COLUMN

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Tokyo Review

第3回:『TOKYO-FUKUSHIMA! LIVE!』
東谷隆司
Date: December 27, 2011

REALTOKYO×Tokyo Art Research Labが共同で企画運営する批評家・レビュワー養成講座「『見巧者』になるために」。2011年10月29日に行われた第3回では、『TERATOTERA祭り』と連動して吉祥寺バウスシアターで開催された『TOKYO-FUKUSHIMA! LIVE!』をピックアップ。受講生とともに観賞した、インディペンデントキュレーターの東谷隆司さんに寄稿していただいた。

 

イベント概要

TERATOTERA/TOKYO-FUKUSHIMA!

日程:2011年10月20日〜30日

会場:吉祥寺〜高円寺界隈

「子供たちだけでも どこか遠くへ」

シンガー七尾旅人の歌「圏内の歌」の一節。風に漂うように耳に流れ込んだ歌詞が、つい今も、口から漏れてしまう。ここでの圏内とは、国が指定する放射能による避難区域の「圏内/圏外」を指す。もちろん、福島のことだ。

 

2011年3月11日、午後2時46分、東日本を大地震が襲った。津波が約2万人の命とともに沿岸の町を根こそぎ消し去り、翌日、福島第一原子力発電所の原子炉建屋が爆発した。

原発事故の深刻さが明らかになるに連れ、避難区域は広がっていった。3月15日には原発から半径20kmから30km圏内の地域に「屋内退避指示」が出され、10日後には、その圏内の住人に自主避難が要請された。以来、福島県内各地の安全性のボーダーラインをめぐる「圏外」「圏内」という言葉が常用語となった。

 

僕が七尾の「圏内の歌」を初めて聴いたのは、2011年10月29日夜、吉祥寺バウスシアターで開催された『TOKYO-FUKUSHIMA! LIVE!』でだった。出演は七尾の他に、福島出身の2人のミュージシャン、大友良英と、日本の伝説的なパンクバンド、ザ・スターリンのボーカルにしてリーダーだった遠藤ミチロウ。このライブと展示を含むイベント『TOKYO-FUKUSHIMA!』は、現在も進行中の「プロジェクトFUKUSHIMA!」を大きな下敷きにしていた。

 

大友良英 | REALTOKYO
大友良英 Photo: 松尾宇人

「プロジェクトFUKUSHIMA!」の発起人代表にして中心人物は、大友良英と遠藤ミチロウ、そして福島在住の詩人・和合亮一の3人。

特にアクティブにリーダーシップを見せる大友良英は、原発事故直後からライブ会場で、ラジオで、レクチャーで、さかんに放射能に汚染された福島の状況についての発言を始めた。横浜市に生まれた大友は、小学校3年の秋から18歳で東京に上京するまで福島で育っている。

事故以後、大友は、予定されていたヨーロッパ・ツアーをキャンセルし、福島の人々やミュージシャン、アーティストとの対話を繰り返しながら内省を深めた。彼の主張は、一貫してシンプルだった。

「『フクシマ』をネガティブな言葉にしては、いけない」

 

例えば、「ヒロシマ」は、原爆の悲惨さを物語る際に唱えられる単語であるが、同時に平和への希求の象徴でもある。ヒロシマに平和の意味が付与されたのは、広島で平和をテーマにした数々の文化イベントが成功してきたからだ。つまり、文化には言葉の意味を変える力がある。福島から文化を発信すれば、必ずフクシマは、ポジティブな言葉になる。それが大友の信念だ。

その具体的な計画として、福島にインターネット放送局をつくる。福島で次代の表現者を育てるスクールを設立する。そして、プロジェクト開始の目玉として、終戦記念日の8月15日、福島で観客1万人規模の音楽フェスを開催すると発表した。フェスの入場料は無料。このフェスのアイデアを最初に言い出したのは、遠藤ミチロウだ。(※1)

それからたった4ヶ月後、フェスの会場には、1万3千人の来場者が日本全国から集まっていた。複数のステージで繰り広げられた演奏、パフォーマンス、朗読の数々は、どれもが奇跡のように素晴らしく、しかも、共通した想いに貫かれていた。フェスはインターネット経由で生中継され、プロジェクトに共鳴したミュージシャンが世界各地で同時刻に演奏を行った。こうして『8.15世界同時多発フェスティバルFUKUSHIMA!』は大成功を収めた。

 

その記憶もまだ生々しい10月の終わり、今度はFUKUSHIMAが、東京へやってきた。それが『TOKYO-FUKUSHIMA!』だった。フェスの中心的な役割を演じた3人が同じステージで演奏をする。フェスで七尾旅人の演奏を見落としていた僕にとって、七尾の演奏が、その日の楽しみでもあった。

