COLUMN

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Tokyo Review

第7回:公開トーク『批評・レビューとメディアをめぐって』
畠中実+佐々木敦+東谷隆司+大西若人+澤隆志
Date: March 16, 2012

REALTOKYO×Tokyo Art Research Labが共同で企画運営する批評家・レビュワー養成講座「『見巧者』になるために」。2011年秋に5回にわたって開催された一連のプログラムの総括として、ゲストライターとして参加した各氏が一堂に会してディスカッションを行った。批評とレビューの役割、またカルチャーシーンを取り上げるメディアのあり方とは?

 

司会:小崎哲哉

畠中実+佐々木敦+東谷隆司+大西若人+澤隆志(司会:小崎哲哉) | REALTOKYO

小崎:今回の5人のゲストの方には、昨秋開催されたイベントのレビューをそれぞれ書いていただきました。まずは皆さんの批評観、レビュー観を聞かせて下さい。

 

内発的なものにこそ意味がある

畠中実 | REALTOKYO
畠中実

畠中:批評とレビューは少し違いますよね。スタイルは字数や媒体によっても違いますし、もちろん求められるものによっても違ってきます。この講座では4,000字の原稿を書きましたが、それは批評とレビューの中間っぽいもの。書きたいことが書ける字数ですが、批評として内容が詰まったものを書こうとするとやや足りない感じがする。対象となる作品のことをできる限り正確に伝えたい、という一方で僕が観たというフィルターを通さないといけないし、観たという体験について書かないといけない。例えば原稿の依頼には、観たことを知っていて依頼される場合と、これを観て書いて下さいという場合の二通りがあり、先に観て「面白かったから書きたい」という場合はいいんですけど、引き受けた後に観る場合は困ることもあって。マズいの頼まれちゃったなぁ……ということもある(笑)。依頼される内容によっては書くことを憚られるような部分もありますが、批判するにしても建設的に書くように努めています。これがダメ、あれもダメという、けなす人がよくいますが、僕はそういうスタイルを取っていません。レビューは何かしら観る人にとって参考になるというか、ためになるものとして伝えたい。批評は作品について書くんだけど、そこからもっと広く深いことについて言及できるようなものですね。

 

佐々木敦 | REALTOKYO
佐々木敦

佐々木:『「批評」とは何か?』という本にも書きましたが、僕はレビューも批評の一種だという立場です。批評ということについて、一般的な理解とはズレた定義付けをしているかもしれませんが。僕はこの中で唯一、フリーランスの売文業者で、つまり何かを観たり、聴いたり、読んだり、体験したりして、それについて書くことによって対価をいただく仕事です。なので、例えば音楽だったら、それを読んだら聴きたくなるようなレビューを、すでに聴いたことがある読者だったら、もう1回聴きたくなるようなレビューを書きたいと思っています。批評には未知なるものの紹介や新たな経験への誘惑の機能もあると思っているからです。今回は演劇について書きましたが、公演をやっている期間中に劇評が公開されて観に行きたくなるという機能もあるとは思いますが、どうしても終わった後に公開されるということが多い。そうすると、さっきの目的は果たせないわけですが、次の作品が上演されたら観に行きたくなるようなレビューを書きたいなというのが、素朴な欲望としてあります。僕は音楽レーベルもやってますが、批評される立場から言うと簡単です。褒めてくれてるレビューはうれしいし、褒め方が上手ければなおのことうれしい(笑)。

 

東谷隆司 | REALTOKYO
東谷隆司

東谷:僕は現代アートに関わっていて、展覧会を作る立場にいますが、展覧会も一過性のもので、演劇と近いものがあると思います。展評を載せている雑誌は少なくて、『美術手帖』とか、月刊だと1ヶ月くらいのタイムラグが発生しますから、レビューが載るころには終わってるんですよ。さっき畠中さんが言った、書きたいから書くのか、頼まれたから書くのかというのが本当に大きな違い。僕は頼まれて書くものは遅くなっちゃう。「何でこれについて書くんだろう」って悩んでしまい、書けなくなってしまう。それで一時期、自分の書きたいものについて勝手に書いて編集部に送るようになりました。「霊的な依頼を受けた原稿を書き上げました」とか言って。それでどんどん早くなって、ついには始まっていない展覧会についても書いちゃった。そうやって、送りつけた原稿が載ったことは一度もなかったなぁ。その代わり心配された(笑)。伝説的なキュレーターのハラルド・ゼーマンが「いちばん素晴らしい美術館は脳内美術館だ」と言ってましたが、美術館やギャラリーの告知だけ見て、こういう展覧会になるんじゃないかと僕の脳内で出来たものについて書く。どこも載せてくれないからmixiとかでばんばん書いていたら、作家さんが読んで、その後『美術手帖』から連絡が来てその原稿が載ったこともあるね。「スポンテイニアス(自然発生する/自発的な)」という言葉がありますが、僕は内発的なものにこそ、意味があると思っています。

 

佐々木:観る前に書いちゃって、その後で実際に展覧会を観に行くんですか。

 

東谷:そうそう。観に行って、「オレが書いたものを超えてない。つまんないな」と。作家から電話があってコンセプトを聞いて「面白そうだねぇ!」って観に行くと、想像を全然超えてなくて、「オレの脳内美術館の作品のほうが断然面白い、観て損した」とか思ってると、だんだん展覧会場行く回数が減っちゃうんだよね(笑)。

 

