COLUMN

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Tokyo Review

第5回:タル・ベーラ『ニーチェの馬』
澤隆志
Date: January 11, 2012

REALTOKYO×Tokyo Art Research Labが共同で企画運営する批評家・レビュワー養成講座「『見巧者』になるために」。2011年11月24日に行われた第5回では、第12回東京フィルメックスで上映されたタル・ベーラ監督の『ニーチェの馬』をピックアップ。受講生とともに観賞した、映像作家の澤隆志さんに寄稿していただいた。

 

イベント概要

第12回東京フィルメックス

日程:2011年11月19日〜11月27日

会場:有楽町朝日ホールほか

ニーチェの馬

2012年2月11日、シアター・イメージフォーラムほか全国順次ロードショー

タル・ベーラ(Béla Tarr ハンガリーは日本同様姓・名順)の映画は本国ハンガリーでも上映される機会が少ない。多分日本が一番多いのではないだろうか? しかし世界中の映画祭で熱狂的に迎えられ、2011年12月の現在、ポンピドゥー・センターで大回顧上映中だそうである。

 

最新作『ニーチェの馬』は他の作品に比べて実にシンプルな物語だ。ニーチェが発狂する発端となったトリノでの出来事(御者に鞭打たれる馬を見て、その首に抱きつきながら泣き崩れ、卒倒)のその後である。しかし関心は「馬」のその後。

そしてそれは直線的、真っ逆さまに"終わり"へ向かう6日間の物語だ。神が6日で世界を創造し、最後の1日を休息日にあてたと書かれた創世記の逆で、この映画では6日で全てが終わる。と同時に、34年続いたタル・ベーラの映画制作もこれが最後となる。本人曰く、「円環が閉じられた」。

 

後に触れるが、タル・ベーラにとってCINEMAとFILMはイコールであって他の解を認めない。

●光と闇の階調を白黒フィルムの粒状性というフェティッシュな快楽に置き換え

●超スムーズなカメラの動きを伴った長回しと「風」で常に画(粒)を動かす

光の画=写真、動く写真=映画。この至極当然なフィルム映画のポテンシャルを最大限に享受できるのがタル・ベーラのいう映画である。フィルムに淫することのできる作品が、フィルム映画の最後を迎えるかもしれない時期に公開されるのだ。以下、それについて少し細かく触れる。

 

彼の作る映画は白黒の長い、長い、長いワンシーン・ワンカットの演出が大きな特徴だ。これはある意味伝統的といえる。カール・ドライヤー、溝口健二やアンドレイ・タルコフスキー等長回しを特徴とする映画監督は多い。現在、デジタル環境でそれが容易になったのも事実である。ワン・ビンやジャ・ジャンクーやペドロ・コスタなど、ドキュメンタリーとドラマを行き来するような作家がHD時代の長回しを開拓している。実験映画や現代美術の作家も積極的に試みている。ジェームス・ベニング、シャロン・ロックハート、スティーブ・マックイーンやマシュー・バーニーの作品も一般的な映画よりもかなりカットが長い。もっともそれは、ホワイトキューブにループ再生する映像作品が、美術作品としてここ10年ほどで一気に定着し、絵画と映画の境界線ともいえる試みが多数存在している事と無縁ではない。

 

タル・ベーラ『ニーチェの馬』 | REALTOKYO

彼の映画で執拗に繰り返されるサウンドも独特だ。それはノイズもSEも音楽も渾然一体としている。ちなみに本作と『ヴェルクマイスター・ハーモニー』『倫敦(ロンドン)から来た男』の音楽担当ヴィーグ・ミハーイは『サタンタンゴ』の詐欺師役で出演。バラトンという名のバンドもやっている。

画と音のドローンと化した世界。舗装された道の先にある山道のように、それを過酷ととる人もいれば真の楽しみととる人もいる、そういう映画。無情について描いた映画だ。

 

