COLUMN

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Tokyo Review

第1回:クリスチャン・マークレー「ザ・クロック」
畠中実
Date: November 17, 2011

REALTOKYO×Tokyo Art Research Labが共同で企画運営する批評家・レビュワー養成講座「『見巧者』になるために」。2011年10月8日に行われた第1回では、『ヨコハマトリエンナーレ2011』で上映されたクリスチャン・マークレーの「ザ・クロック」をピックアップ。受講生とともに作品を鑑賞した、NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]主任学芸員の畠中実さんに寄稿していただいた。

 

イベント概要

ヨコハマトリエンナーレ2011

日程:2011年8月6日〜11月6日

会場:日本郵船海岸通倉庫ほか

映画に特徴的な話法のひとつに、時間も場所も異なる状況や設定で撮影された素材を編集というプロセスを施すことによって、上映時間の中にさまざまな時間経過を凝縮できる、ということがあげられる。それは、ある物語を映画という形式で表現する方法として、演劇以来確立されてきたものでもある。そのような話法により、映画内の物語の進行を、現在、過去、未来に自在に行き来させ、さまざまな物語の叙述が可能となる。一方で、映画自体の進行時間、すなわち上映時間と、映画の中の出来事の進行時間がまったく同じという作品がある。2時間の映画なら、その映画の中でも2時間の経過とともに出来事が進行する。役者がカメラの前で演じたそのままの時間ではなく、たとえ経過時間が実際の映画の上映と同じように進行しても、そこにも編集は介在するだろう。つまり、映画を成立させているものは編集である、と言うこともできる。もちろん無編集の映画も存在するだろうが、いわば時間のコラージュと言うべきものが映画であると。

 

Christian MARCLAY: The Clock / 2010 / Courtesy the Artist and White Cube | REALTOKYO
Christian MARCLAY: The Clock / 2010 / Courtesy the Artist and White Cube

クリスチャン・マークレーの作品「ザ・クロック」は、先に述べたような、映画自体の時間進行と映画内の時間進行が一致する映画だが、さらに、実際の時刻とも一致してしまう映画である。タイトルの「時計」が示唆するように、24時間の長さを持った映画で、古今東西の膨大な量の映画から、時計の映っているショットや時刻を表わす描写のあるシークエンスを素材として抜き出し、1分ごとに24時間のそれぞれの時間に割り当てていくというもの(もちろん割り当てる、だけの簡単な作業でないことは後述する)。

 

完全に1分ごとにひとつの映画が割り当てられているのかどうか確認できていないが、単純に計算すれば24時間=1440分で、それだけの数の映画が素材であることを考えると、制作にかかった労力はいかなるものだったか想像に難くない。24時間分のすべての時刻が、すでに映画の中に登場しているというのも、当然そうかもしれないという気もするが、実際にそれぞれに該当する映画とそのショットを見つけるのは容易ではないだろう。ましてやそれを1本の映画として成立させるのならなおのことである。

 

リサーチと編集のチームを構成し、リサーチと映像の収集に数年、編集に2年半を費やしたという。また、実際に制作に着手し、制作の方法論と完成の見通しを得るまでにも1年を要したというのも、作品のスケールの大きさを物語る。昨秋のロンドンのギャラリーでの発表以降、ニューヨーク、パリ、ソウルなどでも上映され、今年のヴェネツィア・ビエンナーレでは、最優秀賞に当たる金獅子賞を受賞。そして、今回の『ヨコハマトリエンナーレ2011』への参加である。

 

今回はトリエンナーレ開催時間中に上映されるため、上映施設の開館時間の制限を受けざるを得ず、観客は午前11時から午後6時までの7時間しか見ることができない。全編を上映しようとするなら、たとえば作品を任意のパートに分割して上映するアイデアもあるが、それでは実際の24時間と同調する、という作品のコンセプトからはズレてしまう。トリエンナーレ会期中に24時間全編上映会が実施されたが(筆者は未見)、体力的な限界から、どれほどの観客が24時間を観通せるのかという問題は残る。ある意味では鑑賞を拒否する作品とも言えるかもしれない。マークレーが影響を受けたフルクサスなどの前衛芸術運動の作法と似通ったところがあるとも言える。しかし、たとえ全編を観た者がいなかったとしても、「ザ・クロック」はほんとうに24時間という作品時間を持つ作品として完成されているのだ。