「掴み」と「落ち」は意識する

大西若人 | REALTOKYO
大西若人

大西:僕は批評かレビューかというのは、そんなに厳密に考えていません。新聞評という独特なものが存在していて、映画、演劇や音楽などほかのジャンルは評論家が書くことも多いのですが、どの新聞も美術は記者がだいたい書いています。純粋に批評ではなくて紹介を兼ねているので、展覧会の場合、終わった後に載せることはまずないですね。『美術手帖』だったら美術好きな読者が多いと思いますが、新聞はそういう人はごく一部。1面を読んでいる人がたまには文化面も観て、展覧会評も読んでくれるというのが理想です。実際は特定の、いつも読んでいる人が読み続けるんだろうと思いますが、そういう人に対しても開かれたというか、わかりやすく書けと言われています。雑誌は定期購読もありますが、立ち読みして面白いと思ったらお金を出して買うというのが一般的でしょうが、新聞はほとんど定期購読。あらかじめお金をもらっているので、払ってくれている読者の代わりにいろんな場所に行って、代わりに観て、代わりに伝えましょうという意識があります。作り手も意識しますが、やっぱり読み手を意識して書きます。北海道から沖縄まで行き渡る記事の場合、東京だけで開催される展覧会について書いても大多数の人は観られない。観た人も読むかもしれない、観ない人も読むかもしれないということを意識しないといけない。観た人が読んで「なるほど、こういう見方もあるのか」と、意見が違っても違うなりに納得してもらえるようなもの、観ない人にとっては「世の中ではこんなことが行われているんだ」と思ってもらえるのが理想型です。4,000字は長いか短いかという話がありましたが、新聞は高齢者対策で文字がどんどん大きくなっていて、同じスペースをもらっても入る字数が減ってきて、また新聞がカラー印刷になって写真も大きくなるとさらに文字が減る。昔は1本1,200字くらい書けましたが、いまは900字くらいですね。4,000字はけっこう身構えます。長い原稿が非常に苦手になってしまいました(笑)。今回ミミズの話を冒頭に持ってきたのは、やっぱり「掴み」が重要だと僕は思っているんです。そのものに興味のある人だけじゃない、いろいろな人に読んでもらいたいから、「掴み」と「落ち」は意識しています。しかもその「掴み」が対象の本質と連なっていることが望ましい。今回のミミズが、そこに達しているかどうかはわかりませんが。

 

澤隆志 | REALTOKYO
澤隆志

澤:商業映画の場合、書く人たち向けの試写があり、その人たちが書いたレビューなり批評なりを読んで、一般の人が劇場に行くというスタイルが出来ています。前の仕事場に劇場もあったので、配給や宣伝の担当者と話す機会がありましたが、長いレビューを読んで観に行く人もいれば、誰か著名な人がひとこと言ったからというのも多いそうです。映画祭をやっているのは、あんまり観る機会がない作品を上映しようということで、試写の機会も基本的にはないのですが、YouTubeに作品が上がっている場合もあります。脳内美術館に近い脳内映画祭というのは、そこにリンクすれば出来る。YouTubeで見つけたものを映画祭の中に取り入れることもあるし、劇場では映画の批評をしてもらう立場でしたが、宣伝方法はネットが普及してだいぶ変わりましたね。

 

小崎:批評とレビューの違いについて、「批評は作り手に向けて書くべきもの、レビューは観衆・聴衆に向けて書くべきもの」というふうに僕は教えています。実際には両方がないまぜになって、その割合が原稿によって違うというところでしょうが、いかがでしょう。

 

東谷:その通りだと思います。批評って何のためにあるのか。けなすためだけの批評なんて簡単で、褒めるのがけっこう難しい。けなすのはいいけど、じゃあどうすればいいのかという建設的な意見を盛り込まないと批評の意味がない。と同時に、批評するということは、「なぜお前がそれを批評する意味があるのか」ということを常に突き付けられている感じがします。「ここがよくない。もっとこうするべきだろう」と言うのが批評家の仕事で、作り手は、それを受けて高め合っていくという弁証法の一環。レビューは、お誘いというか普及的な意味合いが強いと思いますね。

 

佐々木:前に3331で小崎さんとトークをしたときにも、その違いについて話しましたよね(「東京の仕掛人たち」第6回)。第一義的には潜在的なリスナーや観賞者に向けて書くと話しましたが、僕は批評がいろいろなものの中に在ると捉えているようなところがあります。レビューには紹介とか宣伝という要素があって、本人にはそういう気持ちがなくても、ある種そういった形で使用されることがあるし、単純に文章の中身がどうなっているかということだけでなく、どういうメディアに掲載されるか、どういうコンテクストで受け取られるかということによっても違ってきてしまう。たとえ短いレビューであっても、単純な紹介・宣伝ツールには収まらない剰余価値のようなものを、様々な制限下で、書き手の個性みたいなものも含めて文章の中に出していくということがレビュワーの存在価値になってくるのかなぁという気がします。最近お芝居のアフタートークに呼んでもらうことが増えたんですが、それは初日が多いんですね。なんでかというと、初日に観てしゃべってTwitterでわーわー書くと、ちょっとは客が増えるんじゃないかという期待があるようで。それも別に不名誉なことじゃないからいいんだけど、どうしても集客というものと分かち難く結びついていると思ってしまう。でも、そこを毅然と切り離して、純粋批評的に独立してやるというのはアカデミズムでさえ難しいと思います。だから、批評とレビューは分けられない、あえて分けずにやってきたというのが正直なところです。もちろん作り手に読ませたいということも常に考えていて、批評対象から何らかのレスポンスがあるとうれしいです。でも、ここをこうするともっとよくなるよというダメ出し的な批評は、僕はあんまりやらない。それをやっちゃうとこちらが作り手になってしまうという感覚があって、それは批評とは別のことだと思う。自分では表現をしないのに表現について語るという、ある種の無責任を、どのぐらい責任を持ってできるのか。それが批評の自立した根本的な意義だと思っているからです。作り手に具体的なところで助言したいことがあったら僕は直接メールします。

 

東谷:僕も同じ。いちばん純度が高いのは現場に行って作家に会って直接言う。作品を批評するのと展覧会を批評するのは別のことで、僕は作品よりも展覧会について評することが多い。でも、言われたからってすぐ直せるものじゃないから、おそらくこうしたほうがもっと良かっただろうというような言い方です。