そして、見事に触覚的な映画でもある。すっかり葉の落ちた枝振りの良い一本の木、緩やかな谷の下にはゴツゴツとした石で組まれた一軒家。少し離れた場所に頼りなげに掘られた井戸がある。毛艶もなく動きも緩慢だがもの凄い存在感の「馬」と、目の粗い上着を何重にも着込んだ父娘(娘役のボーク・エリカは『サタンタンゴ』では自殺する少女を演じ、『倫敦(ロンドン)から来た男』でもあまり幸せでない娘役をしている。タル・ベーラ作品のみ出演)。映画に登場する要素はすべてザラザラでギザギザな物ばかり。被写体の粒状性とフィルムの粒子が絶妙な調和と差異を生み、また、カットを割らずにいるおかげで急激な変化は起こらず、粒子は常に運動を続け、さらに深く深く網膜を刺激していく。

 

私は、かつて存在したものがその直接的な放射物(その光)によって実際に触れた写真の表面に、こんどは私の視線に触れにいくのだと考えるとひどく嬉しくなる。(『明るい部屋』)

ロラン・バルトがこう言うように、視覚と触覚の交感は数多く指摘されている。粒子の手触りを眼で感じるということだ。それは網膜が触覚から出発し、光と闇のグラデーションと色彩を得ていった進化の名残なのだろう。

アリストテレスが世界を彩る色彩はいっさい白と黒から生ずると考えたのも、この光と闇に対する眼への着眼からであろう。考えてみれば、眼は三億年前の昔はまだ生物の身体にのみ感ずる感光性の斑点にすぎなかったという。もともと「触」に反応するだけであった生物の皮膚のある部分が光にも感ずる感光性の斑点を生み出し、皮膚表面の陰影の動きに反応するという段階を経て、その後の長い進化が、生物の、実にさまざまな眼の形態と視覚世界を生み出しているのだ。(中略)太陽と人間の眼は長い進化の過程で相互に作用し合い銅貨を含め、固有の意味世界を形作ってきたのに相違いない。(向井周太郎『かたちのセミオシス』)

 

タル・ベーラの長回しはストローク(軌跡)を持っている。ルックがザラザラとしているのに反して、カメラの歩みは尋常でないほどに滑らかでゆっくりと、自在に移動しているのも大きな特徴である。このえもいわれぬギャップに人々は中毒するのだ。

その視線が主観か客観かはここではあまり問題にならない。美しい構図の風景があって、それに見合う石の家と井戸、一本の木があれば、どこからどこにカメラが動きどの画角を切り取るか、ストロークそのものがストーリーとなるのだ。そして風が強く吹いていればなお良し。

風について。本人は「金が無くて大きな風が出せなかった」と言っていたがさにあらず。『ニーチェの馬』では、『サタンタンゴ』の街のシーンよりも強い暴風が映画の最初から最後まで吹き荒れているのでお楽しみに(2011年『サタンタンゴ』は東京に上陸した台風15号が大暴走するなか、ぴあフィルムフェスティバルで上映された! 上映時間は7時間半)。

 

タル・ベーラ『ニーチェの馬』 | REALTOKYO

「わたしにとっての"映画"は35mmフィルムの事でしかない。デジタル・テクノロジーで作られたものは、その独自の言語を模索するべきで"映画"の真似をするべきではない」

タル・ベーラは来日時の記者会見でこんなことを言っていた。紙を束ねたモノこそが"書籍"で、電子書籍なんていうな、みたいな理屈である。タル・ベーラらしい発言だ。折しも本テクストの対象イベントは東京フィルメックスであり、上映当日のお昼にはこのような会が催されていた。(「デジタル化による日本における映画文化のミライについて」Part 2

 

フィルムとビデオのメディア論争は昔からあるし、液晶プロジェクターの飛躍的な進歩により、観客が映画館に行って上映される映画がフィルムかビデオかに気づく事はもうない。フィルムのルックをそのまま電子的な情報で保存・再現できてしまうからだ。この日の話題はDCPという高価なハリウッド業界標準の導入で、フォーマット変更の負担が大きすぎると小規模の映画館の存続に関わるという、なんともTPPの様な話だった。そして、近い将来、映画フィルムの生産がなくなり、新作がフィルムでアウトプットされなくなるという。タル・ベーラが『ニーチェの馬』を最後の映画とする事と決して偶然の符合ではないだろう。大きな劇場ではフィルムでの撮影/上映というのがとてつもなくスペシャルな事になるかもしれない。当館この度フィルム上映! 秘仏開扉! ありがたく拝む事態になりそうなのだ。

 

