
3月20日(金)

3連休の初日。カバンいっぱいの原稿とゲラを抱えて、1週間ぶりの三崎港へ。この日は小説(第4稿)と批評(第2稿)の原稿を読み、いずれも前進できると確信をもてた。第4稿とは、最初に届いた原稿が3回書き直された版ということ。今度は活字に組んで、さらに精読する。夕食をとり損ねたので、深夜、徒歩で港の居酒屋へ。私の家は高台にあるので、仕事を終えて港に飲み食いにいくのは坂道を下る行為と結びつく。その居酒屋は実は初めて入ったのだが、店長と談笑しているうちに、同じ年であることがわかり、すぐに打ちとけた。すると、店長が「レバ刺し、食べます?」と一言。なんで港町でレバ刺し? と思ったら、下町地区の肉屋では、金曜日のみ新鮮なレバーが入荷するらしい。そのような超レアな(!)港情報を転居5年目にして初めて知ったことに感動する。確かにとてもおいしかった。酔ったので、帰りの坂道がきつかった。
3月21日(土)
次号のためのゲラを読む。校了は翌週だから、進行的にかなり切羽詰まっている。原稿が少しずつ届くたびに読んではいたが、全体を読み直すと、試みの大きさがあらためて感じられてくる。だが1日かけても、ゲラ精読作業は全体の半分にたどり着けなかった。
深い失意のもと、真夜中の港下町へ。しばらく前に、私の台所というべき地魚専門店「まるいち」で偶然知り合った同世代のKさんを、老舗スナックのママに紹介するためだ。Kさんは文化人類学の大学院にまで進みながら、中南米でのフィールドワーク体験を機に、まったく別の職業に転じ、この春から三崎に越してくることになった。Kさんが探している<古くていい感じの家>の候補のひとつが、まもなく別の県に転居するかもしれないママの家屋なのだ。この日はあくまでも顔合わせ。ママが横浜でヘレン・ケラーを見た話、大空襲や玉音放送の話などをうかがいつつ、杯を重ねた。酔ったので、帰りの坂道がきつかった。
3月22日(日)
ゲラ精読作業の続き。遅い午後、Kさんと合流して、例のスナックのママが愛猫と暮す御自宅を訪問する。大正時代に漁師が建てた一戸建ては、さまざまな細部に魅力をたたえた素晴らしい普請だった。Kさんがここに越すということは、ママが40年に及ぶ港暮らしを終えるということだ。だが、Kさんは「私の引越しなんかどうでもいいですから、三崎港に住み続けて、1日でも長くお店をあけてください」と言った。ママはあらためて三崎での記憶を涙まじりで語ってくださった。港の真ん前で、Kさんと握手の別れ。
帰宅してゲラ作業を再開。ほぼ1日ぶりにメールを確認すると、締切直前の筆者が長い長い、とても長~い船旅に出て、当面は洋上にいるという衝撃の連絡が。その時点で既に筆者は日本列島から遥かに遠ざかり、携帯もメールも届かない。投瓶通信を送るような気持ちで、船舶FAX用の手紙を記す。
真夜中、ゲラ作業に区切りをつけ、布団のなかで坪内祐三『「近代日本文学」の誕生』(PHP新書)を読む。明治32年(1899年)から明治39年(1906年)までの7年間の文学状況を1ヶ月区切りで描く400ページ近い力作だが、明治37年(1904年)5月のトピックは「佐藤儀助(義亮)が『新潮』を創刊する」だった。そう、今私が編集している文芸誌『新潮』は日露戦争の真っ只中に26歳の青年によって創刊されたのだ。元手は引越しで得た敷金の差額だった。本書によれば、佐藤儀助は後にこう回顧している。「国を挙げて戦争の外何物もないといふ時になつて、文学物の出版でもあるまいといふ忠告を受けたが、戦時には戦時にふさはしい文学があつてもよい筈だ。余計な気兼ねをして小さく縮こまつてしまうのは馬鹿げてゐる、頑張れ頑張れと自ら励まして、愈々雑誌を出すことに決めた」。
思わず、「戦争」という語を「不況」に置き換えてしまう。あるいは「googleとamazonの時代」と置き換えても構わない。不況には不況にふさはしい文学があつてもよい筈だ。余計な気兼ねをして小さく縮こまつてしまうのは馬鹿げてゐる!
寝る前に最後のメール確認をしたら、原稿が届いていた。学生時代から愛読し続けてきた書き手が、1本の映画と第2次大戦での東京大空襲の記憶から語りはじめる随想。画面のスクロールがもどかしいほど感動的だった。編集者が心の底から感動したのなら、それはきっと読者にも伝わるはずだ。そう確信できる時間は、希望である。

《編集部より》
本連載は、今回をもって終了となります。これまでご愛読下さった皆さん、そして矢野さん、本当にありがとうございました!
寄稿家プロフィール
やの・ゆたか/1965年岡山県生まれ、文芸誌『新潮』編集長。89年、新潮社に入社し、雑誌『03 TOKYO Calling』創刊編集部に所属。以後、書籍編集者として文芸書、思想書、美術書等を担当し、2003年から現職。趣味は年間百泊する三浦半島三崎港での地魚賞味・調理。音楽・美術鑑賞。