
横浜在住の私が見聞きした(ときに食べ飲んだ※)、主なものをピックアップしてコメント。※飲食店に関しては、イベント前後に寄った会場近くのお気に入りの店を紹介しています。
5/1 CINEMA:『神々のたそがれ』@横浜シネマリン(横浜・伊勢佐木町)
まず、映画の中身の前に、映画館のことを。この「横浜シネマリン」、1954年のオープン以来、映画好きたちに愛されてきた浜っ子お馴染みの映画館。名画座や単館の灯が次々と消える中、伊勢佐木町の路地の片隅で最後まで頑張ってくれていた。ところが、劇場デジタル化の波に乗れず、昨年3月とうとう閉館することに。まあ時代の流れでしかたないかと皆があきらめかけたとき、映画サークル「横浜キネマ倶楽部」の事務局長だった八幡温子さんが、「横浜の映画文化を継承したい」という熱い思いから再生プロジェクトを始動。映像・音響設計の堀三郎さん、内装・照明デザインの岩崎敬さん、そして番組編成に定評のある元・吉祥寺バウスシアターの西村協さんに呼び掛け、なんと復活することに。しかも、外観は昭和の雰囲気をそのままに、エントランスやロビー、客席シートを改装、デジタル上映に対応した映写システムも完備し、モダンなミニシアターに生まれ変わり、昨年12月みごとにリニューアルオープン。すでにして伝説の映画館だが、これからさらに新たな上映史を刻んでくれることだろう。

さて、そんな真の映画ファンたちに支えられた映画館で、“絶対映画”とも呼び得る映画を観た。『戦争のない20日間』(1976年)や『フルスタリョフ、車を!』(1998年)など問題作を発表し、「ミハルコフ、タルコフスキーにも匹敵する優れた名匠」と評された、アレクセイ・ユーリエヴィッチ・ゲルマン監督の遺作だ。ストルガツキー兄弟の小説『神様はつらい』にインスパイアされた本作は、製作に取り組み始め13年、やっと完成を目前に控えた2013年2月21日に監督は死去(享年74)、遺族の手で仕上げられた。
蓮實重彦は「これを見ずに映画など語ってはならない」とコメントし、ウンベルト・エーコは「アレクセイ・ゲルマンに比べれば、タランティーノはただのディズニー映画だ」とさえ断言し、多くの識者が映画好きなら観るべき映画だと謳っている。が、これほどまでに観る者を選ぶ映画もほかに無いのではないか。難解? というほどでもない(言わんとしていることを汲むのは骨が折れるかもしれないが、この映画に限らず何にしても真意を読み取るのは難しい)。不快? というほどでもない(泥や汚物に塗れているが、もっとグチョグチョで不快な映画はいくらでもある)。では、何がいったい観る者を選ぶのか。強いて言えば、全編を覆う“空気の密度”だろうか。3時間に及ぶ上映時間中、飽きることは決してないのだが、その暗黒の中世を凝縮したような空気の密度が、五感に重くのしかかるのに耐えうる覚悟はいるかもしれない。それでも、観なければいけない要素はたくさんある。
映画の舞台となっている地球の中世に酷似したこの星では、知識人狩りが行われているのだが、昨今の「反知性主義」流行りを引き合いに出すまでも無く、焚書坑儒(つい最近、ISが図書館や文化財破壊を行っている)は、独善体制強化の手段としていつの時代も行われてきた。ポル・ポトのインテリ階級弾圧においては、ついには眼鏡をかけているというだけでインテリとみなされ虐殺されたそうだが、本作においても、眼鏡が禁じられているという一節がある。これを近代化以前の愚かなことと、我々は一笑に付すことができるだろうか。終盤、主人公のドン・ルマータが眼鏡をかけて登場するが、カタストロフの果ての再生への意志か、あるいは物憂いメロディにのった虚無への逃避やあきらめなのか。
ここでの神々とは、800年先行する地球から観察者として送り込まれたドン・ルマータたちのことだが、その神を眺める、さらに超越した視点が存在する。いうまでもなく、我々観客の視点だ。まるでボッシュやブリューゲルの世界に没入するかのように映画にのめり込もうとする観客たちは、きまってすんでのところで呼び覚まされる。なぜなら、画面中の役者たちがカメラに向かって目配せしたり、笑いかけたり、あろうことか被写体とカメラの間に手を差し入れて邪魔をしたり……。つまり、カメラを挟んで在ること、我々観客は映画のこちら側にいて外部から眺める傍観者=神の視点であることを絶え間なく意識させられるのだ。原作では、観察者たることを強いられているドン・ルマータが、虐殺される知識人たちを救うべく介入することを、同様に地球から送り込まれているほかの観察者たちに説得しようとするのだが、本作ではその部分は省かれている。その上、ルマータは救いの手を差し伸べるどころか、カタストロフを引き起こすのだが……。
外部に立つ神とは、すなわち我々傍観者/観察者のことでもあり、いちばん始末に終えない災厄の真因であること。「神であることは辛い」という吐露は、悲惨を目前にしながらも何もなしえぬことへの卑下でもあろう。「だれも奴隷のいない土地など欲しがらない。奴隷と貴族の垣根が取り払われたところで、すぐに強者が弱者を虐げ始める」といった趣旨の台詞が、時代を超えて響いてきた。我々が神の共犯者としてある限り、ルネサンスはいまだ始まってはいない。「中世の秋」どころか、我々はいまだ中世の真っ只中にあるのだと。