 

畠中:僕も個人的にはそういうことを言うことがあるんだけど、それは批評文とは別ですよね。「もっとこうしたらよかったのに」とか、それは知り合いだったら言いやすいけれど。でも、文章としては絶対書かない。やっぱり言うことと作ることは違うと思うから。

 

公開トーク『批評・レビューとメディアをめぐって』 | REALTOKYO

批評の本質は「ダメ出し」にはない

佐々木:東谷さん自身がキュレーターで、同じ枠組みでの展覧会をキュレーションする可能性がゼロじゃない。だからそこは作り手の感覚の中で「オレだったらこうするのに」っていう話ですよね。それは畠中さんも同じ立場だったらあるんじゃないのかな。僕は批評家で、そういうところから完全に切断されちゃっているということを良くも悪くも自覚しているということです。例えば書評の場合に「なかなかいい小説であるが、最後だけちょっと惜しい」とか、基本的なトーンとしては褒めてるんだけど、付加的に注文も言っておくとか、そういうものが批評だと思われているところがあって、音楽レビューなんかでもよくありますよね。あるCDを、最初は褒めているのに、最後に「だが……」って、よくある(笑)。そのダメ出しが的確であるかどうか以前に、そういう次元とは別のところに批評の本質があると僕は思っています。仮にそのCDに何かマイナスな部分があったとしても、それがなぜ生じたのかということを考えるのが批評だと思う。「ここ変えればいいじゃん」っていうのはダメ出しであって批評じゃない。

 

東谷:まったくその通りですね。建設的じゃないと批評の意味がない。ちょっと整理すると、いま言われている「批評」という言葉は、「批評性」と「批評文」の両方がゴッチャになってますよね。「批評性」として純度が高いのは、文章ではなく、作品を目の前にして作家に言うことだと思うけど、「批評文」は文芸でもある。僕は佐々木さんが紹介したいものについても知りたいけど、佐々木さんの文章や文体も楽しみたい。佐々木さんが言ったことから思い出しましたが、飴屋法水さんの『バ  ング   ト展』(2005年)の展示の仕方が、最初見たときに、「ひどいな」と思ったことがあった。だけど、演劇をやっている飴屋さんの作品を、美術の視点から観ることが間違っていたんだなと後で思った。美術としてしか観られない自分の間違いに気付いたんです。

 

大西:佐々木さんの「だいたい褒めて最後にけなす」というのは、昔の新聞にも多かったように思います。媒体によって違いがあるとはいえ、批評を書く機会があるということは、権利であり権力なわけです。実は自分に自信がないから、本質的なことはけなさずに、例えば「照明が物足りない」とか、最後にちょっとだけ書いて、いかにもわかってる風に振る舞っているという場合があると思うんです。でも、本格的にけなすのは新聞としては難しい。褒めるのは1行でもいいでしょうが、けなす場合はそうはいかない。けなされた側も読者も「なにがどうして?」と思うでしょうから、懇切丁寧に字数を割いて論理的に説明する必要があり、文字数が少ない新聞ではなかなかできないんです。新聞記者は批評だけ書くわけじゃないので、誰かが文化勲章を受賞したら必然的に書かなければいけないし、普段からその人をけなしてばかりいたら、書けなくなっちゃうということもあります。もう1つは新聞社が展覧会を主催する場合。自社がらみの展覧会の批判は書けず、ウソのない範囲で、「素晴らしいから観に来て下さい」というお薦め記事に仕立てることが求められる。逆に、ほかの新聞社やテレビ局主催のものは気楽に書けます。

 

佐々木:制度的な問題ですよね。海外だったら、ジャーナリズムも芸術も、それぞれ独立性がある程度以上確保されているからいいけれど、日本みたいに全部一緒になってしまうと、自社がらみのイベントは褒め方にも歯切れが悪くなりかねない。それは、いろんなレベルでどうしても起きちゃうことですよね。僕は朝日新聞の書評欄の「売れてる本」というコーナーを月1回書いていますが、売れてる本しか書いちゃいけないんです。僕はいつのまにか日本文学が専門になっていて、そうするとだいたい同じような顔ぶれになってしまう。部数をちゃんと調べて「この中から選んで書いて下さい」という依頼で、すでに売れてる本を新聞で紹介すると、さらに売れるというすごい状況が生まれるわけです。「いったいなぜこの本が売れてるんでしょうねとか、この本が売れているのはいかがなものかしら的ニュアンスをほんのちょっと入れてもいいのですか」って言ったら、「いいですよ、全然」っていう話だったのに、実際やろうとするととても無理。依頼されても、どうしても好きになれなくて、書くとストレートに批判になっちゃう本はやらない。過去2冊くらいありました。文字数がもっとあればいろいろなことができるとは思うんだけど。

 

澤:字数が少なくて書けないというのは、映画のチラシでもそうですね。批評はまず載せられないし、レビューもどんどん短くなって、ひとことというのが多いです。以前イメージフォーラムで『フェリーニ映画祭』をやったときに、チラシに大きな文字で「フェリーニってすげえぞ(オダギリジョー)」って……(笑)。

 

東谷:映画のチラシにある「素晴らしい!…ヴァニティ・フェア」とか、何なの、あれ(笑)?