 

Christian MARCLAY: The Clock / 2010 / Courtesy the Artist and White Cube | REALTOKYO
Christian MARCLAY: The Clock / 2010 / Courtesy the Artist and White Cube

作品には膨大な数の映画が登場するが、映画に精通していない筆者には部分的にしか出典はわからない。制作プロセスは、作家本人の言うように「非常にシンプル」だという。「ザ・クロック」は「構造が定まった映画。1時間を埋めるために60分があり、映像の断片が5時6分を示していたら、私はそのイメージをその決められた時間にいれることしかできません」(*)というように、ある映画に登場する時計の指し示す時刻が、作品のどの時間(位置)に収まるかを決定してしまうといった、ある意味決定論的なものであると感じられる。それにより、それぞれの映画が意味内容的なつながりによって恣意的に編集されているような部分は一見したところなさそうに見える。しかし、まったく異なるコンテクストの映画同士が画面内の人物の動き、状況といった要素によってつなげられていくことには快感を覚えるほどだ。もちろん、ある同じ時刻が複数の映画に登場し、複数の候補からよりよいものを選択する、ということもあったかもしれない。

 

また、映像の編集以上に細心の注意が払われていると思われるのが音声の編集である。それは、ジャン=リュック・ゴダールとアンヌ=マリー・ミエヴィルによる映画を思い出させる。ふたりが共同で設立した製作会社名「ソニマージュ」とは、音(son)と映像(image)が対等に融合したものが映画である、という当時のふたりの映画に対する姿勢を端的に表わしたもの。本作でも、あるカットに付随する現場音が、映像が次のシーンに移っても余韻を残すように聴こえている、逆に、次のカットの音が映像に先行して聴こえてくる、といった操作によって映像と音声を暗示的に関係させる、映像編集でよく使われる効果が随所に使用されている。ある意味では、時刻の継続以外には無関係なカットの連なりで構成される本作においては、音がオーヴァーラップしたり、音を映像に先行させたりすることで、バラバラなものをコラージュするための「つなぎ」のような、作品の時間の継続性、連続性を高めるための重要な働きをしている。

 

コラージュという手法は、マークレーのこれまでの作品にも非常によく用いられ、制作における中心的な手段と言ってもよいかもしれない。何枚ものレコードジャケットを組み合わせた作品のような、コラージュそのままのものもあれば、レコードやCDやカセットテープ、スピーカーなどのアッセンブラージュによるオブジェやインスタレーションもある。また、かつての彼のトレードマークでもあったターンテーブルによるパフォーマンスにおいても同様で、複数のレコードの断片を、物質的にあるいは音源として、つなぎあわせることで作品を作っていることなども、コラージュの発想の拡張と言えるだろう。

 

映像作品においても、映画を素材とする同様の手法によって、「テレフォン」(1995)や「ヨコハマ国際映像祭2009」でも展示された「ヴィデオ・カルテット」(2002)などが制作されている。電話をかける、電話をしている、という行為の連続が観客に想起させる心理的な効果や、演奏のシーンを集めて4面のマルチスクリーンによって四重奏化する、というアイデアによって制作された前二作から、「ザ・クロック」では、コンセプト的にも技法的にも、規模としても、そうした作品の集大成といってよいものとなっている。

 