5/1 TOWN「鯖虎果実酒商店」(横浜・石川町)
コッテリとした映画を観終わって、クールダウンしたくなりちょっと寄り道。ここ「鯖虎果実酒商店」は、シネマリンから我が家への帰り道の途中にあるとても小さな立飲みのワイン屋さん。下町色濃い住宅街にポツンと佇み、駅からも距離があるくせに、いつ行っても賑わってる。定番の「こぼれスパークリング」と「ハモンセラーノ」を注文。「こぼれスパークリング」とはフルートグラスに並々こぼれんばかりに、スパークリングワインを注いでくれて(通常の2杯半分)500円、辛口で美味しい!! ハモンセラーノだって、塊から皿一杯に切り落としてくれる。チーズなんかもわざわざ遠方から目当てに来る人もいるぐらい、逸品をそろえてくれている。だから、こんな場所に関わらず、人が集まるわけだね。いつもお世話になってます。

5/3 ART:『グエルチーノ展 よみがえるバロックの画家』@国立西洋美術館(東京・上野)
イタリア・バロック美術を代表する画家、グエルチーノ(1591-1666年)のわが国初の展覧会。カラヴァッジョが先駆けたイタリア・バロックを発展させた、絵画史上重要な位置を占める作家なれど、日本では一般にいままでほとんど知られていなかった。この画家が生まれ、活動拠点であったフェッラーラとボローニャの中間の町チェントの市立絵画館には、世界で最も充実したグエルチーノの絵画コレクションがある。ところが、2012年5月、チェントのあるエミリア地方を大地震が襲う。美術館の作品は消防士たちの手によって運び出され難を逃れたが、甚大な被害を蒙った絵画館本体はいまもって閉館したまま、復旧の目処も立たないという。そこで、被災した絵画は収蔵庫で眠るかわりに、震災復興事業として各地の美術館に貸し出され、収益の一部が絵画館復興に充てられることとなった。ボルツァーノ、ワルシャワ、ザグレブとヨーロッパ各地を巡りこのたび日本へ、グエルチーノの全貌が日本で初めて明かされるまたとない機会というわけ。
大作がいくつも並び圧巻だが、とりわけ惹かれたのは《聖母子と雀》。一見するとマリアとイエス親子が、指先に止まった小鳥を慈しむほのぼのした作品に見える。でも、聖母の指先に止まるスズメ、実は日本でよく眼にする普通のスズメではなく、ゴシキヒワというスズメの親戚。この鳥はアザミの実を食べることからキリスト受難の象徴とされている。それを踏まえて観てみると、それまで穏やかに見えていた小鳥を見つめる聖母の表情が、幼子イエスの迎えるであろう運命の暗示に青ざめているように見えてくる。
技法によっても表情の変化は高められている。首筋から頬にかけてのハイライトに比して、顔半分がつぶれるほどの暗いシャドー。この光と影の強いコントラストが、まるで上向いたときとうつむいたときの影の出来方で表情を変える能面のような効果を生み出している。
この強調された明暗の対比は、当然カラヴァッジョ譲りだが、同時代のラ・トゥール、さらに15才年下のレンブラントへと受け継がれたであろうことは、想像に難くない。でも、グエルチーノとレンブラントの強いコントラストには微妙な違いが隠されている。16世紀当時、勢力を強めるプロテスタント改革に対し、対抗宗教改革の立場から衆生にわかりやすく感情を掻き立てる宗教画を旨としたグエルチーノは、ドラマチックな効果をひたすら狙い高いコントラストを用いた。一方のレンブラントは、ドラマチックな効果の前に、光源のありかや角度を画面上に再現する緻密な計算がそのコントラストに表れている。
ニコラス・ウェイドは『宗教を生みだす本能』の中で、プロテスタント改革がドイツ語圏のドイツ、オランダ、スカンディナヴィア、イングランドに発し、ロマン語圏のイタリア、フランス、スペインなどから言語と民族を切り離す形で起こったことを指摘しているが、カトリックとプロテスタント、ロマン語民族とドイツ語民族の違いが、ドラマチックか厳密さかといったコントラストの使い方に示唆されていて面白い。