 

Twitterをどう使うか

小崎:Twitterはどうでしょう。いっぱい書く人も、まったく書かない人もいるでしょうけど。

 

佐々木:僕は観たものについてできる限りすぐに書くようにしています。速報性という点で、さっきも話したように、印刷媒体だと、どうしても出たときにはすでに終わってたりとか、タイムラグが生じますが、ネットはそういうことがない。Twitterも、反射的に罵倒できちゃうし、いい部分、悪い部分があると思いますが。お芝居の初日に行って、「これ、すごくいいよ」って書けば、ちょっとは客が増えるかもと思うし、真逆に「これは観るに値しない」っていうことを激烈に書いたら、もしかして客が減るかもしれない。そういうことは起きていると思うし、いろいろ気を遣わないといけないことも多いのは事実です。ただ、批評というものは、別に批評家やライターになるということでなくても、ある種の批評精神というものがあったほうがいい、反射神経みたいなことが重要だと思っていて、1枚CDを聴いて、終わった瞬間に何かを書きなさいとか、映画を観終わってすぐ書きなさいとか学生に言うことがあります。ゆっくりじっくり考えて調べて書くのも重要だけど、一方で、観賞したり体験したりしたときに即発的に、価値判断をして、思考をめぐらせて、他者に説得的な言葉で書くことができるのかという訓練はいいことだと思うんです。大学の授業とかでも、毎週音楽を聴かせてその場ですぐ書かせたりしたことがあったし、そういう意味でTwitterは面白いなという気はします。読み手側としても、僕はフォローはゼロですが、リストには入れていて、検索機能もあるから、「これ観に行こうかな、どうしようかな」というときに検索かけると観た人の感想が出てくるじゃないですか。それで何かの傾向はわかる。ただ、間違えちゃいけないのは、それが全部だと思っちゃうとまずい。8割の人が貶して2割褒めているときに、2割褒めてる人っていうのがいい人かもしれない。依頼や経済的な対価がなく書けてしまうネットのメディアは、書く動機のハードルの高さが依頼原稿とは全然違う。単純に「ムカついた」とか、そういうことかもしれない。そういう人がいっぱい書いてると、必然的にタイムライン上には批判が多くなる。そういうことをわかっておかないと間違えることもあります。

 

澤:映画祭はTwitterをよく使うんですよね。僕らの映画祭もそうだし、先日行ったロッテルダムもそう。映画の上映前に、お客さんのツイートがリアルタイムでどんどん上がってくるというのを見せる。空気感で、「映画祭がいままさに動いている、盛り上がってる」という雰囲気作りですよね。反射神経を持って何かをしている人がこの場にいっぱいいるよという空気を出すようにしています。

 

小崎:いまの話で思い出したんだけど、ひとつは速報性について。昔のブロードウェイは『ニューヨーク・タイムズ』の記者がゲネプロか初日を必ず観て、その日の内に劇評を書いて掲載すると、それが翌日以降の興行成績を決めるという話がありました。日本では、それとは比較にならないくらい小さなメディアですが、80年代に小森収さんたちが『初日通信』という週刊ニューズレターを出していた。コアな演劇ファンが熱烈に支持していましたが、最初はハガキから始まったという話を聞いたことがあります。もうひとつはSNSの可能性について。東浩紀さんが、昨年刊行した『一般意志2.0』という本の中で、「ルソーの言う一般意志は、現代のTwitterやGoogleなどによって汲み上げることが可能になった。これからの民主主義は、そうしたデータをもとに形成されていくのではないか」、乱暴に要約すればそう主張している。これは批評やレビューのあり方にも関連するのでは?

 

畠中:読者のリテラシーもあるかな。僕は、こてんぱんにけなされている作品は逆に観てみたいと思う。レビュワーの言ってることが本当なのかどうか、やっぱり確認したいじゃないですか。それから、ある特定の書き手がけなしているんだったら、逆に観に行こうかとか。

 

東谷:mixiとかFacebookとか、これまでもいろんなSNSがあったけど、Twitterだけは誰かがこんなこと言ったとかいうことがあたかも公式コメントであるかのように話題になる。検索エンジンに引っかかるからだけど。僕は、Twitterは完全に遊びと割り切ってますね。自分のための記録でもあるけど、あれが批評になると意識したことはないです。だいたい「つぶやき」っていう訳し方もイヤ。「つぶやき」じゃないでしょ、「発言」でしょ。「つぶやき」って便利な言葉を使って言いにくいことを言ってるような感じがする。僕にはTwitterは、遊びと、あとは告知。Twitter上の批評は僕もやらないし、求めてもいないかな。

 

大西:新聞社は取材源の秘匿ということがあって、取材で知り得たことをみだりに記事以外で書くことはルールとしてよくないんです。そういうこともあるし、朝日新聞社の記者であることがわかると、それは記者として言ってるのか、個人として言ってるのか判然としなくなる。というわけで、ある時期まではTwitterをやるなと言われていたんです。ですが1、2ヶ月くらい前になって、急に、これからは記者もTwitterをやろうと。いまは「Twitter記者」に指定された人が書いてます。でも、公式感があるから、あんまり個人的な思いは書かないでしょうし、批評性みたいなものにはつながりにくいと思います。僕も佐々木さんや畠中さんのように参考にはしますし、澤さんがおっしゃるように空気感というか、何となく乗り遅れちゃいけないというのはあるので、そのツールとしてTwitterを参考にすることもあると思う。佐々木さんの「売れてる本」というのも「ほら、乗り遅れちゃいけませんよ。こんなに売れてるんだから」っていうようなことを新聞社がやるようになったともいえます。昔の新聞社はもうちょっとエラそうだった(笑)。ほっといても新聞が売れて気楽だったけど、いまは売れなくなっているし、ユーザーの顔を見ながらということがあるのでしょう。『家政婦のミタ』がそんなに面白いドラマかどうかわかりませんが、やっぱり乗り遅れちゃいけない。だんだん情報寄りになってますね。

 

公開トーク『批評・レビューとメディアをめぐって』 | REALTOKYO

意外に役立つ研究者のブログ

小崎:批評やレビューを書ける場所が少なくなってきていますよね。澤さんがやっている映画祭、畠中さんがやっている展覧会などは、そもそも実験映画やメディアアートを扱う媒体があまりない。媒体が少なく、対象がコアなものであればあるほど、好きな人がTwitterでつぶやくというのが多いんじゃないでしょうか。それが無視できない質と量になっているんじゃないかと想像しているんですが、どうでしょう。