素人目には判別不可能なフィルムとビデオのルック、では実際に何が違うのだろうか。先ほど話題にした粒子の問題もあるだろう。映画監督の七里圭は、準備中の映画(動かない被写体を撮影している)について、フィルム映画のみに現れる撮影時や映写時の歯車運動によるフレームの微妙な横ズレを取り上げていた。それ以前に、映画フィルムはズレそのものが動きの本質なのだ。映画カメラも映写機もシャッターとフィルムの同期によって静止画と暗闇を高速で入れ替えて連続記録/連続再生することで動きのイリュージョンを生み出している。1コマの映像を見ているというよりも、コマとコマの間のズレそのものを見るという実に危なっかしいメディアである。

 

僕自身も数少ないフィルム作品の経験があるが、高いコストの割に繊細で傷つきやすいフィルムは実に儚く弱いマテリアルだと痛感する。映写機の屈強さと好対照である。しかしその弱さ<vulnerability>が重要に思える。粒子に対するフェティッシュとズレやチラつきの弱いエネルギー。起きながら見る夢であるフィルムは霊性や象徴性に向いている。

かつては幽霊を見せるための装置であった映画。単なる懐古趣味だけでは片付けられない独特の佇まいが、確かにフィルム表現にはある。アナクロと言われるかもしれないが、『Charming Augustine』や『Outer Space』や『OBSERVATION・観測概念』(山崎博)等はフィルムでなくては成立し得ないだろうし、逆に、エクセルのシートを会議でプレゼンするのにフィルムと映写機を使う人はごく一部だろう。

 

タル・ベーラ『ニーチェの馬』 | REALTOKYO

『ニーチェの馬』の狂風世界では、日々課せられた暮らしの動作がまるでパフォーミングアーツの様にミニマルに展開される。起きて、外套を重ね、暴風の中を娘が水を汲みにいき、馬の世話をして、火を起こしてジャガイモ(馬鈴薯)を茹で、年期の入った器を出し、手づかみで喰らう……。

ミニマルな繰り返しこそが「食べていく」こと、過酷な生そのものであると言っているかのごとく。しかも、毎日なにかが終わっていく。馬は労働を止め、草を食む事も拒み、家を這いずり回る虫の音はいつの間にか消え去り、エレメントが減っていく(水、火、風……)。日を追うごとに"終わり"が現実味を増してくる。それでもこの親子だけがエントロピー増大に抵抗して、泣きわめくエネルギーさえ惜しんでまた朝には重たい戸を明けるのだ。6日目の父親の台詞「食わねばならぬ」は、重い。

 

おおよそ映画の予告編としてありえないのが、『ニーチェの馬』の海外版の短い一編だ。しかしこの映画の象徴的側面と、フィルム映画の終わりという即物的な面を現しているようで非常に興味深い。全てのフィルム映画のエンドマークが『ニーチェの馬』なのかもしれない。終わるなら、俺が終わらせてやろうという勢い。

タル・ベーラの今後はまだ誰にもわからない。本人はプロデュース業や後進の支援、教育者を挙げていたが、果たしてどうだろうか。

 

Tokyo Art Research Lab (TARL)

アートプロジェクトにまつわる問題や可能性をすくいあげ、分析することで、それを持続可能にするシステム構築を目指す、東京アートポイント計画(※)のリサーチ型人材育成プログラム。REALTOKYO編集長の小崎哲哉がナビゲーターを務める本講座「『見巧者』になるために」は、TARLとREALTOKYOが共同で企画運営しています。

 

※「東京アートポイント計画」は、東京ならではの芸術文化の創造・発信と芸術文化を通じた子供たちの育成を目的に、東京都と公益財団法人東京都歴 史文化財団が実施している「東京文化発信プロジェクト」の一環として、平成21年度よりスタートした事業です。東京の様々な人・まち・活動をアー トで結ぶことで、東京の多様な魅力を地域・市民の参画により創造・発信することを目指しています。

寄稿家プロフィール

さわ・たかし/映像作家、キュレーター。2000年から2010年までイメージフォーラム・シネマテーク、イメージフォーラム・フェスティバルのプログラム・ディレクターを務める。また、ロッテルダム、ベルリン、バンクーバー、ロカルノ等の国際映画祭や、国内美術館等にプログラム提供多数。主な映像作品に『特派員』。