ボローニャ国立絵画館Ⓒ2015 The National Museum of Western Art, Tokyo
5/3 TOWN「池之端 蓮玉庵」(東京・池之端)
上野で蕎麦が食べたくなると、いつもは「池の端 藪蕎麦」にお邪魔するのだけど、この日は日曜日のため昼の3時で営業終了。グエルチーノに魅入ってしまい間に合わず、同じ筋にある「連玉庵」へ。店内は今風にリニューアルされているけど、店構えは創業安政六年の老舗を偲ばせる(市松格子の引き戸がかわいいね)。蕎麦の味は極めてオーソドックスでこれといって言及することはないが、ビールの小瓶を頼んだら、黙って小瓶のエビスが出されるあたりはさすが。ビンのエビスって久しぶりだな、てんぷらをつまみにしばし至福。

5/5 ART:『石田尚志 渦まく光 Billowing Light』@横浜美術館(横浜・みなとみらい)
絵巻のように細長くスクロールする画布。這うように、絡まるように、枝分かれし縦横に伸び続ける線描。その増殖の軌跡を映像へと写し取ることで、絵画に「時間」を織り込まれた作品たち。しかし、その「時間」とは決して直線的に途切れず連続するような物理的な時間ではない。そうしたリニアでシーケンシャルな持続性に対して、ランダムで瞬間的な“時”の編み物、美にまつわる刹那の集積こそが石田の特徴といえる。
特に顕著なのが、水の噴霧器で砂やアスファルトの上に抽象的な形象を描くライブペインティング。描かれたそばから乾き立ち消えてゆく水跡は、まさに“刹那”に戯れる美の軌跡だ。
さらに、椅子がポツンと置かれた室内に窓から差し込む光、時の経過とともに移ろう光線は、壁面や床にドローイングされた線描と絡み合いながら、時間と空間をよりあわせるかのように新たな次元を呼び起こす。美とは光と影のコントラストに宿る瞬間のことだと、改めて認識させてくれた。
Web: 石田尚志 渦まく光 Billowing Light

5/10 CINEMA: 『クレヴァニ、愛のトンネル』@シネマ・ジャック&ベティ(横浜・若葉町)
女の子を撮らせて定評のある今関あきよし監督が、今回も未来穂香という原石を得て、愛の物語を撮り上げた。未来穂香ちゃん、撮影当時は16歳だったということで、ほんと可愛くて劇中に「天使かと思ったよ」という台詞があるけど、まさにそのもの。
しかし、私にとってこの映画の主役は実はほかにいる。それは何かと言えば、映画中に使われるもうひとつの画像である8ミリフィルムの映像のこと。未来穂香演じる女子高生の一葉(ひとは)と禁断の恋に落ちた新任教師の圭、彼は一葉との淡き時間を止めようとするかのごとく、8ミリフィルムに彼女を収め続ける。その映像が、随所に効果的に使われているのだが、これが何とも眩しい! ジーシャカシャカシャカシャカというパーフォレーションを送る機械音。撮影速度18コマ/秒の独特な時間の流れ。8ミリフィルムならではの狭いラティチュードによる白とびや黒つぶれと色合いによる夢や記憶の中のようなハレーション。突き詰めれば、ここでも光と影、コントラストこそが重要な役割を演じている。
終映後、会場に来ていた今関監督に、8ミリカメラを実際に回して撮影していたのは誰かと(映画の中では教師の圭が撮っている設定だが)聞いたところ、基本は監督本人が回しているとのこと。なるほど、ある年齢(?)以上の監督たちは、学生時代には8ミリで映画を撮り、現像したフィルムを明かりに透かし覗き込みながら編集し、そうやって映画を手作りしてきた。だからこそ、露光範囲や現像の焼きしめ具合なんかもある程度感得していて、どうすれば映像をキラキラさせられるかなども身をもってわかっている。その辺りが、ビデオで手軽に撮れてしまう、編集や効果なんかもデジタルで簡単に処理できてしまう、いまの世代と分かつところ。監督曰く「ときどき、一葉がホントに撮った場面も使ってるけどね」とも。どれがそうなのか、もう一度観て確かめたくなった。