 

澤:作家がウェブサイトを持っていて、ブログを書いていることも多く、短編映画だったら自分のウェブ上にアーカイブを作って見せることもできちゃう。批評もそこに載っていて。批評もある種のインターフェイスだと思っているので、つながりを作ることはできます。美術のほうのタイムラグは、映画に試写があるように、開催の少し前に作家やギャラリストが発言する場所がネット上にあれば、先に知ることができるんじゃないでしょうか。

 

畠中:ブログはけっこうやっている人がいますね。批評を発表する場がないというのはライターよりも研究者だと思うんですよね。研究者の個人ブログを読むと、学会誌とかに書いた長めの論文などが掲載されていたりして、それはけっこう役に立つんですよ。一般誌にはそういう専門性の高い、文字数の多いものはなかなか載らない。でも、それがまとまってネットに載っているのは非常に便利。かゆい所に手が届くじゃないけど、自分が知りたいものは多くの人が読みたいものではない。それで、誰かの何かについて詳しく書いてあるもの、どっかにないかなと思って探すわけですが、ネット上で雑誌などの媒体ではなかなか見つからないものが読めるのはためになるし、僕は参考にしています。

 

小崎:批評媒体が減ってきた中で、佐々木さんが連載している『新潮』のような文芸誌や、『表象』という表象学会が発行する学会誌が積極的に批評を掲載・発表し始めました。ハードコアな現代アート誌『ART TRACE PRESS』も昨年11月に創刊され、その動きは歓迎すべきではあるけれど、一方で、もうちょっと手軽に読めるものがあればとも思う。大西さんがおっしゃったように自社がらみのイベントは批判できないというのは、理想主義的に「そんなんじゃダメだ」って言うのは簡単だけど、現実的には変わりっこないじゃないですか。そういうことも含めて、言説シーンに存在する政治性を読む側がわきまえていれば、豊かな結果が得られると思います。いい方法はないでしょうか。

 

畠中:さっきの『表象』は年に1回しか出ない学会誌なんですが、学会誌じゃないような体裁になっていますよね。もうちょっと発行頻度が上がるとまた変わってくるかもしれないですが。

 

澤:特に東京は同時にたくさんのイベントが開催されていて、興味がかなり重なる部分もあり、そういうのをつなぐ人がレビュワーなのかディレクターなのかわかりませんが、必要とされているんじゃないかなと思います。

 

東谷:最近そういう人まで「キュレーター」って呼んでますよね。だから僕は肩書きを「現代美術キュレーター」にしました。最近の傾向で、誰かのツイートをまとめてるだけの人とか、Togetterを作ってる人までキュレーターって名乗ってるから、同じように思われるの、イヤだから(笑)。

 

「人を選ぶ」メディアの時代?

小崎:書き手が生まれつつある状況にあるのかどうかも知りたい点ですね。皆さんに参加していただいたこのシリーズは「見巧者養成講座」と謳っていて、批評的な見方をする観賞者が育つといいなというところからスタートしています。佐々木さんは批評家であり、レビュワーを養成する講座をやってますよね。大西さんにも部下やスタッフがいて、それぞれ現場にいてどう思われますか。

 

佐々木:『STUDIO VOICE』とか、いわゆるカルチャー誌がゼロ年代にどんどん無くなった。理由はいろいろあると思いますが、無くなる過程の中でネットっていうものがどんどん浮上してきた。そういう交代劇みたいなものがあって、僕はいまの批評的なことをしたい人、できる人というのが、いるの、いないの、減ってんの? っていうのはぜんぜんわからないですが、でもカルチャー誌が無くなったことには理由があって、もう1回前と同じ状態に戻すことはどうやったって無理だと思うんです。ネットだったらタダでブログとか立ち上げて、好きなだけ書いて、さっき畠中さんが言ったようにすごいハードコアなものを熱心に書いている人もいる。でも、読んでくれる人がいないとモチベーションが持続しないし、やっぱり容れ物は重要です。かつてカルチャー誌が担っていたような役割が、そのままネットに受け継がれたかというと、そうではないと思う。そこで抜け落ちたものが幾つもあって、そこを埋めているものの1つがリトルプレスだと思います。カルチャー誌はほとんどが大きな会社の中の1媒体だったから、不景気になると同時にダメになったというのがわかりやすい説明ですよね。代わりにいまは、自主制作の同人誌的な形で、僕らがやってる『エクス・ポ』のような少部数の雑誌を作って流通させることも可能になった。コアな批評が載っているような雑誌は、もともと少部数だったんです。それを大きな容れ物の中で無理矢理成立させていたけど、いまやその容れ物が無くなったことは否定できない。その代わりに、簡単に雑誌や書籍が作れるようになって、面白かったらそういうものを求めている人が集まる店に置くこともできる。そういう方法論は、昔よりずっとハードルが下がっていると思うんです。なおかつ電子書籍も登場したわけだから、小さなメディアを無数に立て合いながら、その横をつないでいくことで、かつてのカルチャー誌が担っていた部分を補完するのが現実的な対応策ではないかなと思っています。

 

小崎:佐々木さんと僕がレビューを書いている『ケトル』という雑誌があります。40人のレビュワーが1人1ページずつ、何を書いてもいい。

 

佐々木:現状では奇跡的な雑誌ですよね。特集もあるんだけど、今回が「パン」で前回が「パンダ」って、ダジャレなの(笑)? レビュー欄は完全にお任せで、同じものを取り上げている人がいたりして、ほんとに自由だから逆に面白い。

 

小崎:1号目、僕と松井みどりさんが、森美術館で開催された『六本木クロッシング』展についてまったく逆の評価を書いた。ああいうのは面白いですね。

 

