあぶり出すことだった。

 

例えば、「これはパイプではない」という有名な作品がある(残念ながら今回は出品されていなかったが)。明らかに喫煙具であるパイプの絵の下に、「これはパイプではない」と表示されたプレートが掛けられている。「確かに、これは絵であって、本物のパイプじゃないよなぁ」とか、「これはパイプの絵に見えて実は、パイプを模したお菓子の絵なんだ」とか、観るものを煙に巻かずにはおかない。果ては、唯名論やらソシュールやらを持ち出して喧々囂々。ミシェル・フーコーなど、これを主題に、書物まで出してしまう始末。かように、ミシンとコウモリ傘など持ち出さなくとも、どこにでも不条理があることをマグリットは暴いたのだ。生前彼は、「私が興味あるのはイメージであり、哲学ではない」と語ったようだが、どうしたって哲学したくなっちゃうでしょ、あんたの絵は!

 

Web:『マグリット展』公式サイト

 

『マグリット展』 | REALTOKYO

寄稿家プロフィール

ふかさわ・めぐみ/CMクリエイター、アート映画ディストリビューター、舞台公演企画、雑誌へのコラム執筆、社会学講師等を経歴。その間、子供時代から続く劇場や美術館通いは止んだことが無い。著書『思想としての「無印良品」』千倉書房