一番手は大友良英。ギターと数個のドラムを用いた即興で、フェス実現まで突っ走った後、ようやく落ち着きを取り戻したかのようなリラックスした演奏だった。合間にMCで、簡単に「プロジェクトFUKUSHIMA!」のことが紹介される。

 

七尾旅人 | REALTOKYO
七尾旅人 Photo: 松尾宇人

次に七尾が登場するという時、隣にいた友人が僕の耳元で囁いた。

「七尾さんの『圏内の歌』って曲に、『子供たちだけでも遠くへ逃がしたい』って歌詞があってね。僕はいい歌だと思うんだけど……その歌詞のことで福島では議論があったらしいよ。いろんな事情で避難できない家族がいるのも事実だからね」

友人は、渋い顔で「そのあたりは……難しいね」と呟いた。僕もその友人も、七尾と同じく、福島の出身ではない。

やがて数曲目、「圏内の歌」が始まった。ゆっくり爪弾かれるギターの音色にのせて歌われる去りがたい故郷の美しさ、優しさ。しかしやがて「放射能」という言葉とともに風景は残酷なものへと変化していき、「子供たちだけでも どこか遠くへ 逃がしたい」という一節で、ノスタルジーは断ち切られ、放射能に覆われた街の恐怖を想像させる。

聴く人によっては、辛いのかもしれない。大きなお世話なのかもしれない。しかし、この歌は、放射能危険区域の圏外への避難を唱えるとともに、放射能の恐怖に無力感を感じながらも、「圏外」から願うことしかできない七尾の偽りない気持ちを表しているように感じられた。

 

次に登場した遠藤ミチロウがギター1本で叫び歌う「原発ブルース」の歌詞は、七尾と対照的に直裁的で、節回しも露悪的だ。

「オレの原発 メルトダウン 放射能を まき散らす」(※2)

ザ・スターリン時代の、スキャンダラスながらも諧謔と暗喩に満ちた歌詞を知る者なら、ここで歌われる「オレの原発」が、男根のメタファーにも聞こえるだろう。

オレの原発。すなわち戦後の男根主義的な日本社会の一部として「安全」という名のファスナーに隠されてきた原発が暴れ出した様は、まるで本人の意思に反して勃起し続けた挙句、あたりかまわず臭い精液をまき散らす男根のようではないか。

しかも「オレ」とは、原子力発電による多大なエネルギーによって高度経済成長を成し遂げ、その後も過剰なエネルギーを浪費し続けた日本。さらに言えば、原発を地元に誘致し、就業率をあげ、原発利権にどっぷりと浸かっていたことを今さら否定できない原発の町。つまり、ここで歌われる「オレ」とは、原発の存在を血肉の一部として容認してきた人々であり、その責任において、日本人は、誰もその圏外にはいられないのではないか。つまり、七尾が「圏外」から歌っているとすれば、遠藤の視点は、「オレもオマエも圏内から逃れられない」という圧倒的に「圏内」からのものだ。

 

遠藤ミチロウ | REALTOKYO
遠藤ミチロウ Photo: 松尾宇人

「圏外」と「圏内」。「東京」と「福島」。

『TOKYO-FUKUSHIMA!』は、まさにその2つのせめぎ合いを意識させた。特に、その2つの極を視覚化した展示として重要だったのは、武蔵野市立吉祥寺美術館ロビーにドキュメントとして展示された「福島大風呂敷」だろう。

フェスでは、ミュージシャン、詩人、パフォーマー、アーティスト以外に重要な役割を担った人物が何人もいる。その1人が、放射能衛生学を専門とする科学者・木村真三だ。

木村は、福島第一原発の事故を受け、一刻も早い初動調査を開始しようとしたところ、自身が所属する厚生省所轄の研究所から、現地での自由な調査活動を慎むよう勧告された。そのため木村は、即刻、研究所を辞職して3月15日に現地入りし、以降、被災地各地を5,000km以上、車で移動しながら、放射線測定器を用いて綿密な1次データを収集した。土壌サンプルを採取しては、全国の環境放射能、線量評価の専門家に送り、放射性核種の分析を依頼、詳細な実地調査結果に基づく放射能汚染地図を作成し続けている。その木村の作業を記録したNHK教育のETV特集「ネットワークで作る放射能汚染地図」は、5月15日に放送され、大きな話題となった。大友も木村の活動に感銘を受けた1人だった。

 

フェスを実現させる際、まだ放射線量が他の県に比べて高い福島に、日本全国から人を集めることに、大友は大きな危惧を持っていた。限られた情報の中、お客さんには来て欲しいが、健康面での責任が持てないことにジレンマを抱えていた大友は、番組を見てすぐに木村に連絡を取り、事前にフェス会場の放射線量調査の実施を依頼。木村は快諾し、さらに運営全体に関わる放射線防護対策への助言に協力し、フェス当日は、ステージでレクチャーも行った。フェス開催の実現に大きく寄与したのだ。