畠中:作り方がネットっぽいですね。『ART iT』がネットで個人ブログを集めてますが、締め切りがないから更新がまちまちになってしまう。でも、書籍としてまとめて出すというスケジュールがあれば、書きますよね。

 

佐々木:『CINRA』でも僕はいま、そういう何を書いてもいいレビューをやってます。書きたいものを勝手に書いて送ればいい。『ケトル』と『CINRA』は雑誌とネットで違うけど、やってることは同じで、つまり人を選んでいるんです。アイテムを選んでるんじゃなくて、レビュワーを選んでいる。で、そこから先は任せてる。その人選が編集側の創意で、結果として、いろんな人のフィルターによってバラエティが生まれている。

 

東谷:それは批評の究極ですよね。人を選ぶということは、結局「この人の言うことを聞きたい」ということで、僕が書くなら「僕はこう見る」ということなんだけど、それを発表するということは、さっきも言ったけど、「じゃあ、なんでお前がわざわざそれを言う意味があるの?」ということが必ず跳ね返ってきて、怖いんですよ。クリティック(批評)はクライシス(危機)と語源が同じとよく言われます。自分を表明することはものすごく危ういことであり、恐ろしいことである。僕は、自分のことを「批評家」と名乗ったことはない。なぜなら、怖いから。僕はその「なんでお前が」という問いへの答がまだ用意できていないんです。「それはブログやTwitterでやってる人とどう違うの?」っていうことに対して、例えば「私はこういうバックグラウンドがあって」というものが文章の中にないと、答えづらい。だから、精神分析医とか建築家とか、肩書きが違う人のほうが展覧会の評を頼みやすい。「精神分析医の視点から書いて下さい」ってね。佐々木さんくらいアクティブで、キャラやテイストがある人なら読んでみたいと思うけど、よく言われる「批評の不在」ってことでなく、「なんで批評するのか」っていうことに答えられない、満たしてない人が多い。経済学者とか美術とは違う分野の人が展評を書いたりしてるの見かけるけど、読んでてぬるいだけのが多い。美術やってる人からすると、「なんでこんなこと書いちゃってるの?」って。「門外漢なので」っていう前置きつけて書いてるものとか、まったくその通りで、話にならないの、多いね。

 

大西:新聞社に入る人の多くは批評を書きたいと思って入社するわけじゃなく、大多数は報道に関わりたいわけで、報道記事の書き方はよく学びます。コンパクトに情報量を多く、紙面には制約があって削られることもあるから、大事なことから些末なことへ逆三角形に書く。だから、ミミズの話なんて書いてちゃいけない(笑)。そういう修業はずっとしているので、何か起きたときにその手の原稿を書く訓練はされています。たまたま文化部に配属になって、たまたま映画や美術について書くことになって、その中で評を書く機会があったり、なかったり。最初にそういう訓練をするから、よく言えばわかりやすい、悪く言えば批評らしくないことが多い。さっきの話で人を選ぶというのは、その人がカルチャー雑誌の役割を果たすのではないかと思います。

 

東谷:突き詰めていけば、人がメディアですよね。

 

編集の在り方が変化している

大西:様々なツールが登場して、誰でも発信はしやすくなっていると思いますが、問題は批評が求められているのかということ。私にはよくわからないんです。

 

畠中:媒体が無くなるというのは日本経済の問題もあるけど、読者が少なくなるから回らなくなるという、悪循環みたいなものもあるかな。それと関係するのかわかりませんが、最近こういうしゃべったりする場が多くなっているような気がします。読むというよりは集まる場というか、そっちに比重が傾いているのかなとも思えます。

 

佐々木:批評やレビューが成立する、その前提としてエディターシップがあると思うんです。雑誌を成立させるエディターがいるわけで、編集というものの在り方自体が変化してきている。さっきの『ケトル』はある意味で丸投げなんだけど、その前にレビュワーを選ぶというところにエディターシップがある。そういう変化がいろんなところで起きていて、他にも応用できることがあるような気がします。批評は求められているのかというのは、僕が自分で批評を書いて生きてますということから言うと、批評はもともと特に求められていたわけじゃないんじゃないか(笑)。批評って何らかのニーズに応えるものとして登場するものではないと思うんですよ。何かを観たり聴いたり読んだりしたら、それについて考えちゃうから、考えちゃったことをせっかくだから外に出したり何か残しておきましょうということになる。だからTwitterでもいい。だけど、ほかのことをするよりそれをしてお金がもらえるなら助かるからやってますということなんです(笑)。批評的なものが載っている媒体がどんどん減っていることで読まれる機会が減っているとしても、それは批評を取り巻く環境とか、インフラが変化しているということなんだと思います。もともと批評は寄る辺ないものであって、批評を書こうとする側の心意気の問題もある。ネット上で読めるものでもすごい批評があるし、オーソライズされた原稿でも、なんじゃこりゃっていうのはある。かつてもそうだし、いまもそうで、これからもそうだよねって思っています。

 

東谷:スポンテイニアスなもの、要するに言いたいことを言いたくなっちゃう。それが根本にあると思います。いいもの観た、説明したい、だけどどう説明したらいいかわからない……って、それを一所懸命考える作業が批評でしょ。言語化できない要素を含んでいる美術などを文章にするのはどういうことかというと、共通してみんなが認識している言葉じゃない自分の言葉を使うことが次の新しい概念になり得るわけですよね。1つの作品を観て、自分はこう思った。これはこういうことなんじゃないかって、その認識がもっと流通することによって、その価値観が確たるものになる。「文化」っていう言葉は、「文に化ける」と書く。作品を作るだけでは文化ではない。文に化けさせることでカルチャーになるんだと僕は思います。だから、モチベーションがスポンテイニアスでなければ意味がない。そうでなければ残らない。僕はお金もらって書く文章よりタダで書く文章のほうがはるかに多くて、自分で書いた原稿もスキャンしてmixiに載せて勝手に読めるようにしてるし。僕の『変態とは何か』という論文がネットに載ってますが、僕にとってはそうやってPDFとかにしてタダで配るほうがいいんです。なんでWordじゃなくてPDFにしたかっていうと、それはレイアウトも含めての「作品」だから。言いたいから言う、自分のために書く。もやもやっとしたものを解説するために書く。必要うんぬんじゃなくて、ほっといても「やるヤツはやる、やらないヤツはやらない」のYAZAWAの精神ですよ(笑)。

