

今日は小春日和。屋上にあがると、少しぽしゃっていて海の温度がだいぶん上昇しているのがわかる。大きな客船が巨大な桟橋に停泊している。右から左に180度パーンすると、これまで横浜がつくってきたたくさんのランドスケープがパノラマのように映し出される。横浜は横に長い浜だから横浜なんだと聞いたことがある。そういえば東西に連結された空間の拡がりをもつ港街はあまりないかもしれない。北面に横たわる静かな冬の海の反射光がゆっくりとこちらに届いてくるのがわかる。優しい。この街をデザインした先駆者たちは、今現在のこの風景をどのように見ているのだろうか? その想いはとどいたのだろうか? 横浜のまちづくりの構想(夢)は小さいものではない。そして奇跡的に、絵に描いた餅は紆余曲折しながらも実現してきた。港北ニュータウンという「住む場所」は既に40年を経、新しいコミュニティが芽生えている。鶴見の工場地帯としての「つくる場所」は、ひとつの頂点を越え、これからの新しい方向性を探る時期に入った。また「いきかう場所」としてのこの港地区は赤煉瓦やみなとみらいを中心に1,000万人のにぎわいを創出している。

住む・つくる・いきかうをさらに横断するものとして、「創造都市」という「志」のあるプロジェクトが挿入されてから5年が経過した。この生まれたばかりの見えにくく分かりにくい試みを、世の中は性急に答えを出そうとする。知られていない、難しい、経済効果がない……。何度も何度も聞かされる罵倒・不信感。大きな軌跡を描く打球の行方を誰が知っているというのだろうか? 「創造界隈」の構想(夢)は、そんな簡単に手に取れるものではないのだ。日に当たりながらベンチでゆっくりしていたら寝入ってしまった。変な夢をみた。

うつぶせ姿でふとんの中から小さな頭だけを半分だけだして、上の方をみている。中年の女の人と自分よりも2つほど年上の6つぐらいの女の子が、玄関のところで何か話をしている。もうすぐ、でかけていくんだろうなと思って声をかけようとするけれど、どこか別の場所にいるらしく伝わらない。
東京のある区役所から、「山田一夫さんですよね」という連絡がきた。3歳のときにでていった父が現在生活保護を受けて病院にいるが、引き取ってくれないかという。数十年ぶりの父の話で、突然現れた現実にきょとんとしてしまい、「少し考えさせて下さい」といって受話器を置く。自分は父の顔を知らない。顔は覚えていないが、幾つかの断片的な記憶はある。母と父がよく言い争っており、それを姉とふたりで押し入れにちょこんと乗っかって眺めていたこと。食べ物を右の歯だけでかむのを注意されたのに直らなくて、右の頬を殴られたこと。うれしかったのは祭りのときだったか一度だけお面を買ってくれたこと。父の顔を知らないというのは少し嘘で、母の箪笥から姉とたまたま見つけた父の写真を一瞬みた記憶がある。姉はすぐに破り捨てた。姉は少なからず父のことを憎んでいた、忘れようとしていた。自分はというとそういった感情をもつほど成長していない幼い子供だった。

「知らない父」に対して「いつでもいる祖母」がいた。幼い頃、ほとんどの時間を祖母と過ごした。とはいえ一緒に遊んでもらったという記憶はない。庭で丸虫を相手に機嫌よく遊んでいる自分に対して、祖母は無関心を装い、必要なとき(例えばご飯とかお風呂のときなど)だけ、優しく声をかけてくれた。祖母は死ぬまで明治の女を演じ続けた。ご飯は毎食3杯食し、掃除は汚れていなくても朝6時から必ず規則正しく行っていた。となり三軒の軒先前までの掃き掃除、水まきも日課としていた。こうした祖母の揺るぎない日常に安心と尊敬の念を抱いていたことは確かだ。無駄だと思っていた拭き掃除で、廊下があるとき輝いているのを発見したり、煮魚が苦手でストライキすると本当に何も用意してくれないのだが、食卓テーブルの上には、いつのまにかお新香などが並べられていたり……等々。さりげないやりとりの中で「自分の中の明治」は育まれていったように思う。哲学的な言葉からは遠い人だったけれど、風邪をひいてご飯を食べようとしなかったときには、「人間は動物。食べることで生きているのよ。あなたがやっていることは動物として最もやってはいけないこと」とこっぴどく叱られた。こうした言葉は自分の中で装置として今でも強く生き続けている。好き嫌いで判断してはいけない。重要なことは好奇心と倫理。生き続けられる動物としての構造をつくることだ。
寒くなって目が覚めた。まわりには日陰がせまっていた。変な夢のおかげで、意気消沈していた気持ちが少し楽になった。
「性急な思想」は、この屋上から横浜の空と海に向かって投げ捨ててしまおう。
わからないものをわからないままに抱えることに勇気をもちたい。続けよう。
≪編集部より≫
本連載は、今回をもって終了となります。これまでご愛読下さった皆さん、そして池田さん、本当にありがとうございました!
BankART 1929 http://www.bankart1929.com/
寄稿家プロフィール
いけだ・おさむ/1957年、大阪生まれ。BankART 1929(バンカート1929)代表、PHスタジオ代表。84年、都市に棲むことをテーマに美術と建築を横断するチームPHスタジオを発足。ヒルサイドギャラリー(代官山) ディレクターなどを経て、2004年から横浜市が推進する文化芸術創造プログラム「BankART 1929」に副代表として携わる。06年より現職。