事前に会場の線量を測っている時である。木村は、舗装された道などよりも、芝生に放射線が付着している危険性が高く、観客が直接触れないようにすべきだと指摘した。「どうすれば?」と聞いた大友に、木村はいともたやすく答えた。「風呂敷で覆ってしまえば?」。これが「福島大風呂敷」の始まりだ。

 

大風呂敷の制作に関わった美術家の中崎透、建築家のアサノコウタは、発端となった学者の一言に絶句した。会場の大部分は芝生だ。それを覆うには、どれだけ巨大な風呂敷が必要なのか……。しかし、2人の計画のもと、「プロジェクトFUKUSHIMA!」実行委員は、Twitterや公式HPで全国に不要な風呂敷の提供を呼びかけた。集まった風呂敷は大友の実家の工場に集められ、数週間にわたり、大勢のボランティアがそれらを縫い合わせることで、文字通りの大風呂敷が何枚も出来上がった。

フェスは午前9時、眩しい晴天の下、その巨大な風呂敷が会場の芝生面に敷かれることで始まった。中崎、アサノ、大友、そして木村の指示のもと、会場デザイン、来場者の安全性、安心感の確保を考慮しながら、2時間に渡り大勢のボランティアによって風呂敷が敷かれた。風呂敷の様々な色調、雑多なデザインは、会場に朗らかな雰囲気をもたらしながらも、これから始まるフェスが特別な意味を持っていることを再確認させた。

東京でのドキュメント展示では、その作業風景が映し出されるビデオモニターの前方に、実際にフェス当日使われた大風呂敷の一部が、キューブ状のアクリルケースに密封されていた。一見可愛らしいパッチワークで繋がれた風呂敷。しかしそれらが果たした放射能からの遮断という役割を考えれば、そこにも、アクリルの外側という「圏外」と内側の「圏内」が、緊張感を持って共存していることを思わずにいられない。

 

今後、何十年、何百年、あるいは何万年と残るであろう放射線に比べれば、「プロジェクトFUKUSHIMA!」は、まだ始まったばかりだ。プロジェクトは、フクシマをポジティブな言葉へと変えることができるだろうか? そのためには、まずプロジェクトの存在が知られなければならない。(※3)

今、僕が書いているこの文章は翻訳を前提にしている。圏外にいる僕は、この文章によって「プロジェクトFUKUSHIMA!」のことが、もっといろんな国の人たちに伝わることを願っている。少しでも。どこか遠くへ。

 

 

(※1)「プロジェクトFUKUSHIMA!」、ならびに「8.15世界同時多発フェスティバルFUKUSHIMA!」が実現するまでの経緯は、大友良英ほか著『クロニクルFUKUSHIMA』(青土社、2011)に詳しい。

 

(※2) 遠藤ミチロウ作詞「原発ブルース」。同曲を含む「オレのまわりは/原発ブルース」の2曲のmp3は、下記のサイトから有料(500円以上)でダウンロードできる。売り上げは、「プロジェクトFUKUSHIMA!」の支援金として計上される。

http://www.pj-fukushima.jp/diy_details/diy_list_details002.html

 

(※3)「プロジェクトFUKUSHIMA!」についてのリアルタイムの情報については、公式サイトを参照のこと。http://www.pj-fukushima.jp/

 

Tokyo Art Research Lab (TARL)

アートプロジェクトにまつわる問題や可能性をすくいあげ、分析することで、それを持続可能にするシステム構築を目指す、東京アートポイント計画(※)のリサーチ型人材育成プログラム。REALTOKYO編集長の小崎哲哉がナビゲーターを務める本講座「『見巧者』になるために」は、TARLとREALTOKYOが共同で企画運営しています。

 

※「東京アートポイント計画」は、東京ならではの芸術文化の創造・発信と芸術文化を通じた子供たちの育成を目的に、東京都と公益財団法人東京都歴 史文化財団が実施している「東京文化発信プロジェクト」の一環として、平成21年度よりスタートした事業です。東京の様々な人・まち・活動をアー トで結ぶことで、東京の多様な魅力を地域・市民の参画により創造・発信することを目指しています。

寄稿家プロフィール

あずまや・たかし/1968年、三重県四日市市生まれ。東京藝術大学大学院修士課程修了(油画専攻)。世田谷美術館学芸員、東京オペラシティ アートギャラリー、横浜トリエンナーレ2001スタッフ、森美術館キュレーターを経て、フリーで展覧会企画、執筆活動を行う。主な展覧会企画に『時代の体温 ART/DOMESTIC』(世田谷美術館、東京、1999年)、『GUNDAM 来たるべき未来のために』(サントリーミュージアム天保山、大阪、他全6会場巡回、2005-07年)。釜山ビエンナーレ2010(韓国)では、芸術監督を務める。