 

大西:書き手の側の佐々木さんや東谷さんがおっしゃることはよくわかります。僕も言いたいことがあるときは書くのが楽なんですね。来週、なんか書かなきゃいけないんだけどピンと来るものがない、それでも書かなきゃいけないときはかなり辛い(笑)。作品を作るのも批評だし、美術という言葉にできないものを言葉にするのも批評で、批評するという行為は、かなり無理をする、飛躍させること。文章の形でやることもあるし、美術家がかつての美術作品を批評的に変えていくということもあります。批評が機能しているんだろうかと思うのは、作り手に届いているのかどうかわからないとき。一方で、文化には背伸びが重要で、例えば、僕が大学を卒業したころの卒業設計は、コルビュジエとか安藤忠雄とか有名建築家の物まねのような作品をがんばってやっていました。でもいまは、前年度に評価の高かった先輩のものをまねると聞きました。そういう本まで出ていて、売れてるんだそうです。背伸びの度合いが少なくなっているのかなぁ……。

 

澤:佐々木さんの『エクス・ポ』はイベントもやりますよね。人がメディアというのはそういうことでもあるのかなと思います。あとはリファレンスされるということがあると思うんです。自分が書いたものが何かのリファレンスに広がっていくかもしれない。ネットなら検索すると出てきますし、いずれそれが誰かの作品や批評の元になるかもしれない。アーカイブになったり、批評にはそういうつながりもありますね。

 

公開トーク『批評・レビューとメディアをめぐって』 | REALTOKYO

「文化」とは「文に化ける」こと

佐々木:さっきの東谷さんの「文に化ける」という言葉に超感動しちゃって。うまいこと言うなぁって(笑)。こういう場、USTREAMも含めて、しゃべることをその場所に来て聞くことの価値が上がってきているというのはある。これは明らかにインターネットの反動ですね。で、話すこと聞くことも重要なんだけど、批評的な行為と批評文というのがあるとして、僕は、批評文はとても重要だと思うんです。今回のシリーズの皆さんのレビューを読んで、すごく面白かったんです。書き方もけっこう違って人となりも表れているし、4,000字くらいあるとやっぱりある種の文章としての芸が出てきて面白い。そもそも長い文章を読む気になれるか問題というのはあるんだけど、読んでみると面白いし、面白いものはあるボリュームが必要だったりする。だから批評文が何らかの形で書かれる環境を再構築することは重要だと思う。それがあれば4,000字でも40,000字でも書く人がけっこう出てくると思う。批評文を書く喜びと批評文を読む喜びは、いまもちゃんとどこかにあると思っています。その意味でも、今回の試みは面白くて、参加させてもらってよかったと思っています。

 

東谷:文に化けさせる快感というものがありますよね。書いてて、あ、こういう表現がいいねと。さっき話した『変態とは何か』は「美術手帖」の「芸術評論募集」に出したんだけど、本当は文字の規定が「12,000字程度」だったのを、「2倍程度」ということで25,000字で出したの。今回の規定は4,000字だけど、最初は10,000字だった。最初は、「私は、こう思う」っていう一人称を出した文章として書き始めるんですけど、最終的に「私」を消して普遍性の高い話にしていった。ちなみに僕は、最初のキャリアとして学芸員として文章を書く訓練を受けたので、「私」っていう言葉は使わないんですよね。公共の美術館で、税金をある1人の人間の研究に対して使っちゃいけないということになってるから、「私」という一人称で書けないんですよ。だから、展覧会カタログの文章は「私」が出てこない、世の中でもっともつまらない文章になっちゃうわけです。

 

畠中:「私」が「私」の観点で書くんだけど、私が言ってるわけじゃなくて、私だけじゃなく多くの人もそう感じてることでしょっていう風に書くわけですよね。

 

東谷:そうです。ジェネラルなものにする。「だって、誰も東谷隆司の言ってることなんて聞きたくないでしょ」っていうところから出発しているから。だから、今回は少なくとも原稿依頼してくれた小崎さんに向けて書きました。

 

小崎:このトークをやってよかったと思います。それぞれの意見は違っているけど、それぞれに説得力がある。とりわけエディターシップ、編集の問題に、これからどうするかということのヒントがあるように思いました。「丸投げ」という言葉が出ましたが、いま媒体の党派性というのが希薄になっていると思うんです。『エクス・ポ』は(当たり前ですが)ものすごく佐々木さんの雑誌になっているけど、編集長が立っている雑誌がだんだん少なくなっている。その点についてもっと考えてみたいですね。

 

東谷:キュレーターもそうですね。欧米だとキュレーターの名前が立ってますが、日本はむしろ出さない。よくないなと思います。昔はスター編集長、名物編集者がいましたよね。佐々木さんや小崎さんはそうだと思うけど。媒体ってそのものがクリティカルなものなんですよ。ニュートラルな情報誌みたいな体裁にすることが間違ってる。

 

