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BankART1929代表のTOKYO仕掛人日記

第4回:横濱夢十夜 vol.4
池田修
Date: February 27, 2008
2006年。船、山の上。

船が山にのぼる夢をみた。というのは嘘で、船は山にのぼった。これはPHスタジオという、最近まったくといっていいほど活動をしていないが、本当は結構おもしろいチームが発案したプロジェクトだ。プランはこうだ。

 

ダム工事に伴い、およそ200haの森林が水没、30〜40万本の木が伐採される。それらの木(森)を引っ越しさせるのがこのプロジェクトのテーマ。伐採される木を使って60m大の筏状の船をつくる。もちろんそれは人力では移動不可能。ダム完成時に行なわれる湛水実験(水位をダム本体の最も高い位置まで上げ、再び常時満水位まで下げる)時に、船を湖に沈んでいる山の上まで移動し待機。水位の下降に従って山のてっぺんに不時着させるという仕組み。

 

「船をつくる話1999—木を集める」

広島県北東部の3町と国土交通省に招待されての1994年の初提案、1996年の再提案を経て、1998年からは独自のプロジェクトとして展開。芸術文化振興基金やアサヒビール、資生堂などから毎年助成や協賛を受け、また行政チーム、地元住民、国交省の協力を仰ぎながら12年の歳月を経て2006年に完成をみた。プランは単純だが、スケールが大きいのでそれほど簡単に事は進まない。そこで彼らは「ムーミン谷の冬」のように、毎年プロジェクトを物語のように展開し続けた。物語と言えばていがいいが、自転車操業プロジェクトだ。「船をつくる話1998」「船をつくる話1999—木を集める」「船をつくる話2000—船の上の家」「船をつくる話2001—ふねをつくる」「船をつくる話2002—続ふねをつくる」「船をつくる話2003—まっているあいだ」「船をつくる話2003—まっているあいだⅡ」「船をつくる話2004—水の上」「船をつくる話2005—船、山にのぼる」。このタイトルだけでもわかるように彼らは、このダムに沈む集落に毎年通い続け物語を生成し続けた。

 

「船をつくる話2002—続ふねをつくる」

12年に及ぶロングプロジェクトだから、はなせば長い話がたくさんあるが、その中からふたつだけエピソードを。PH単独のプロジェクトになった1998年。現地でプラン展示をおこなったが、地元の人たちは誰も見にきてくれない。仕方がないので、彼らはチラシをもって集落を1軒1軒訪ねて歩く。それでもほとんどきてくれない。展覧会もおしまいのころ、1枚のチラシが公民館にはってある。「鍋を囲んで船をつくる話」。彼らの状況をみるにみかねてか、月に一度おこなわれる地元の集会に招待してくれたのだ。もうひとつ。1本の老木、通称「えみきの木」が水没予定地に取り残されたままになっていた。地域の象徴とも言えるこの木は推定樹齢400年。移植費用の3000万という額の大きさと生存率の10%という低さから、国土交通省の補償の対象にならず、住民は半ばあきらめかけていたのだが、PHに協力していた人たちが中心になって「えみき爺さんをつれていこう」と地元住民に呼びかけ、募金し、自分たちの強い意志と手でこの巨木の引越を完遂させた。

 

「船をつくる話2002—続ふねをつくる」

今回、ドキュメンタリー映画の本田孝義監督が、PHのこのプロジェクトと住民たちの「えみき爺さんプロジェクト」のふたつの引っ越しを描いた80分の『船、山にのぼる』という映画を完成させた。プロジェクトの全貌紹介はこれから渋谷のユーロスペースで上映される映画に委ねるとして、彼らは一体このプロジェクトで何をしたかったのか?

いつもはのらりくらりしていて、あまりはっきりしない彼らだが、あるインタビューで次のように答えている。「自分たちがみたものをきちんと伝えたかった。ダム建設は国土交通省と一地域の問題ではない。肯定も否定もしたくない。そこに住む人と都市に住む人との共有の問題。私たちはこのプロジェクトでの労働と日常を通して、そのポジションをとり続けてきたつもりだ」

 

現在、船は生活再建地「のぞみが丘」とともに湖の上に移動し、山の上に鎮座している。今後の船の行方は、国交省との約束としては解体撤去が原則だが、地域の人たちは「そのままおいとけ。崩れてそこから新しい芽がふいてきたら、それが本当の森の引越よ」と言ってくれているらしい。夢のようなありがたい話だ。

■映画『船、山にのぼる』
2008年4月5日(土)よりレイトショー
ユーロスペース

 

BankART 1929 http://www.bankart1929.com/

寄稿家プロフィール

いけだ・おさむ/1957年、大阪生まれ。BankART 1929(バンカート1929)代表、PHスタジオ代表。84年、都市に棲むことをテーマに美術と建築を横断するチームPHスタジオを発足。ヒルサイドギャラリー(代官山) ディレクターなどを経て、2004年から横浜市が推進する文化芸術創造プログラム「BankART 1929」に副代表として携わる。06年より現職。