長大な上映時間を持つ映画といえば、アンディ・ウォーホルが60年代に制作した「エンパイア」などの一連の「ミニマリズム映画」を思い出す。エンパイア・ステート・ビルディングを固定カメラでとらえた、ほとんど何も起こらない8時間(それでも「ザ・クロック」の三分の一の長さでしかないが)の映画は、建造物がそこにあり続けるように延々と同じ姿を映し続ける。ウォーホルのシルクスクリーンが同一イメージの反復によって牛のイメージやキャンベルのスープ缶を環境化したように、建造物を環境化した映画とも言える。

 

Christian MARCLAY: The Clock / 2010 / Courtesy the Artist and White Cube | REALTOKYO
Christian MARCLAY: The Clock / 2010 / Courtesy the Artist and White Cube

マークレーは、「ザ・クロック」の「すべてを見る人がほとんどいない」(*)だろうと言いながら、この作品が「映画」であることよりもむしろ「時計」であることを仄めかしているのは興味深い。時計は時間を知る必要のあるときにだけ見られるものである、というように、彼はこの24時間の映画を時計としても見られるような環境に置くことを想定している。

 

冒頭に述べたように、映画の話法とは時間のコラージュであり、多くの映画は、興行的に妥当とされる時間内に物語を圧縮し、実際の時間とは異なるタイムラインを作ることで、あるドラマツルギーへと観客を招き入れる。それに対して「ザ・クロック」では、映像は編集されているが時間は現実と同期しているという、ふたつの異なる時間が並行して存在する映画となっている。さらには、作品をどのくらいの時間体験したかなど、観客の認識する時間が加味されるとマークレーは言う。

 

普段、映画の中で時計というアイテムは、背景の一部としてひっそりと、しかし、物語の重要なポイントを暗示させるものとして、また物語の区切りや節目としてその存在を提示される、いわば舞台装置のように使われる。状況説明的に明示されたり、緊迫感を強調するために演出的に使われたり、時間経過や心理描写などさまざまな目的のために用いられる。物語の裏で進み続けている時間を可視化するのが時計の役割であり、この作品では、そうした映画の要となる部分のみが集められているということになる。つまり、時々顔を出し、わたしたちを急き立てる時間という存在を露にした作品であると。わたしたちは時間に支配され、あらゆる出来事はみな同じ時間に従って生起する。

 

この作品における主役とは、時計というよりは時間そのものであるとも言えるだろう。そうすると、それぞれのカットに登場する人々はあくまでも時間に翻弄される脇役であるかのように見えてくる。時間がわたしたちを止めたことなど一度もないとでも言うように。

 

(*)クリスチャン・マークレー インタヴュー

 

Tokyo Art Research Lab (TARL)

アートプロジェクトにまつわる問題や可能性をすくいあげ、分析することで、それを持続可能にするシステム構築を目指す、東京アートポイント計画(※)のリサーチ型人材育成プログラム。REALTOKYO編集長の小崎哲哉がナビゲーターを務める本講座「『見巧者』になるために」は、TARLとREALTOKYOが共同で企画運営しています。

 

※「東京アートポイント計画」は、東京ならではの芸術文化の創造・発信と芸術文化を通じた子供たちの育成を目的に、東京都と公益財団法人東京都歴史文化財団が実施している「東京文化発信プロジェクト」の一環として、平成21年度よりスタートした事業です。東京の様々な人・まち・活動をアー トで結ぶことで、東京の多様な魅力を地域・市民の参画により創造・発信することを目指しています。

寄稿家プロフィール

はたなか・みのる/1968年生まれ。NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]主任学芸員。96年の開館準備よりICCに携わる。主な企画には『サウンド・アート―音というメディア』(2000年)、『サウンディング・スペース』(03年)、『ローリー・アンダーソン 時間の記録』(05年)、『サイレント・ダイアローグ』(07年)、『可能世界空間論』(10年)、『みえないちから』(10年)、『大友良英 音楽と美術のあいだ』(14-15年)など。ダムタイプ、明和電機、ローリー・アンダーソン、八谷和彦といった作家の個展企画も行なっている。そのほか、コンサートなど音楽系イベントの企画も多数行なう。