佐々木:さっき話に出た東浩紀さんの『一般意志2.0』は、ネットが集合知を実現するという話ですよね。それこそTwitterとかを使って、ネットで意見を述べ合ったり、スポンテイニアスに表現するようになっていくと、それらを汲み上げる方法論さえうまく構築できれば、いろんなことがうまくいくよというのは一種の理想論だと思う。もともと集合知みたいなものがネットのせいでもてはやされているわけですが、その一方で、たとえば橋下みたいな人がガーッと出てきたりもしている。これは単にネットがポピュリズムを醸成するということだけじゃなくて、集合知と一種の言説のファシズムは裏表ということだと思う。だから、ある種の匿名性まで行ってしまっているような集合知がひとつの環境として育っていく一方で、エディターシップ的な形のものと両方ないと多数に吸収されてしまうと思う。音楽も、かつてはタワーレコードやHMVに行けばどんな音楽でもありますよという大型化が、あるところまで行っちゃうと、そのカウンターとしてセレクトショップ的なレコ屋が出てきた。両方がないと成立しない。いまやどちらも風前の灯火ですが。美術も演劇もグループワークが増えてるけれど、その可能性は十分に認めた上で、どうしても最終的な責任の所在があいまいになりがちだっていうことと、民主主義的な弊害というものが出やすく、全員に花を持たせないといけないという風になりがちでもある。僕は、芸術はグループよりも強権を発動するアーティストが1人いたほうが面白くなると思っているし、そういう人が一杯いればいいのだと思っています。メディアも同じです。誰もがアクセスできて個人性が無くなってしまうような状況の一方で、広い意味でのエディターシップが再度回帰する状況になってきているような気がします。

 

小崎:最後になって面白い話題が出てきてしまって、これは宿題ですね。REALTOKYOを立ち上げたときにイメージしたのはNYの『ヴィレッジ・ヴォイス』とフランスの『カイエ・デュ・シネマ』。カルチュラルなオピニオン誌がこの時代に成立するかどうかというのが大きなテーマで、これからも考えていきたいと思います。どうもありがとうございました。

 

(このトークは2012年2月18日、3331 Arts Chiyodaの東京文化発信プロジェクトROOM 302で行われました)

 

Tokyo Art Research Lab (TARL)

アートプロジェクトにまつわる問題や可能性をすくいあげ、分析することで、それを持続可能にするシステム構築を目指す、東京アートポイント計画(※)のリサーチ型人材育成プログラム。REALTOKYO編集長の小崎哲哉がナビゲーターを務める本講座「『見巧者』になるために」は、TARLとREALTOKYOが共同で企画運営しています。

 

※「東京アートポイント計画」は、東京ならではの芸術文化の創造・発信と芸術文化を通じた子供たちの育成を目的に、東京都と公益財団法人東京都歴 史文化財団が実施している「東京文化発信プロジェクト」の一環として、平成21年度よりスタートした事業です。東京の様々な人・まち・活動をアー トで結ぶことで、東京の多様な魅力を地域・市民の参画により創造・発信することを目指しています。

ゲストプロフィール

はたなか・みのる/1968年生まれ。NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]主任学芸員。96年の開館準備よりICCに携わる。主な企画には『サウンド・アート―音というメディア』(2000年)、『サウンディング・スペース』(03年)、『ローリー・アンダーソン 時間の記録』(05年)、『サイレント・ダイアローグ』(07年)、『可能世界空間論』(2010年)、『みえないちから』(2010年)など。ダムタイプ、明和電機、ローリー・アンダーソン、八谷和彦といった作家の個展企画も行なっている。そのほか、コンサートなど音楽系イベントの企画も多数行なう。

 

ささき・あつし/1964年生まれ。批評家。音楽レーベルHEADZ主宰。CD/DVD、雑誌『エクス・ポ(ex-po)』および『ヒアホン(HEAR-PHONE)』を編集発行する傍ら、音楽、映画、小説、舞台表現、美術、哲学、サブカルチャーなど幅広いジャンルで執筆活動を行なう。著書に『ニッポンの思想』『文学拡張マニュアル ゼロ年代を超えるためのブックガイド』『「批評」とは何か? 批評家養成ギブス』など多数。近著に『即興の解体/懐胎 演奏と演劇のアポリア』『小説家の饒舌』『未知との遭遇: 無限のセカイと有限のワタシ』など。

 

あずまや・たかし/1968年、三重県四日市市生まれ。東京藝術大学大学院修士課程修了(油画専攻)。世田谷美術館学芸員、東京オペラシティ アートギャラリー、横浜トリエンナーレ2001スタッフ、森美術館キュレーターを経て、フリーで展覧会企画、執筆活動を行う。主な展覧会企画に『時代の体温 ART/DOMESTIC』(世田谷美術館、東京、1999年)、『GUNDAM 来たるべき未来のために』(サントリーミュージアム天保山、大阪、他全6会場巡回、2005-07年)。釜山ビエンナーレ2010(韓国)では、芸術監督を務める。

 

おおにし・わかと/朝日新聞編集委員。1962年京都生まれ。東京大学工学部都市工学科卒、同修士課程を中退し、87年に朝日新聞入社。東京本社、大阪本社、西部本社の文化部などで、主に、美術や建築について取材・執筆。同部次長などを経て、2010年より現職。『大地の芸術祭――越後妻有アートトリエンナーレ2000』(現代企画室)、『リファイン建築へ 青木茂の全仕事』(建築資料研究社)、『文藝別冊 [永久保存版]荒木経惟』(河出書房新社)などに寄稿。

 

さわ・たかし/1971年生まれ。中央大学文学部仏文学科卒業。映像作家。2001年から2010年まで、映像アートの国内巡回上映展「イメージフォーラム・フェスティバル」のプログラムディレクター。また、ロッテルダム、ベルリン、バンクーバー、ロカルノ等の国際映画祭や、愛知芸術文化センター、横浜美術館等にプログラム提供。「贈与」を交通整理して「表現」にするには? 見えるものの組み合わせで見えない物事を語るには? と、いった事を考えつつ上映プログラムを作ってきた。

寄稿家プロフィール

おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学客員教授も務める。趣味は料理。