5/23 STAGE: 赤レンガ倉庫ダンス・ワーキング・プログラム1 舞踊史講座『ダンスの歴史と現在』@横浜美術館(横浜・みなとみらい)
3月にキックオフパフォーマンスが行われたイベントの本番プログラムのひとつ。中村恩恵さんがゲスト講師に文芸評論家の三浦雅士氏を招いて、古今東西のダンス談義を繰り広げてくれた。
人類の発生・移動、習俗や環境の違いによる所作への影響、東西の振りの差異などから、バレエリュスやイサドラ・ダンカンを経てアメリカンモダンダンスへ、そしてそれがヨーロッパにどう還流したか。なぜオランダとベルギーが焦点となったかなどなど、相変わらず手振り身ぶりを交えての熱弁、三浦節炸裂。これ自体、パフォーマンスだよね(^^;)。熱心に“ダンス”を語る三浦さんに久しぶりに会え、楽しませてもらいました。
60年代の何でもあり状況を経て熱死してしまったかのダンス界に起こり、すぐに終息してしまったミニマルムーブメントの中で、なぜアンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケルが生き残ってきたか。それは彼女がミニマルを単調さではなく、身体の強さとして引き受けたからという三浦氏の分析は興味深い。

5/29 ART: TRAUMARISクロージングシリーズ『自家発電ナイト2015』@TRAUMARIS(東京・恵比寿)
私が子供だった60年~70年代、住まいがアングラの本拠地・新宿の近くだったせいもあり、“事件”の目撃が日課だった。マセガキだった私は小学生の分際で生意気にも状況劇場の赤テントに潜り込んだり、新宿フォークゲリラに参加したり、ジャズ喫茶で大声でしゃべって怒られたり。街は劇場化しアートや演劇が繰り広げられ、いつ「天井桟敷」の役者が自宅の玄関をノックしてもおかしくない、毎日がまるで祭りの見世物小屋、何でもありのごった煮のようだった。
でもやがて、何でもありの結末は、先の三浦雅士氏のダンスの歴史の解説にもあったが、文化的なニルヴァーナに行き着いてしまった。やり尽くされた後の枯野の中で、コンセプチュアルだとかミニマルだとか、みんな何だか頭でっかちになってしまった。沈思黙考に入ってしまった。もちろん、だからといって感動や刺激が無くなったわけではない。“静かな演劇”にだって、ワクワクしながら魅入ったものだ。でもどうしても、一抹の寂しさはぬぐえない。祭りの境内からいつか知らぬ間に、見世物小屋が姿を消してしまっていたように、あのハチャメチャで扇情的な“事件”たちはもう、遠い日の花火でしかないのか……。
大層なボヤキから始めてしまったが、ところがどっこい“事件”は起こってた! TRAUMARIS好例の『自家発電ナイト』、回ることで人工発電するポールダンスマシンを駆使する孤高の覆面ダンサー<メガネ>が、照明やラジカセの電力を<カラダをはって>踊ることで供給、その間、ゲストパフォーマーたちが“出し物”を繰り広げる圧倒的一夜。あえてパフォーマンスではなく、“出し物”と呼びたい。<メガネ>姉さんの、ぶっ通しで回り続ける体力も凄いが、タダでさえ曲者ぞろいの出演者たちが、普段は真っ当な場所では披露できないようなネタで挑む。時間が押そうが、いろんなモノが飛び交おうが、帰る客はあろうはずが無い。久しぶりに、見世物小屋の興奮に浸らせてもらった4時間超だった。
ここTRAUMARISは諸般の事情から、6月でcloseしてしまう。でもお願いだから、『自家発電ナイト』はどこかできっと続けてください、ねっ!!
出演:メガネ(発電ポールダンサー)、菅尾なぎさ(クリウィムバアニー)、青山健一 (画家、渋さ知らズ)、長井江里奈、宇治野宗輝、川村美紀子、ケンジルビエン(BABYQ)アンダーウエアー、珍しいキノコ舞踊団、明和電機、大トリ??(未定)

寄稿家プロフィール
ふかさわ・めぐみ/CMクリエイター、アート映画ディストリビューター、舞台公演企画、雑誌へのコラム執筆、社会学講師等を経歴。その間、子供時代から続く劇場や美術館通いは止んだことが無い。著書『思想としての「無印良品」』千倉書房